月: 2020年2月

ペルペトゥア・メモ(8):聖遺物

 (9)の原稿を書いていて、待てよと思い付き、ググってみたら、なんと幾つかペルペトゥアとフェリキタスの聖遺物に行き当たった。最初の2つは、ドミニコ会O.P.所属のLawrence Lew修道士のウェブ写真の中にあった。残念ながら所蔵場所は不明である。

https://www.flickr.com/photos/paullew/6961176479
https://www.flickr.com/photos/paullew/6815062432/in/photostream/

 もう一つはフェリキタスで、University of Dayton所蔵の160を数える聖遺物の中にあった。大学だからもちろんちゃんとした鑑定書付きである。以下いずれもアメリカ合衆国の事例。

https://ecommons.udayton.edu/uscc_relics/37/

 他に大学関係では、University of Notre Dameにもペルペトゥアとフェリキタスの聖遺物がある由(http://faith.nd.edu/s/1210/faith/interior.aspx?sid=1210&gid=609&pgid=13647&cid=28385&ecid=28385&crid=0)。

 カトリック教会関係では、ミシガン州のKalamazooにあるSt Mary’s Catholic Church所蔵10数個の中にペルペトゥアもある。

 以前、フランシスコ・ザビエルがらみでイエズス会関係の聖遺物が出品されていたことを思い出したので、ebayのオークションも覗いてみた。あっけなくペルペトゥアとフェリキタスがらみで1件出ていた。しかしこっちは「Saints Perpetua and Felicity Kissing Reliquary」と表記されているように、聖遺物というよりは礼拝用の聖具のようで、価格は$1,125。他の多くが$300ー400なので、かなり高価で骨董的な価値があるのだろう。

 以下では、「ローマのフェリキタス」という165年頃の別の女性殉教者の聖遺物との触れ込みで$425で販売されていた(https://www.russianstore.com/en/online-store/catholic-reliquaries/item/1092-theca-housing-relics-of-saint-felicity-of-rome-martyr)他、フランシスコ・ザビエルなどのものも10以上販売中。他にも格安な聖遺物が以下で山ほど販売中。https://picclick.com/Antique-Reliquary-S-Felic-Can-Religious-283794401627.html

 ところでこの聖遺物調査をしていて気付いたのは、聖ペルペトゥアと聖フェリキタスの聖遺物は伝えられているのに、彼女たちと一緒に殉教したサトゥルスたち男性の聖遺物は見当たらなかった、という事実である。また、一見奇妙な事実にも気付かざるを得ないのは、彼女たちの故郷北アフリカで名のある教会で彼女たちにちなんで命名された教会が皆無であるという現象であろう(しかも、Basilica Majorumで発見された銘板だと、男性のほうが明らかに優位にある。参照、ペルペトゥア・メモ(9))。この逆転現象は興味深い。

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ペルペトゥア・メモ:(7)天への梯子

 ペルペトゥアの夢の中に出てくる「天に向かう(ヤコブの)梯子」La scala del cielo(di Giacobbe)に関して、以下の文獻から首尾よくフレスコ画の出版当時の残存状況のカラー画が入手できたので衆知します。

Joseph Wilpert, Roma Sotterranea : Le pitture delle Catacombe romane, Roma, 1903, tavole, Tav.153 ; testo, p.445, Fig.43.
 
 残存フレスコ画(カラー)はTav.153、復元線描画はFig.43、です。後者で、左右の図柄が同じなのはなぜ、と思っていたが、この原画をみたらWilpertの想像ということが今回判明。中央のイエス像も光輪はなかったのでは。出土場所は、Henri Leclercqによると( par Le R.P.dom Fernand  Cabrol, Dictionnaire d’Archéologie Chrétienne et de Liturgie, Paris, II/1, 1910, col.151-2)、cimetière de Balbineとなっているが、Wilpertでは、arcosolio dei Santi Marco e Marcelliano。製作年代は四世紀末となっているよう。

 この本は、国内では京都大学のみが所蔵していたので、コピーを取り寄せましたが、さすが京大図書館職員で、註記にTav.153, 164が出ているが、と問い合わせがあり、そっちも送ってくださいとお願い。半分当たりで首尾よく上記のカラー版が得られました。古書検索したところ、約90万円で購入可能です。どなたか私、というよりも上智大学図書館に寄附していただけると有難いのですが(^^)。

 実は上智大学には、なぜか以下が所蔵されてます。20年ほど前にそれを見つけたとき狂喜しました。でも・・・ドイツ語とはいえ、出版年など書籍データがイタリア語版とかなり重複しているので、ひょっとして同内容? 明日調べてみましょう。
 Joseph Wilpert, Die Malereien der Katakomben Roms ; Textband, Tafelband, Freiburg, 1903.

