月: 2021年8月

半ミイラ化遺骸、ポンペイより出土

 2021/8/17公表:ポンペイ遺跡区画の東端の「サルノ門」Porta Sarno外の、ヴェスヴィオ周遊鉄道の先にあるネクロポリスを調査中の発掘隊が、「M.Venerius Secundio」の墓銘碑を有する中規模の石造墓の奥から、一体の遺骸を発見した。骨格分析から60歳以上の男性と判明したが、当時火葬が普通のところ、半ミイラ化した土葬遺骸の出土はめずらしい。ポンペイ埋没の数十年以前の埋葬。

このネクロポリスは遺跡区画東端のさらに東で、写真の撮影地点あたりの新発掘で出土した:現在未公開
、件の墳墓                  、墓標

 銘文は私の読み取りだと以下のごとし。「M VENERIVS COLONIAE / LIB SECVNDIO AEDITVVS / VENERIS AVGVSTALIS ET MIN / EORVM HIC SOLVS LVDOS GRAECOS / ET LATINOS QVADRIDVO DEDIT」:「M.Venerius Secundio、 植民都市(ポンペイ)の解放奴隷、(女神)ウェヌス(神殿)の、アウグストゥス(礼拝団)の番人、そして彼らの従者【min(ister) 】、彼は単独でギリシア語とラテン語の(演劇)諸競技を4日間にわたり提供した」。遺骸の頭部には毛髪と左耳の耳たぶも確認できた。

 被葬者は、死亡時には解放奴隷になっていたが、たぶん前歴がポンペイ市所属の公的奴隷だったのだろう。同時に女神ウェヌス(ポンペイの守り神であった)神殿と、アウスグトゥス礼拝団の番人を兼ねた従者として終生勤務していたと思われる。そしてまた、ギリシア語とラテン語の競技を4日間主催したことからも、そこそこの経済的上昇を果たすことに成功し、こうしてポンペイでギリシア語演劇が上演されていたことを実証した初めての証言者ともなった(ポンペイでは奴隷や売春婦がギリシア語を話していたという記事あるので、当たり前といえば当たり前なのだが)。またこの墓地の囲い内からは二人の火葬墓(遺灰壺)も出土し、その一つが「Novia Amabilis」と刻まれた人型墓柱columellaを持っているので、それはたぶん妻のものと思われている。

 霊廟奥の小墓室の遺体    頭部は枕の上に置かれている。耳たぶ↑

 他にも興味深い出土品があるがここでは触れない。とりあえず以下を参照されたい。http://pompeiisites.org/en/comunicati/the-tomb-of-marcus-venerius-secundio-discovered-at-porta-sarno-with-mummified-human-remains/

 私的に興味があるのは、2点。ポッツオリで活躍したリタイア銀行家で、書写板出土で著名なL. Caecilius Iucundusの邸宅(V.1.26)の、その書写板にもこのVeneriusは登場しているとのコメントがあるのだが、現在まだ未確認。第二は、墓碑銘中の「MIN / EORVM」にちょっと突飛な別解釈あって、旧約聖書の「ヨブ記」11.1, 20.1に登場する「ナアマ人ツォファル」(新共同訳表記)との関連を探って、我らのVeneriusをユダヤ教ないしキリスト教と関連する東方人種(ならば土葬も合点される)と見るわけである。また、後世のアウグスティヌスとヒエロニュムスでは,彼らをファリサイ派が異端視しているナザレ人と関連づけている由だが、さて。

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女性専用トイレがなくなる?

https://mainichi.jp/articles/20210814/k00/00m/040/070000c?cx_fm=mailasa&cx_ml=article&cx_mdate=20210816

 というのはちょっと大袈裟か。小規模事業所での設置基準を見直そうという動きに対して、だけどどうもうまく動いていないようだ。

 労働安全衛生法に基づく1972年制定の「事務所衛生基準規則」というのがあって、トイレは「男性用と女性用に区別する」と明記されているのだそうだ。50年も前のこの法律は、車椅子やオストメイト(人工肛門利用者)に対応したバリアフリーのトイレや、性別を区別しないトイレがカウントされず、要するに時代遅れになっていた。

