月: 2020年12月

消えゆく庶(賤)民史:からゆきさん

 「「1日で49人の相手を…」過酷な労働、波乱の人生赤裸々に:「からゆきさん」肉声テープ発見」(https://mainichi.jp/articles/20201228/k00/00m/040/337000c?cx_fm=mailyu&cx_ml=article&cx_mdate=20201229)

 昔、山崎朋子作『サンダカン八番娼館』(1972年)を読み、のちに映画(1974年)も見た。いや、順番はこの逆だったかもしれない。いずれにせよ、今回のテープと内容は驚くほど似ているように思う。

 しかし今回の記事の中で、近世社会では娼妓(しょうぎ)奉公をしていた女性も奉公を終えれば結婚をし家に入るという経路が確保されていたが、むしろ、明治以降の近代化に伴って廃娼運動などをきっかけに娼婦への差別、蔑視が強まった、という所見は不意打ちだった。キリスト教的な正義感による救済事業の持つ負の面が出ていたわけである。

 私は「からゆきさん」で念頭に浮かぶのは、彼女たちの出身地が天草・島原なんかに多かったので、どうしても中に隠れキリシタンの子女がいたんじゃないか、と思ってしまうのだが。

【追記】

山崎朋子:1832-2018 享年86歳
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ポンペイで新発掘の居酒屋と落書き

https://gigazine.net/news/20201228-pompeii-fast-food-stall/;http://pompeiisites.org/en/comunicati/the-ancient-snack-bar-of-regio-v-resurfaces-in-its-entirety-with-scenes-of-still-life-food-residues-animal-bones-and-victims-of-the-eruption/

今回は、なぜか日本の報道も早かった。

 色があざやかで、往時の様子を窺わせている。場所は、このところ新発掘が連続している第5区のどこかであろう。

【追記1】ようやく私の定番チェック先のウェブに載った。https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2020/12/street-food-shop-emerges-in-pompeii.html

【追記2】このタウンターの犬の箇所に落書きがあるとの情報で、さっそくチェック。上部の黒い枠の部分でみっけ。

https://www.youtube.com/watch?v=xgd4FVyKUdI&feature=emb_rel_end

NICIA CINAEDE CACATOR」:「ニキアスよ、ホモ野郎よ、ウンコ垂れ!」といったあたりか。

 ところで妙なことに気付いてしまった。このカウンター下の絵は、左から吊り下げられた二羽の鳥とニワトリと犬であるが、最初の二つはまあ食材でもあろうが、右端の犬はちゃんとつながれているのでよもや食用ではなく、飼い犬だと思うが、そうだとしたらなぜここに描かれているのか、ちょっと気になりだしたのだ。

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紙と石:事実はどちらに

 「『石に刻まれた江戸時代』(関根達人著):危機の歴史に学ぶ」(https://mainichi.jp/articles/20200622/dde/014/040/013000c)

 今日、「戦後75年に学ぶ戦訓」(飛耳長目(72)掲載)を読んだとき、その一ヶ月前のこの記事が目にとまった。

 私も東日本大震災で先人たちが残してきた「津波碑」「災害碑」の存在を初めて知ったくちである。標記の記事は、江戸時代に災害を報告している藩文書(紙)では被害を軽く報告しており、事実はむしろ村落共同体で建立した「供養塔」(石)に刻まれているほうにあったのでは、というのが趣旨である。お役人の報告書の軽さと、身近な肉親を失った庶民の血を吐くような思いが、素材の「紙」と「石」に象徴されているようで、胸を打つ。村落共同体は、次の瞬間には隠匿・抹殺もされやすい「紙」などはなから信じておらず、手間がかかる「石」という素材に永遠の遺言を刻み込んでいたわけである。

 ただ、ここでもお上のやることを信じてはいけない。「石」は同時に支配者のプロパガンダの道具にもなるからだ。

 古代ローマ史研究において、私はこれまで二大史料群として当然のようにこの「紙」(文書史料)と「石」(碑文史料)を使ってきたが、庶民の「石」に寄せてきていた思いの深さに今まで気づくことはなかった。改めて考えてみると、古代メディア素材としては、前提条件として文字が読め、その格納場所を探知できるノウ・ハウが必要な「紙」よりも、公の場所で否応なしに視覚的に目に入る「石」や「青銅」製の立像や、その台座の「石」に刻まれた銘文のほうが優れた媒体であったわけである。もちろん、支配者側も当然それを見抜いておりおおいに利用していたわけだが、遅ればせながらこのことに今回気づくことができて、本当によかったと思う。