 調べたら、構成的に同じでした。かなり痛んでいるので、貴重図書にでもしてほしいと思う。さて、どちらが原文なのでしょうか。ドイツ語版は他に、立教大学、早稲田大学、東芸大が所蔵してます。

 なお、Via Latinaのカタコンベには、320-350年頃の次のフレスコ画がある。

 また、スペインのブルゴスには、四世紀中頃の日付の、以下のような石棺がある。その中央に梯子が。私は20年前に2夏がかりでカミーノを全踏破した。ブルゴス、レオン、そしてアストルガを通過したが、一生の思い出である。こんな石棺のことなど知りもしなかった。も一度行きたいと思うが、歩きではもう無理なのが悔しい。

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40年振りに再公開:ポンペイ「恋人たちの家」(I.x.11)

 時々覗いている「Archaeology News Network」(https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2020/02/pompeii-house-of-lovers-reopens-to.html)に情報が。今度、渡伊したら必ず突入しなければ。

 場所はI.x.11の、Casa degli Amanti。1980年の地震による修復がようやく終わって、この火曜日(2/18)からの公開らしい。確かに以下の写真ではぼろぼろであった。https://pompeiiinpictures.com/pompeiiinpictures/R1/1%2010%2011.htm

 この家の名称は、以下の落書きに依っている(上図の部屋13の入り口南側に面した、列柱廊10東側の壁):“Amantes ut apes vitam mellita exigent.” :「恋人たちは、蜜蜂のように、蜜の(甘い)生活を営む」[CIL IV 8408a];この落書きの下に以下も見える。”Velle”:「そうあれかし」[CIL IV 8408b]

アヒルの下にも落書きがある。”・・・ Amantes cureges” [CIL IV 8408cでは、”Amantes Amantes cureges”と読んでいて、最後の単語は‘scil.curae egentes, vel egeni sunt’と注釈つき].「恋人たちは恋人たちの世話を焼きたがるものだ」といった類いの意味か。

 このフレスコ画の近くに、以下もあるらしい。”C(aius) Ann(a)eus / Capito / eq(ues) coh(ortis) X pr(aetoriae) / c(enturia) Grati”  [CIL IV 8405]:ガイウス・アンナエウス・カピト、第10近衛歩兵連隊騎士、グラトゥス中隊出身

【ついでに一言】ポンペイ関係でググっていたら、たぶん新顔で「Visitare Pompei」(http://www.visitarepompei.org/buy_now.php?order=23 )という画像解説に行き当たった。24時間使用で6ユーロ。かなり期待して試しに購入して見たが、まったくの期待外れだった。誰にもお勧めしません。金返せ〜。

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ペルペトゥア・メモ:(7)総督代理Hilarianusについて

 『受難記』VI.1以降で、とある都市の公共広場でペルペトゥアたちの裁判が開催されたことがわかる。その場所を研究者たちは例外なくカルタゴと考えてきているが、当時、属州総督=裁判官は管轄属州の主要都市を巡回していたので、なにも州都(今の場合はカルタゴ)である必要はないが、まあ州都での出来事としたいわけだ。彼女たちが収監されていた場所から歩いていける範囲に円形闘技場があったので、カルタゴがその条件を満たしているという事情もある。

 彼女たちの裁判官は「財務管理官procurator ヒラリアヌスHilarianus」だった。元老院管轄属州で最高の格式を誇っていたアフリカ州には当然執政官格の元老院身分が派遣されるのが常だった。ヒラリアヌスは「そのとき属州総督proconsulで死去したミヌキウス・ティミニアヌスMinucius Timinianusの座にいて死刑執行権ius gladiiを拝命していた」、要するに現職の総督が在任中に死亡したので、後任総督が派遣されるまで(ないし、次年時になるまで)、臨時に勅命によりおそらくカルタゴないしその近辺で皇帝直轄領の財務管理官だったヒラリアヌスが任命されたのであろう。Rives, 1996, p.5は、その線で年給金が10万セステルス級のprocurator provinciae Africae tractus Karthaginiensisと、20万級のProcurator IV publicorum Africaeの二つの候補を挙げ,後者と想定している。それが騎士身分の最高位であり、アフリカ属州のproconsulの代理にふさわしいとの判断からである。

 さて、その元来の職掌からヒラリアヌスは宮廷奴隷ないし解放奴隷出身者だった可能性が高い。そもそも命名法的にも本『受難記』で故意にcognomenのHilarianusのみで記され、他方proconsulという職名から元老院身分が確実な前任総督が姓名二単語Minucius Timinianusで表示されていることからも、それは傍証されるだろう。編纂者は冷厳に彼らの身分的違いを見極めていたのだ。