 2018年から再検討を始め、今年3月に現行の内容を原則として残しつつ、「同時に就業する労働者が常時10人以内」の場合は、男女兼用の「独立個室型」トイレを一つ置けば済むことを特例として認める考えを示した。これは今はやりのマンションを事務所に使うような場合も想定していたようである。

 それに対して、予想外の、女性トイレをなくすなという反対が出てきているそうで。全部なくなるというわけではないのだが、やっぱり女性には共用は忌避観あるようで。

【追記】ググったら、2015年にすでにこんな情報が載っていた。筆者はトランスジェンダーの方らしい。「男女共用トイレの話 [性社会史研究(一般)]」(https://junko-mitsuhashi.blog.ss-blog.jp/2015-04-10-5)。ここでは証拠としてあげられている明治40年の新聞挿絵を転写しておくが、筆者の言では、「こういう状況が1950年代までは確実に続いていたし、その名残りが1970年代まであった」とのこと。歴史は回り、装いを新たにして、その状況に復帰するだけのこと、としている。

1907年(明治40)の「公設便所」の状況。左から男性、女性、男性。

 私の体験記:今をさる40年以上前、1978年に岡山県津山市の女子大・短大に就職したのだが、赴任直後の四月に中国縦貫道を観光バスに乗って姫路城へのバス旅行があった。そして城内の公衆便所に入ってみると中央通路の一方が上図のようなコンクリート製の古典的男子立ちショントイレで、他方が木造個室の女性用(および男子大用)が並んでいて、まあ当時はそれが普通だったにせよ、今回はいやしくも赴任直後の女子大の威厳あるべき新任教員であるのに、押し寄せ列をなしている教え子たちの嬌声を背後に立ちションさせられて閉口した記憶がある。ひょっとするとお互いさまだったかもだが。

 こんなブログもみっけ。「男女兼用トイレmp3-mp4」(https://www.sm3ha.ru/song/%E7%94%B7%E5%A5%B3%E5%85%BC%E7%94%A8%E3%83%88%E3%82%A4%E3%83%AC.html)。かつて紹介したことある(2020/8/23)スケスケトイレの「検証 スケスケの公衆トイレ 用を済まして確かめてやる」(https://www.youtube.com/watch?v=VoROw7wVdss)をみる目的で行ったので誤解なきよう。それにしても最後には驚かされた。たぶんやらせでしょうが。

 最近、こんな情報も。「「男女共用」ではなく「すべての性のトイレ」がアメリカで広がるわけ」(https://tripeditor.com/435064)。この立場からすると女性用トイレに反対する人たちにはトランスジェンダーの人たちへの配慮がない、ということになるが、いかが。

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「焼き場に立つ少年」の検証をめぐって

 米軍海兵隊第5師団所属軍曹のカメラマンで当時23歳のジョー・オダネル Joe O’Donnell氏(1922-2007)が長崎で撮影した私的写真(1989年公開:そもそも第5師団は福岡・佐賀県占領を担当だった由:長崎県は同第2師団管轄)をもとにしたNHK ETV特集「“焼き場に立つ少年”をさがして」をみた。これも昨年の再放送だが、未見の人にはお勧めする。NHKオンデマンド(単品¥220)で見ることできる。

彼は7か月(1945/9-1946/3)の任務を終え帰国、1949年からホワイト・ハウス専属カメラマンとして勤務、トルーマンからジョンソンに至る四代の大統領を撮影する任務に就いていて、ケネディ国葬の日が3歳の誕生日だったJFKジュニアの敬礼写真を撮ったのも彼だそうで、その筋では著名人だったようだ(但し、異論・反論あり:【補遺4】参照)。

 NHKのそこでの追跡の仕方が歴史学研究に通底していて、そっから始めるか、といささか興奮。米軍が北九州で撮影した4000枚の中から、まずオダネル撮影分127枚を摘出。それを時系列的に並べて、彼が担当地福岡・佐賀以外の長崎へ行った可能性(写真のない空白期日)を割り出すと、1945年10月13−17日あたりが該当。夕方でフラッシュを焚いているので曇りの日となり、気象台資料から15、17日にさらに特定【後日談:でも彼の上陸港は佐世保で、大村に師団本部があったという記述もあり・・・。参照、【補遺1】の吉岡、それにオダネル『トランクの中の日本』】。