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殉教者再々考

 私の研究の出発点は、キリスト教迫害史だった。駆け出しの最初の20代の時はともかく、研究に年期が入ってくると、「殉教者になる人たちのメンタリティー」「殉教伝記者のメンタリティー」が気になりだした。どういう連中が殉教するのか、そしてその記録を残した殉教伝記録者たちはいかなる選択基準で叙述しているのか、といったことである。端的にいえば、「〇〇と××の受難記」のなかに、表題に挙げられた以外の殉教者・告白者が、多くの場合無名で登場していて、そういう彼らは殉教者だったりするのに、とりあえず記録者の主要叙述対象にはなっていない。これをどう考えるべきか。こういったことを含めて原点回帰で研究の最終仕上げでいずれ触れたいと思っているが、ここでは冒頭の件に限っての現段階での私の結論を述べれば、さあ殺せと自爆テロ的な意気込みで(もちろん、皆が皆そうであるというわけではないが)官憲に出頭する確信犯的な「自発的殉教者」以外の場合、「逃げ遅れた愚直な信者」がたまたま探索に引っかかってしまった、という印象が強い。かわいそうなくらい要領が悪いのだ。

 研究者にもご多分に漏れず立場とか忖度とか色々ある。そこで、研究者の手垢がついていない原史料レベルを細かく読み解いていくと(もちろん、原史料といえどもそれを書いた記者・編纂者の傾向性の検証は必要)、司教・司祭・助祭といった高位聖職者は、危険を察知すると敵前逃亡的に、真っ先に避難・逃亡・潜伏し、あるいは背教する。そして嵐が収まると、否、収まりそうだと見当つけると、ちょっと弁解を述べて現職復帰する(そのまま棄教する御仁も多かったはずとはいえ)。こういった要領のよさで生きてゆくへたれ連中の名前は、該時代において侮蔑すべき存在なので、当然記録として残存しない(あっても例外的だ)から残らない、誰かが義憤を感じて書き残していても抹殺される、ときにどっかの国と同じで、制度教会ぐるみで。その挙げ句の残存伝承作品が「受難記」なのだ。

 いや、受難記には殉教した司教や司祭も登場していると反論されるかもしれない。そう、彼らはごく少数の実に貴重な存在だったからこそ、記録に残されたのだ。もちろん一般信徒とて同じだ。殉教者は信者のごく一部に過ぎない。それでも色んな意味で著名人だからこそ名が残ったわけだ。3世紀中盤以降の大量棄教に直面し、彼らの存在を免罪符にし、否、かの殉教者たちを称揚することが自らの弱さへの言い訳となるという計算あってのことだ。そしておそらく官憲側からすると、彼らは見せしめのために検挙・処刑された。逆に言うと、それで沈黙してしまうはずの広範な層が存在していて、そのもくろみ通りの結果となるのもいつもの通り。

 ここまでお読みいただいた皆様の中で既視感にとらわれる人がいるかもしれない。殉教者問題はまるで、モリカケ問題・サクラ問題、そして最近の「ガースー」総理現象とそっくりだなあ、と。本来、粛々と法規を守るべき立場の者が、権力におもねって真っ当な対応をしないのが、残念ながら世間の、いや日本の現状なのである(決して今だけのことでもない)。当事者にとっていいわけの材料はいくらでもある。学術会議問題だって、権力側がもう一歩強く出た場合、さてどうなるか、これは「みもの」だと私は思っている。

 だからこのままでいいのだ、と私は言いたいのではない。要領の輩が跡形もなく四散逃走したあと、居残ってしまった不器用で愚直な存在が引っ立てられていくわけだ。キリスト教的にいうとそれが殉教者の大方の姿である。彼らは転ぶという選択肢すら頭に浮かびはしないほど愚直なのである。彼らへの処断は権力側からすれば単なる見せしめに過ぎないが、彼らをこそ我らは注目しなければならない。だから赤木俊夫氏の自(恥)死を黙視してはならないのだ(https://www.tokyo-np.co.jp/article/61894)。