 奇しくもこのヒラリアヌスについて、同時代人テルトゥリアヌスが212/3年頃書いた『スカプラへ』ad Scapulam,3.1で以下のように述べている。「私たちは嘆かざるを得ません。いかなる都市も私たちの血を流して罰されずにはいられないだろうからです。属州長官ヒラリアヌス下でsub Hilariano praesideのようにです。人々は私たちの墓所の土地についてde areis sepulturarum nostrarum叫んだのです。’(キリスト教徒のための)土地などないareae non sint!’。(ところが)なくなったのは、彼ら自身の脱穀場areaeのほうでした。というのは、彼らは彼らの収穫物に事欠いたのです」。すなわち天罰として天変地異が異教徒を襲った,という意を同音異義語のだじゃれ含みで述べている(参照、大谷哲訳『歴史と地理』No.664, 2013-5, p.30;但し要修正)。ここで注目すべきは二点で、まずpraesesと当時もっぱら騎士身分担当属州の総督に付与された名称を使っていること。即ちここでも書き手のテルトゥリアヌスはヒラリアヌスの所属身分を明確に意識して殊更明記している。またそこでの叙述内容からは『受難記』とは別のキリスト教徒迫害理由が浮かび上がるはずである。

 1968年に公表された2つの碑文史料(A.Garcia y Bellido, Lapidas votivas a deidades exoticas halladas recientemente en Astorga y Leon, in : Boletín de la Real Academia de la Historia, 163, 1968, pp.203-204, figs.4 & 5 ≒ AE, 1968, 227, 228)を投入して、新たな知見が展開されるようになった。出土場所はスペインのレオン県のアストルガ。私は20年前に2夏がかりでカミーノを全踏破した。ブルゴス、レオン、そしてアストルガを通過したが、こんな碑文のことなど知りもしなかった。

 T.D.Barnes, Tertullian, Oxford, 1971, p.163 ; W.Eck, Miscellanea prosopographica, ZPE 42, 1981, p.235f. ;J.B.Rives, The Piety of a Persecutor, in: Journal of Early Christian Studies, 4-1, 1996, pp.1-25(idem, Religion and Authority in Roman Carthage from Augustus to Constantine, Oxford, 1995, p.244);Barnes, Early Christian Hagiography and Roman History, Tübingen, 2010, pp.304-7.

p.203 fig.4:男神たちと女神たちーー万神殿内で嘆願されるが正当かつ当然であるーーに、P.Aelius Hilarianus、Publiusの息子、皇帝財務管理官は、子供たちと共に、正帝・・・の安寧のため・・・

p.204 fig.5:Jupiter Optimus Maximus,、Juno Regina、Minerva Victrixに、P.Aelius Hilarianus、Publiusの息子、皇帝財務管理官は、子供たちと共に、敬虔かつ豊穣の正帝・・・の安寧のため・・・

 名前が削り取られた皇帝(たぶんコンモドゥス帝:在位180-192年)の治世下にスペインのアストルガで、Publius Aelius Hilarianusが財務管理官として奉職中に、子供たちと共に皇帝の安寧を願って2つの奉献を行った。ここでのヒラリアヌスが、203年ごろに北アフリカ属州カルタゴ付近に派遣されていた者と同一人物、と考えるわけである。それを、H.-G.Pflaum, Les Carrières procuratoriennes équestres sous le Haut-empire romain, Suppl., Paris, 1982, p.117 や、W.Eck, RE Suppl., XV, 1978, p.3, 69a)は、彼の職名を同じく20万級のprocurator Hispaniae Citerioris per Asturiam et Gallaeciam、ないしprocurator Hispaniae Taraconensisであると結論している。そして彼の父の名前もPubliusだったことが分かる。

 献辞文の一つはよろずの男女の神々に捧げられ、もう一つは帝都ローマのカピトリウムの三対神(ユピテル、ユーノー、ミネルウァ)に若干古風な用語で献辞している。これは、彼がローマ伝統の諸神格を崇敬していたことを示しているはずで、これを根拠にRivesらは、かく伝統的宗教に敬虔だった人物が、キリスト教徒たちのごとき蛮族的諸迷信に好意を示すことなどありえない、他方、他の属州総督たちは多くの場合、彼ほど宗教や迷信の諸問題にたいして興味を持たず、ただ単に彼らが理解した限りでの、一般的な諸先例に準拠して法律や命令を実施していたにすぎない、要するに、ヒラリアヌスをかなり熱心な異教信仰者として描いているわけである。しかし、そもそも公人としての宗教儀礼を個人的宗教心の表れと直結するのは先に結論ありきの安直すぎる理解だし、『受難記』を読む限り、私は、彼自身もレベル的に他の総督たち以上に熱心にキリスト教迫害していたとは思えない。たまたま副帝ゲタの誕生日祝賀の下達があり、それに必要な死刑囚を得ようとしただけのこととみたいのだが、上記テルトゥリアヌスの表現からは、キリスト教徒の墓地所有が問題になっていた可能性がある。真実は奈辺にあったのだろうか。