 写真の分析はさらに進み、洋服だと男性は右前のところそうなっていないし、胸の名札は普通左胸に位置していたので、あの写真は左右反転であること(住所や名前は読み取れず:後から考えてみると、意図的に消された可能性あるかも)、さらにはカラー化のプロセスで、少年の鼻の中に布片の詰め物が認められ、また写真の左目の白眼の様子から出血痕が見て取れるとし、そういった白血病(血小板減少)の症状の被爆量(含む、2次被爆)の想定から被爆後2か月あたりまでと判定。

、反転させた写真;、カラー化したもの(いずれもウェブから入手)

 回りの風景からも焼き場の位置を想定する。背景は段々畑風。石柱に刻まれた字は旧字体「縣」と思われるがそれ以上の追求はできなかった由(この石柱は何らかの公的な境界表示と思われるので、その意味で重要証拠のはず。よって私にはあの程度の調査では納得できない)。足元の電線は電車用の通信ケーブルで、その手前の石垣は線路沿いによくあった加工石材と鉄道関係者が証言を寄せる。こういう風景全体から旧国鉄長崎本線の大草・長与駅と道ノ尾駅の間の線路の上側に少年が立ち、被写体までの距離1.8mで撮影、と絞られていく。となると当然、長崎の爆心地(浦上)付近での撮影ではなくなる、はず(すなわち、NHK想定撮影地は爆心地から直線で3.4〜5.1kmと距離がある:少年たち兄弟はもちろんそこで被爆したわけではなく、どこかで被災して移り住んできて暮らしていたにすぎなかったのかもしれない)。

、3Dでの環境再現;、放送製作者が撮影現場と同定しているかのような映像(NHKオンデマンドより:著作権的にやばいですが、参考までに一時的に掲載してみました)

 別情報では、少年の名前も実名候補が挙げられているが、どうも間違いだったようだ。上述の想定場所とすると、撮影者オダネル氏がどうして長崎の手前で列車から降りて(ないしは帰り際途中下車して)、高台から見下ろして焼き場を見つけえたのか、そして線路の下側すぐに焼き場があったことになるが、はたしてそんなことあるのだろうか、私には謎である(http://leoap11.sakura.ne.jp/iroiro/new/yakibanitatushounen.pdf)【後から入手した『トランクの中の日本』によって、ジープや馬を使っての撮影行と判明】。また、オダネル氏の手記によると、血が滲むくらいきつく唇を噛みしめていたのなら、なぜその出血(これも口内出血を含め白血病の症状)をカラー復元していないのか、疑問(これはたぶん、出血が認められなかった、すなわちオダネル氏の報告が誇張だった、との判断か)。

以下は、2019/8/10 日テレのもの(ウェブから入手)。

 いずれにせよ、オダネル氏のシナリオに従うと、この少年も弟も、おそらく以前紹介した戦災(原爆)孤児だったのでは。敗戦後2か月、とうとう弟は死んだ。そして彼自身も白血病でおそらくは・・・。https://www3.nhk.or.jp/news/special/senseki/article_22.html;http://www.kirishin.com/2019/11/22/39020/;https://www.vidro.gr.jp/wp-content/uploads/2019/08/c06351757f3044e5ff1ed8f8da500642.pdf

【補遺1】2021/8/17:ようやく入手できた吉岡栄二郎『「焼き場に立つ少年」は何処へ』長崎新聞社、2013/8/9、p.28掲載の図版2「オリジナル密着プリント」をスキャンし、反転させ、露出を明るめに加工したもの。