【追記】2021/1/21深夜にスターチャンネルの「見逃し」で以下の映画を見た。テレンス・マリック監督「名もなき生涯」”A Hidden Life“(2019年:アメリカ・ドイツ)。第2次大戦中に、ナチス・ドイツに併合されたオーストリアを舞台に、良心的兵役拒否の立場から、度重なる従軍命令とナチスの軍門に降った教会の指示に従わず、ひたすらに自分の信念と妻や娘への愛に生き、36歳で処刑された実在の農夫フランツ・イェーガーシュテッターの生涯を描く。

Franz Jägerstätter(1907-1943:享年36歳)

 大自然の中でひっそり生きてきた山村の一介の農夫が「無実の人を殺せない」という一点で徴兵の忌避を表明する。そのため彼、彼の家族は周囲から孤立していく。彼はフランシスコ第三会に入り、地元教会の聖具係でもあった。だが、村の司祭も司教も助けてくれない。信念を貫こうとすることで皆が不幸になっていく。五度目の召集令状が来て、苦悩は頂点に達する。1943/3/1に出頭して宣誓拒否し逮捕勾留。同年8/9(おお、私の誕生日だ)にギロチンで処刑死。その中で家族は村八分の目に会い、彼の死後もそれは続く。ウィキペディア情報によると、彼には生い立ちに問題があったようで、若い頃は荒れていたが、妻との出会いで変わったらしい。

 世間的にまったく忘れ去られていた彼は、1964年以降になって研究者たちに見いだされ、2007年にベネディクト16世教皇により列福。しかし、これではたして遺された家族が受けてきた悲しみは癒されたのであろうか。彼も幸福だったのだろうか。「私に力を」「神はなにもなされない」。

 こういった視点で「受難記」は読まれれなければならない、と思う。

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失われたアスリート・モザイク:Ostia謎めぐり(4)

 オスティア・アンティカ遺跡にはとても優れたHPがある。それが「OSTIA:Harbour City of Ancient Rome」(https://www.ostia-antica.org/)である。私など目的の箇所をチェックしようとすると、まず「Topographical Dictionary of Osita」をクリックして、さらに該当地区をクリック、出てきた画面でもっぱら「Plans」の方をクリックして目的の場所にアクセスするのが常だった。どうやら私は画像のほうを好むらしい。

 ところが、その「Plans」に表示されていない遺跡について、だが実際には解説や写真が掲載されていることは、著名なSinagoga(IV.xvii.1)を扱ったときの体験で知っていた。実際には、https://www.ostia-antica.org/regio4/17/17-1.htm が存在しているのである。今回運動競技関係を調べていて、やはり地図では示されていない場所(上記と同じくIVに)にとんでもないモザイクがあるらしいことを、論文(Zahra Newby, Greek Athletics as Roman Spectacle:The Mosaics from Ostia and Rome, Papers of the British School at Rome, 70, 2002, p.195, FIG.8)掲載のピンぼけの白黒写真で知った。え〜なにこれ、とビックリ仰天、市街地からSinagoga へと行くVia Severiana 沿いの北側は中途半端に発掘されていて、それがどうやら浴場らしいことは実地に目撃していたので知っていたが、そこにこんなモザイクあったなんて知らないよ〜、と疑心暗鬼でググってみたら、いとも簡単にSinagogaと同様、上記HPに記載されてることも判明した。それが、「Terme di Musiciolus」(IV.xv.2: https://www.ostia-antica.org/regio4/15/15-2.htm)である。結局それは「Plans」ではなくその上の「Text menu」を子細に眺めればあったのだ。どうやら「Plans」の原図が古いままで、その後の新発掘を反映していなかったようなのだ! 

上図の左下、ちょうど縮尺の右先がシナゴーグ:ここ付近は多くの遺跡地図から省略されている

 そこで問題の写真が以下である。平面図では街道沿いに2つの特徴的な半円形のcaldariumの浴槽が見えるが、その西側のほうの「7」に件のモザイクが埋め込まれていた。「いた」と表現したのは、解説とキャプションによると、なんと「stolen」という文字があるではないか・・・。なんと発掘直後に盗まれたらしい。オスティア遺跡を文字通り数限りなく経巡ってきた私がこれまで全然気付かなかったのも無理はない・・・(ま、貴重なモザイクは往々にしてシートや破砕レンガ風のガラで隠されてはおりますが)。しかもこの建物は壁面構成から、2世紀、3世紀初頭、4世紀初頭の特徴が見て取れる複合構造体で、浴場になったのは3世紀初頭と見なされている。下部右の写真からも、その後4世紀初頭の壁Opus vittatum がモザイクの上を覆っている様子がみてとれるので、ここのモザイク床の製作は3世紀初頭なのであろうか。それでなくともオスティアのモザイクは白黒が普通で、多色は珍しい。本来は別荘地化した4世紀以降と言いたいところなのだが。