 さて若干余談ながら、同様に碑文研究から、このカルタゴのヒラリアヌスの子孫も孫の世代まで想定されている。息子P.Aelius Apollonianusとその息子でPrimipilaris職にあったP.Aelies Hilarianusである。

 続きとしていずれ、先任総督ミヌキウス・ティミニアヌスについて言及するつもりである。

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感染症の歴史:飛耳長目(27)

 今般の武漢ウィルスの流行で、なんと北朝鮮や大韓民国、さらには中華人民共和国の崩壊・衰退が、ウェブ上に希望的観測からか、それなりの知識人によってまことしやかに書き込まれていますが、まだまだパンデミックといえる状況では全然ありません。文字通り「大山鳴動鼠一匹」*かと(沈静化に努力されている当事者の尽力は言うまでもなく尊く、感染者や死亡者の方々にはお悔やみを申しあげますが)、効果がそうあるとは思えないマスクが店頭から消え去ったり(時節柄、これから花粉症対策で必要な私はたいへん迷惑しております)、またまたマスコミが扇動してちょっとはしゃぎすぎのような気がしてなりません。ま、発生源が憎まれっ子の中国ということもあるのでしょうが。「パンデミックでなく、インフォデミック」https://mainichi.jp/articles/20200205/k00/00m/040/035000c

 20世紀初頭、今とは比べものにならないくらい人々の移動が少なかった時代に、全世界で5千万人とも2千5百万ともいわれる死亡者(死亡者数です、念のため)をもたらしたのが、スペイン風邪でした(実際の発生源はアメリカ・カンザス州の軍施設だったとか)。これこそパンデミック。https://www.mag2.com/p/news/436737;http://idsc.nih.go.jp/disease/influenza/pandemic/QA02.html

 また昨年来、アメリカでは通常型のインフルエンザが猛威を振るっており、感染者数1900万人、死者数一万人を越えている由。これこそパンデミック、なのに、我が国では報道もされず、もちろんいつものよう米国人は入国拒否もされず。https://www.nikkei.com/article/DGXMZO55312830W0A200C2000000/

 これまでなぜか表だって主張されることはあまりありませんが、感染症が実はかくれた大きな爪痕を歴史に残してきたのは事実です。ヨーロッパ中世のペスト(黒死病)や、大航海時代のインカ帝国住民を襲った天然痘は有名ですが、この視点は西洋古代史でも、後2世紀後半から3世紀の地中海世界の衰退を考える時、有効でしょう。古代世界では、自然環境が自ずと文明圏の境界となり、それぞれ在地の風土病と折り合って生きていましたので、その境界を越えて侵入した外来の一定数の宿主の移動(多くの場合、軍事行動)が,自文明圏に未知の感染症を持ち込み、大流行をもたらしました。政治や経済の変化ばかり取り上げるのではない歴史がもっとあっていいと思っているのですが。昔より格段に危険度は高くなっているのですから。

 お医者さんのこんな書き込みもある。「新型コロナウィルスが他の感染症に比べてどのくらい恐ろしいのか、グラフで比較してみた【COVID-19】【2019-nCoV】」https://kaigyou-turezure.hatenablog.jp/entry/2020/02/16/111145

【参考資料】新型肺炎とSARS、MERSの違い:しかしいずれにせよ、この程度ではパンデミックとはいえないような。

      感染者数  死者数   致死率 患者1人から感染する人数

SARS 8096人 774人  9.6% 2~3人程度

MERS 2499人 861人 34.5% 1人か1人未満

新型肺炎 8243人 170人  2.1% 2.2人程度?