 吉岡氏は、オダネル氏の数々の矛盾する証言を(上掲のp.24-5で早くも「一説に、オダネル氏は一九九〇年ごろより認知症の兆候が見られたという記述がある」と紹介:そこまで言わなくても、45年間という歳月は、健康人でも記憶の混濁は生じて不思議はない。但し、1990年ごろというと彼が写真の封印を解いた直後からとなる。彼が国の裏切り者と非難され出し、それらに対する抗弁のあげくの言説の揺れだったのかもしれない)、現地調査や地元の生存者の証言とつき合わせて5年間かけて検証し、結果、場所も個人も特定できず、この写真の意義を「写された特定の場所や人にあるのではなく、時間を超越した”象徴的な含意”にある」と結んでいる(p.104)。私もそれでいいのだろうと思う。そもそも、米軍や日本の撮影隊によって写された被爆者の姿は、ほとんど身元が判明しているが、ことこの写真に限っては、写真集やテレビでも紹介され全国的に反響を呼んだにもかかわらず、少年も場所も未だ特定されていない。彼が地元民ではなく敗戦間際の戦災移住者で、戦後まもなく死亡したかどこかに移動した可能性すらある、はずだ。

 結局、2019年のNHKの特集での新味は、場所を旧国鉄長崎本線の道ノ尾駅から大草駅間に想定している点にある。あらかたのことはすでに吉岡氏叙述の中で検討されていた。

現在発注中の以下がまだ未入手だが(ジョー・オダネル著/ジェニファー・オルドリッチ(聞き取り)/平岡豊子訳『トランクの中の日本:米従軍カメラマンの非公式記録』小学館、1995年;ジョー・オダネル写真・坂井貴美子編著『神様のファインダー:元米従軍カメラマンの遺産』いのちのことば社、2017年)、参考までにこれもやばい写真を一時アップしてみる。オダネル氏に同行した通訳が(あるいは、役回りは逆か)釣り竿を持った少年に振り付けしている場面のように思われる。ここでも少年は軍隊式にピシッとみごとなまでに直立不動を決め、素足である。彼の名前は判明し、生存も確認された:西依政光くん。ただ撮影場所は長崎市内ではなくなんと佐世保(長崎県内ではある)のようで、西依くんは6月にそこで空襲を受けずっと防空壕住まいをしていた戦災孤児だった(https://www.bs-tbs.co.jp/genre/detail/?mid=KDT0401600)。となると、オダネル氏がたとえ「NAGASAKI」といっていたとしても(日本の現地名にうとい米人による聞き取り調査・編集の場合だと一層)、それは長崎県域の佐世保、大村、諫早などを意味している可能性は十分あったはずだ(それを吉岡氏も指摘している:pp.52-56)。

「原爆の夏 遠い日の少年:元米軍カメラマンが心奪われた一瞬の出会い」BS-i、2004年制作より。このとき西依さんは67歳の由で、だったら1945年は8歳となる勘定。オダネルとの再会後の彼の言葉があまりに印象的なので、無断引用で孫引きします。(https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=790&id=21960869)

覚えてるっちゅうより その この人たちが こがん殺生ばしてしもたか 焼け野原にしたちゅうことに 全然そこまで考えんちゅうか ただ 家が焼けたちゅうことだけですよね
進駐軍が敵ちゅうことなんか ぜんぜん考えんですもんね その時分は この人のために 家が焼けたとなんたちゅう
そしてもう 遠か親戚ば頼って あっちに一ヶ月 こっちに一ヶ月ちゅうてですね 住みながら ずーっと 
とにかくもう裸一貫ですからね もうなんもなかですからね 着替えもなんもなし 下は履くもんもなしですね
もうほんと しかし あの時期がいちばんよかったですよ
今の時分でなく あの時期がいちばんよかったですよ なんも心配しなくてですよね

【補遺2】 以下をみつけた。2006年製作・NHKスペシャル「解かれた封印:米軍カメラマンがみたNAGASAKI」49分(http://kazh.xsrv.jp/?p=9068;https://ameblo.jp/creopatoran/entry-12503687701.html)。この録画も是非みるべきだろう。そこでは、オダネル氏の離婚した最初の妻との間の長男タイグTyge O’Donnell 氏が登場し、1989年以降の写真公表による父の苦悩がより深く描かれている。そこで強調されていたことに、彼が第5師団管轄外の長崎県域(さらには廣島、宮崎)で軍に無断で私的に写真を撮影し、密かに持ち帰っていた(公用写真はすべて軍に提出が義務づけられていたので、有り体に言って,軍規違反)、ということがある。戦場や冷戦下での情報秘匿という意味もあったのだろうが、そういう状況下で彼が撮影した写真はネガ状況で300枚はあったらしいが【『トランクの中の日本』p.4-5】、帰国後母に見せようと点検し、あまりにも悲惨なものは捨て、トランクを封印した【『神様のファインダー』p.43-45】。また、米国内で彼を非難する声もかなりあって彼を精神的に追い込んでもいたし、それが原因で離婚に繫がった由。