 写真の周囲がどうなっているのか、このモザイクの全貌を知りたいところだが、HP掲載の写真のほとんどすべては、Floriani Squarciapino女史の 1987年の論文掲載のものらしいので、現在コピー発注中。たぶん年を越さないとこないだろう。HPの解説によると、浴場名となったのは一番上に残存している男性「MVSICIOLVS」に依る。彼一人だけ衣を着て左手に棒をもっていることから、トレーナーないし審判と想定されたからのようだ。あと4名の肖像と名前(といってもニックネームだが)が残っているが(「FAVSTVS」「(V)RSVS」「LVXSVRIV[S] 」「PASCEN[TI]VS」)、いずれも裸であることから競技者たちである。ちなみに、この選手たち、アレクサンデルやヘリックスのような著名人ではなくて、他では名前が知られていないそうだ(Newby, p.195 は、拳闘士などでよく見ることある名前、としているが)。この画像では、競技の種類を判定する材料もみあたらない。Cf., Eds. par M.Cébellillac-Gervasoni, M.Letizia Caldelli, F. Zevi, Epigrafia Latina Ostia:Cento Iscrizioni in Contesto, Roma, 2006( 2010), pp.291-92, no.87:Mosaico con nomi d’atleti.

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「トイレ歴史学」構築への号砲:トイレ噺(19)

 このところ地下鉄で読んでいたのが、湯澤規子『ウンコはどこから来て、どこへ行くのか:人糞地理学ことはじめ』ちくま新書、2020/10/10。どういう偶然か栞がわりに挟んでいるのは、昨年8月に池袋で一か月ほど開催された「うんこ展」の色鮮やかな入場券なので、ぶり返した三密の地下鉄で優先席に着座して読んでいると、隣の人のささやかな動揺を感じることできて、とても幸せである。

開催初日の8/9って私の誕生日じゃん。なんとウン命的な!  著者自身ご登場の販売促進

 本書の白眉は、筆者の専門の成果が再述されている第4〜6章であろう。私的に今のところ一つだけ注文があるのが、落とし紙を論じた第7章で、トイレットペーパーとティッシュの区別が若干曖昧であることくらいである。いや、水溶性かどうかということに言及してくれてたらよかったのだが。

 著者は自らの研究を「人糞地理学」と命名されているが、私もそれにあやかって、遅ればせながら「トイレ歴史学」を構築したいものと思った。なので、ググってみたら、まだお台場で「UNKO MUSEUM TOKYO」をやっているらしいので、この博物館に見学に行かなきゃ、と本気で思ってる。

 それにしても賑やかなことだ。↓ 老人には頭がクラクラする。大丈夫だろうか。

https://unkomuseum.com/en/tokyo/
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待望の本が届いてみれば・・・

 私の最近開拓中の研究分野に、キリスト教受難記との関係で、裁判を行ったローマ都市長官Quintus Lollius Urbicusがある。文献検索していたらこの姓名ずばりの本があったので、こりゃ凄いと注文していたのだが・・・、今日届いたものをみてガックリ。詐欺だ〜、と。

 なんと内容は、英文ウィキペディアに掲載されている彼関係の項目を編集しただけのもの(どっかで見たような表紙だとは思ったが。また、よくよく表紙を見てみると、左下の赤丸の中に白地にそう書いてあるが、注文時に老人には読めなかった)。ま、それはそれで、纏めてくれているので便利という見方もあるだろうが、老害の私にとっては文字が小さすぎて読むのが超ストレスの代物なのだ。これじゃあ拡大コピーにして読むしかない、となるとなんのことはない、ウェブから印刷するのと同じことで。その上、価格は送料込みで£43弱もしたのであ〜る。

 以下、付録。YouTubeで以下をみつけ(https://www.youtube.com/watch?v=aeWvXSDMEAw)、霊廟にはめ込まれた銘文の、これまで見つけえてなかった現物のコピーをとることできたのは、思わぬ収穫だった。ちなみに、CIL, VIII/1, 6705。