 (出典は、WHOや米医学誌ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシンなどのデータによる。新型肺炎は30日現在。SARSは2003年の終息時、MERSは19年12月31日現在:https://mainichi.jp/articles/20200131/ddm/003/030/048000c?cx_cp=nml&cx_plc=bnr&cx_cls=newsmail-cp_article):もちろん、中国は統計操作では我が国政府以上に定評ありますので、あてになりませんが。2/13中国発表で、感染者数6万、死者1360 人:一説では今回の実態は10倍とか:となるとすでにパンデミックと言えるかもです。以下は、田中宇氏による悲観論の最たる見解。http://tanakanews.com/200212virus.htm

*あれれ、これって語源が、Horatius, Ars Poetica,139の「Parturient montes, nascetur ridiculus mus :山々が出産しようとしている。一匹の滑稽なネズミが生まれるであろう」で、ギリシア語の諺からのもの、とは知らなかった。「山々」が複数で、「ネズミ」が単数なのがミソか。ところで、私は今日の今日まで中国起源で「泰山」だと思い込んできた。どこで刷り込まれたのやら。

【追伸1】一方でこんなニュースも。ご冥福をお祈りします:「新型ウイルス、最初に警告の医師が死去 中国・武漢」https://www.afpbb.com/articles/-/3267127?cx_part=top_latest&fbclid=IwAR2pBmUoLw09jIMMesQuWcJdPpA8wJht6SlbWgfhkE1DgPFQ_F-7AipdH2E

【追伸2】2月7-9日、法事で故郷広島に来てます。こちらでマスクを買って帰ろうと目論んでいたのですが、のきなみ見当たりません(^^ゞ。2/9に帰京しておやっと思ったのですが、出た時よりマスクしている人がごっそり減っているような。よもや入手不能のため? 2/15:自宅近くのセブンイレブンでマスクが出回り始めた。そのせいかまたマスク姿が増加。なんとなく安心。

【追申3】田中氏の、ますます悲観的な続報、しかし早くも3日後に撤回。これでは所詮素人のインフォデミック。まあ言いっ放しの言論人ばかりの中で撤回するだけましであるが、いずれにせよ知識人を装うのなら悲観論を煽る素人談議的書き込みはやめてほしい。アクセス数を増やすためと言われても仕方ないだろう。http://tanakanews.com/200215virus.htm;http://tanakanews.com/200218virus.htm

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脳が溶けてガラス化?嘘でしょ:エルコラーノの遺体より発見

 これまで考古学関係でチェックしてきた「Archaeology News Network」の2020/1/23に「Mount Vesuvius Blast Turned Ancient Victim’s Brain To Glass」が掲載されて、わずか4日後に以下の邦語情報が出た。「脳が溶けてガラス化、窯焼きも、新たに浮上したベスビオ噴火の恐るべき死因:2000年前の遺体から読み解く死の真相、議論続く」https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/012700049/

 簡単な原文を邦文のほうはだいぶふくらまして書いているが、それも事情を十分知らない日本の読者に向けて、親切というべきであろう。ただガラス質が見つかったのはただ一体のみ、それもcollegium Augustalium(Ins.VI.21-24)からの出土である。遺体の出土場所は、おそらく(a)から玄関に入って右隅の部屋(e)であろう。ここは最近中を覗けないようになってしまったが、これまでアウグストゥス礼賛会の管理人部屋とされていて、ベッドもあって、1961年にそのベッド上で25歳ぐらいの男性の遺骸が見つかった。オリジナル情報は、以下。『New England Journal of Medicine

右の写真は部屋(e)の内側から北(b)方向を写したもの

 ともかく現段階では、子細はまだ不明としか言いようがない感じだが、室内でもあり、頭蓋骨の破裂時にガラス容器が混入しただけのことのように思われるが、もちろん今回発表した研究者はその可能性も念頭に置いて検討し、だがそう結論しているようであるが、さて。

【追記】この記事、未だ読まれているようなので、2020/4/7の続報を。

 遺体の頭蓋骨から硝子質が発見され、その中から人間の脳組織や毛髪に見られるいくつかのタンパク質と脂肪酸が同定されたという、科学者たちの仮説は、高熱が文字通り被害者の脂肪と体組織を焼き払い、脳のガラス化を引き起こしたというものだ。この遺体は、1961年に当時の所長アメデオ・マイウリが、完全に焼け焦げて灰で埋まった木製ベッドの中から見つけたもの。

 60年振りの再調査で、一連の生体分子およびプロテオミクス分析によって、これらの遺骨の中に、人間の脳や髪の毛のトリグリセリドに典型的に見られる一連の脂肪酸と、とりわけ人間のすべての脳組織に非常に多く見られる7種類の酵素のタンパク質を発見し発見することを可能にした、と。

 実は、考古学の分野でも、医学・法医学の分野でも、このような残滓が発見されたことがないという点で、客観的に見て世界でも類を見ない発見であるが、ガラス固化は考古学で知られているが、これまでのものは、基本的には植物遺体に関するものである。人類学的サンプルの研究はこれからの趨勢と考えられている、とのこと。

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