【補遺3】コメントで寄せられた高橋様のご指摘に導かれ、私なりにGoogle Earthで想定場所を眺めてみた(3D)。土地勘のまったくない私でも臨場感が味わえる、ありがたい時代になったものだ。

線路の手前は現ローソンとその駐車場:撮影場所は建物の右あたりかも
あの写真だと、単線の線路のすぐ上の段に少年は立っていた、はず。焼き場は線路を越えて現在ローソンの駐車場となっているあたりだったのかもしれない。踏切左の箱に「西高田踏切」の表示が読める。テレビ撮影時に向こうの山裾にあった2階建ての家がすでになくなっていて、その変化に驚かされる。手前中央の小川(用水路?)は手前方向に135m流れて(一部暗渠化?され)浦上川に至っているようだ。

 2021/8/19 0時 原爆孤児のことをNHK ETV1「ひまわりの子どもたち:長崎・戦争孤児の記憶」でやってます。例の銭田兄弟たちが出演して、例の向陽寮(長崎市岩屋町666番地)での生活を話しているが、被災孤児の生き抜くための生き様がきれいごと抜きで述べられていて(盗みとか)興味深い。また、出演者たちはある意味勝ち組であり、いずれも男性のみということから、一人も登場しない女性孤児たちのその後の運命の苛酷さをつい想像してしまった。

【補遺4】オダネル氏認知症ないし「妄想虚言癖」疑惑問題

 aburaya氏のブログ(2013/10-2015/11)を見つけてしまった。彼は写真資料に興味をお持ちの方のようだ。以下はその最初あたりからの転載:https://ameblo.jp/nagasakiphotographer/entry-11634614592.html?frm=theme

 aburaya氏は最初は単に焼き場に立つ少年の子守姿や直立不動を他の写真と比較することから始められたようだが、それからじゃんじゃん思索が深まっていっているのが興味深い。たぶんオダネル氏の写真を求めてググっているうちに米国ウィキペデイアに行きつき、禁断の文言を知ってしまったのだろう(https://ameblo.jp/nagasakiphotographer/entry-11647428622.html?frm=theme)。そっからは一気呵成で、日本のメディアが(実は知っていて、だが視聴者を意識して美談仕立てにするために)触れるのを避けてきた問題に容赦なく突入する。いや単に邦訳しただけなのだが,その破壊力たるやメガトン級である(https://ameblo.jp/nagasakiphotographer/entry-11666636231.html)。そのへんをオダネル氏の息子や4度目の再婚者坂井紀美子氏がどこまで事実に肉薄して書いているのか、発注中の本が届くのが待ち遠しい・・・【本が届いて読んだのだが、まったく触れていなかった。彼の死後のことなので、後書きとかで触れてほしかったのだが、売れ行きにも関わるので出版社は触れてほしくなかっただろうが】。

 実はいつもの悪いクセで、私も弟はただ寝ているだけじゃないか(だって、aburaya氏の写真のように、生きていても背後に首折れて口も開けて寝ているのが普通なんだし)、とか、戦災孤児であれば栄養失調で足がむくんでいても当たり前だろう、といった疑問は思いついていたが、そんな突っ込みをみだりにおこなってオダネル氏を誹謗するのは避けたいとの「忖度」がこれまで働いていたのだが、さてさて。いつもながら事実は残酷である。

 現代史ではかくのごとく、否応なく本人にとって知られたくなかったり、痛くもない腹を探られたりして、有象無象の「事実」があぶり出されてくる。なにしろ当事者や利害関係者がまだ生存しているのだから、異論が出てこないはずはない(事実は一つではなく、目撃者の数だけある)。オダネル氏の言動への疑惑が表面化したのは、なんと新聞に彼の訃報が生前の業績とともに掲載されて、それを読んだ読者から、あれは違う、自分が撮った写真だ、おかしい!という投書が寄せられたことが発端だった由)。