         ↑上から3段目、左から4つめ目の長めの石材部分    
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現代の奴隷制を直視すべし:飛耳長目(71)

 私は今回の新コロナ騒動が起こるまで、迂闊にも、ヨーロッパの農業が海外移民によって支えられていることを知らなかった。我が国でもその実態が報道されるようになってきている。以下を参照、但し有料:

「コロナが暴いた「奴隷制」:安い肉の裏で苦しむ移民たち」https://digital.asahi.com/articles/ASNDF7FVMNDDUHBI016.html?iref=pc_rensai_article_short_1102_article_12);

「トマト缶なぜ100円台で買える?:農業仕切るマフィア」(https://digital.asahi.com/articles/ASNDF7GKBND3UHBI02Y.html?iref=pc_rensai_article_short_1102_article_13)

 考えてみると、古代世界を考える時、奴隷制を抜きにしては考えられないという認識はあったが、それは研究者たちにとってもそのはずで、しかし、それはあくまで古代社会でのことで、現代社会とはそう連結されてこなかったような気がする。しかし教科書的に、古代ギリシアと区別される古代ローマでの奴隷制を論じ得ても、現代社会の欧米や日本でそれが温存されていることからは、目が塞がれてきたというか、目を塞いできたような気がする。すなわち現代社会での奴隷制の存在の分析(解決するなどというのはおこがましいが)に何の役もたってこなかった古代奴隷制研究ではなかったか。

 日曜日の朝、いつも妻と一緒に見て和んでいるテレビ番組「小さな村の物語イタリア」(BS日テレ)は、もう300回を越えている長寿番組だが、そこには海外労働者は出てこない。そして家業を継ぐ子どもたちの連続だ。ひょっとして今はなき古き良き時代を演出しているのだろうか。https://www.bs4.jp/italy/#summary

 NHKでやっている日本版の「やまと尼寺:精進日記」も時々見ているが、これも今は失われた生活再現。https://www.nhk.jp/p/ts/78293ZQNMM/schedule/

【追加】2021/1/8記

「米国で400年続くカースト制度:トランプ人気の追い風に」(https://wedge.ismedia.jp/articles/-/21236)

 この問題を解決しない限り、アメリカは民主主義国とはいえないはずだ。なのにどうしてアメリカは自由主義世界のリーダー顔をすることができるのだろうか。えっらそうに中国のことを言うことができるのだろうか。この解説分の最後付近に以下のように書かれている。「本書を読んで初めて、経済的に恵まれない白人の労働者たちが、なぜあれほどまで熱狂的にトランプを支持するのかが分かった。一番下の階級に属するはずの黒人たちに、社会的な地位において追い抜かれてしまうのではないかという恐怖心が根底にある。そうした不安を忘れさせてくれる、頼れる白人のヒーローがトランプだったのだ」。

 この構造はまさしくナチス時代のドイツのみならず、西欧全体においても存在した。

 今日、またやっていた映画「フォレスト(うすのろ)・ガンプ」で、主人公が高校時代にいじめられる場面で、彼を追い回す車に南軍のステッカーが張ってあるのを初めて見つけた。フォレストの名前自身も「KKK」団の創立者だし、アラバマ的背景をなしているというべきだろうが、ちらちら出てくる差別問題への製作者の意図と距離を私は計りかねている。

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キリスト教徒?Helix

 拳闘士がらみでオスティア遺跡のモザイク扱っているうちに、Helixなる人物の背景らしきものが分かってきた。一部の研究者たちが、墓碑銘を根拠に、故郷は小アシア半島フュルギア地方のEumeneia(現在名Ishikli)で、Helixはいわば芸名で(ἐπίκλην  Ἑλιξ)、本名Aurelius Eutyches、そして故郷では名士になり参事会員身分の義務も免除されていたこと、さらにはどうやらキリスト教徒であり、となると記録に残る最初のキリスト教徒運動家だった、と主張しているのだ。