 2000年前の古代ローマにおいても実情は同じはずなのだが、すでに都市伝説化し俗耳にはいりやすい言説や美談が再生産されている面もあることを失念してはならない。証拠がないのではなく、失われてしまった、ないし抹殺されてしまったに過ぎないのだ。史料が「ない」がゆえに、そんな事実が本当になかったとはいえないのである。むしろ仮説的にではあれ、複数の「あった」可能性を常に念頭に置きつつ、周辺情報を突き合わせて「より」客観的な「事実」をめざすべきなのである。さらにややこしいことをいえば、史料が残っていたとしても、それは意図的偽造ないし意図せざる誤解だった場合もあるのだ。プロの歴史学徒であれば「事実」を暴く勇気を持たねばならない、はずだ。それは同時に自らの足元を崩すことにも繫がりかねない営みなので、凡百の徒は足を踏み入れることなどせず美談に逃げ込んでお茶を濁すのが通例となる、のだが。

【後日談:2022/7/12】なぜかここ数日この記事が読まれているようなので、あれから一年また敗戦記念日が近づいたせいなのかと思ったりもしたが、関係記事を追跡する気になってググってみたら、上記検証でお世話になった高橋さまのブログを見つけることができたので、関心お持ちの方はご一読ください。M高橋「「焼き場に立つ少年」の謎の撮影場所を徹底検証する」2021/8/19(https://nagasaki1945.blog.jp/archives/10658149.html)。新事実を含め執念の論究と拝見しました。高橋さまとの往時のやり取りは「コメント」をご覧ください。2021/8/25あたりでこの問題への私の仮説を提示しています。

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ナスジオでの剣闘士新見解

 『ナショナル・ジオグラフィック日本版』2021年 8月号の宣伝がメールで送られて来た。いつも突っ込みの甘さで騙されるので無視するのだが、特集のひとつが「グラディエーター」だったので今回は騙されたと思って、Kindle版を購入してみた。

 ま、そこでの売りは、ここ20年の新たな証拠を加味しつつ、実験考古学的に、実際に剣闘士の武具のレプリカを着装しての体験からの見解で、これはまあ我々がこれまで目にしてきた学者先生の机上の空論にはない、現実感があったので、1000円超の値段もよしとしよう、という気にさせられた。

 たとえば、レポーターが試しに被った青銅製の兜は6kgだったとか、別の箇所ではローマ兵との比較で、完全武装の兵士は25kgのところ、剣闘士は7-20kg(剣闘士の種目によって重量は異なってくる)だとか、ローマ兵の兜は厚さ1mmで2kg、それが魚兜闘士のものは厚さ2mmで重さ4kgで、視野も限られ音も聞こえにくかった、といった実体験が報告されていて、私にとってきわめて参考になる内容だった。

 その重装備を一つの根拠として(そのくせ、彼らが手にした獲物は多くの場合せいぜい30cmのナイフ:だけどこれでは絵にならないので復元想像図ではどうしても長めにグラディウスなんかとして描かれてしまう)、剣闘士競技では負傷はつきものだったにしても致命傷はまれで、おそらく10人に一人くらいだったのではないか、とか、もし死亡した場合、主催者は剣闘士のオーナーに補償せねばならなかった、とか、要するに現代のレスリングなどの格闘技と同じレベルの興行だった(ま、露骨にいうと八百長の、ショー・ビジネスだった)という方向で捉えるべきだ、というわけで、まずまず納得の結論といえよう。とはいえ、現代格闘技で10人に一人死んだらおおごとであるが。

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囚人の落書き?:オスティア謎めぐり(11)

 あれはいつのことだったか、例年恒例になっていた夏のオスティア遺跡調査での現地遺跡管理事務所との打ち合わせの時、たぶん落書き調査で奥山君が加わったせいか、あちら側から「実は、ここは昔監獄になっていて、その時の囚人の落書きも残っている」という話が出た。え、監獄?、囚人の落書き?