 我ながら思いがけない展開になったきた。だから面白くて止められない。ただし、この墓銘碑情報、大昔どこかで目にしていたような気がしている。なにせ必読文献には、19世紀末のW.M.Ramsay,The Cities and Bishoprics of Phrygia, Oxford, UP, 1895 (この本、我が書棚を見てもみつからないし、我が図書館にもないのはおかしい。ひょっとして数年前に消火スプリンクラー装置の誤動作で9階が濡れたとき処分されたのか。私が寄贈した美術関係が見るも哀れな状況となっていて、これにはまったくもってやりきれない思いだ)や、20世紀初頭のW.M.Calder ら記憶に残るおなじみの研究者が名を連ねているからだ。今、関係文献を急いで収集している。昔も集めたはずだが、それを探すよりも今やググって入手した方が早いからので(すみません、コピー類の保管は乱雑なんです)。しかし肝心の墓碑銘の写真が見つからない。それもそのはず、どうやら1922年に宗教対立の中でイスラム教徒に破壊されたらしい。幸い2通の読み取りは残っていてということなのだ(Calder,Bulletin of the John Rylands Library, 13-2, 1929,p.257)。「はやぶさ2」ではないが、オスティアが奇縁で40年振りに私の念頭に舞い戻ってきたわけである。

 そんな中で、見つけたのが以下の写真。別々に掲載されていたのを合成してみた。E.H.Buckler, W.M.Calder & C.W.M.Cox, Asia Minor, 1924.III: Monuments from Central Phrygia, JRS, 16, 1926, 204(p.80-82), PL.XII,204b, c. これについてはいずれゆっくりと(死んでからかぁ(^^ゞ)。

 なお、エウテュケスつながりで、こんな写真もヒットした。元写真は、W.M.Caldar, Early-Christian Epitaphs from Phrygia, Anatolian Studies, 5, 1955, p.33-35, No.2(=B.W.Longenecket, The Cross before Constantine:The Early Life of a Christian Symbol, Minneapolis, 2015, p.115)。出土場所はGediz近くのCeltikcide(現在、といっても65年も前だがKutahiaの倉庫に保管、と)。なるほど、隠れキリシタンのマリア観音よろしく、さりげなく(といっていいのだろうか (^^ゞ)右手のひらに十字が(これはパンの切れ目を示している)、左手下にはブドウの房が見えているので、パンとワイン、聖餐式を示しているわけだ。我らのエウテュケスよりは1世紀半も先輩である。

 ただし、古い欧米の研究者は何でもかんでもキリスト教に結びつける傾向があるので(それを感じてかつて扱うのを遠慮したのだろう)、パンクラティオン競技者ヘリックスがキリスト教徒だったと判断するのはやはり慎重でありたい、と思う。論より証拠、今回の件で偶然見つけた同姓名のAurelius Eutychesには以下もいる。幸いこの墓銘碑には解説文がついていて、アテナイのKerameikosの古代墓地出土、「Piraeusの」「後3世紀末」といった情報が記されていたので、即、別人と判明。一族でもなかろう。帝国東部にはEutychesさんは多かったようだ。

 

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マインツのドルスス顕彰建造物

 エウトロピウス『首都創建以来の略史』のラテン語改訳中に、VII.13.1に「(皇帝クラウディウスは)カリグラの叔父で、ドルススーーモゴンティアクム(現マインツ)に記念建造物があるーーの息子で、そしてカリグラは、彼(ドルスス)の孫だった」というくだりがあって、気になってそのモニュメントなるものをググったら、現地に観光した人たちの情報では、なんと大聖堂の前に古代ローマ時代の円柱があるとありまして(私には初耳)、観光で行ってきた方々はこれだと(https://www.tripadvisor.jp/ShowUserReviews-g187393-d8390920-r576
357102-Nagelsaule-Mainz_Rhineland_Palatinate.html)。

  えっ、と違和感に包まれながら写真をよくみたら、なんと第一次世界大戦の慰霊碑らしいのだが、みなさんどうしてだまされているのか。さて・・・と思って、思い出しました。
 以前多少触れたことあるネロのユピテル円柱がマインツにあるので(下右図:ちなみに図中の8;慰霊碑は2あたりかと)、観光客さんたちこれと間違えているのでしょう、たぶん(https://www.mainz.de/tourismus/sehenswertes/jupitersaeule.php#SP-grouplist-5-1:2)。
  地図中の6の肝心のドルススの記念建造物は、表記がThe Cenotaph of Drusus、Drususstein となっているやつ(http
s://www.romeartlover.it/Mainz.html)。
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