 そのときは、あれやこれやの断片情報で、オスティア・アンティカ遺跡に書き込まれた落書きとなんとなく思い込んでいたのだが、偶然目にした断片情報からどうやらそうではなく、オスティア・アンティカ遺跡発掘に投入されていた囚人たちが、遺跡から東に徒歩10分のボルゴ(新オスティアの集落)に併設されていた教皇ユリウス2世が枢機卿時代に創建した砦に収容されていて、そこに落書きを残していたということらしい。時代はまだこの遺跡の所有者がバチカンだった19世紀のこと。ローマ教皇ピウス7世(1800年~1823年)やピウス9世(1846年~1878年)の時代に、古代オスティアの遺跡発掘のために強制労働を強いられた囚人たちの宿舎としてこの砦は使用されていた、ということがわかった(cf.,

https://www.ia-ostiaantica.org/news/il-castello-di-giulio-ii/)。当時バチカンは一丁前に領土国家だったから、罪人も普通にいたわけである(ま、現在でも枢機卿なんかの高位聖職者で裁判沙汰の御仁もいらっしゃるのだから、驚いてはおれません)。そして1915年から1918年にかけての第一次世界大戦中には、ローマ-オスティア間の鉄道工事に使用されたオーストリア・ハンガリー帝国とスラブ人の捕虜が、この城に収容されていたらしい。なので落書き解読はかなりややこしいことになる、はず、だよね。

その一例

【余談】この城にはやっぱり古代ローマ時代以来の伝統的な形態のトイレがあるらしい(とはいえ、木製便座はなんとなく怪しいけど)。

床が、水場用のヘリンボーンとなっているのがもっともらしい
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100年振りの発見:ローマ市域石標pomerium cippus

 2021年7月16日公開。これまでローマで10個しか発見されていなかった市域表示のトラバーチン製境界石pomerium cippus が100年振りにみつかった(前回発見は1909年)。それはアウグストゥス霊廟で下水道工事の作業中に地面から約3.5メートル下で見つかり、現在、霊廟すぐ隣のアラ・パチス博物館で、皇帝クラウディウス像のそばに展示中とのこと。

 クラウディウスはローマ周辺に140以上のチッポを置いたとされているが、見つかったのは今回のものを含めて11個だけ。そのうち4つは元の位置に残されており、一部はバチカン博物館に所蔵されている由。

今回発見のもの

 研究者によると、後49年のクラウディウス帝によるローマ市域の拡大時のもので、その全文は、以下の通り。

たとえばCIL. VI. 1231 = ILS. 213:右の境界石の写真は、バチカン博物館所蔵のもの

 今回の出土物は下から2行目までが完全に、その上2行が部分的に残っていた。カイサルCaisarという古色蒼然とした表記やFの逆転文字使用など、いかにもエトルリア語に暁通していたクラウディウスらしいこだわりが見てとれる。

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ヴェネツィアのラグーン上をローマ道が走っていた!

2021/7/22 Scientific Reports掲載:

https://www.nature.com/articles/s41598-021-92939-w

 最近別件で知ったのだが、古代ローマ時代のテュレニア海の水位は今より1m低かったのだそうだ。こういった事情も加味して2000年前の状況を考える必要がある。古代ローマ時代、現在水没してしまったヴェネツァ・ラグーンの古ビーチの尾根を伝って、ローマ道がAltinumからClodiaに走っていたと研究者たちは長年想定してきた。今回の調査はその北端のTreporti水路でのもので、水深4.3-5.3mの尾根上に1140mにわたって12の起伏構築物も確認された。

赤線が想定ローマ道;今回の調査地点は上記右の短い紫部分
左が構造物確認地点、右がローマ道の復元・構造図

 私見ではこれが本来的なローマ(軍)道なのか、若干疑問。むしろ海からの侵入への対抗施設のように思える。それはともかくとして、この存在は、この地域にローマ時代の安定した集落システムがあったという仮説を裏付けているのは確かとされている。

【私はグラドーが好きだ。あそこで食した魚料理とヴィーノ・ビアンコが忘れられない】

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