月: 2020年7月

コロナ・トイレ関連三題:トイレ噺(15)

【閲覧注意!】「英国でトイレ危機 草むらで続出、女王の居城までも被害」(https://digital.asahi.com/articles/ASN7S3DVKN7RUHBI01V.html?iref=com_rnavi_arank_nr02)。2020年7月24日 但し有料。

 内容をまとめると、コロナで休業しているパブや公共施設が多いせいで、公園内での処理が続出している、とおもいきや、それ以前から予算削減で公衆トイレ全体の二割が閉鎖されていて・・・、というお話。それはたくさんの「拭いた紙」(但し、ティッシュなので雨でもすぐには分解しないわけで)が捨てられてのことで、だから小ではなく大なのだろう。

ロンドン東部の公園、ロンドン・フィールズ内に設置された「ここは公園で、トイレではありません。それは家に帰っておやりください」と書かれた掲示

 ポンペイやオスティアなど広大な遺跡でも、物陰にその痕跡があったりするが、元ワンゲルの私には「野ぐそ」は爽快で、普通にやっていたので違和感はない(但し、スコップで掘ってやっていた。いわゆる「キジ打ち」)。ただ、素人さんへ緊急時におけるご注意をひとつ。蛇やサソリなんかに咬まれないため事前に草むらをふみつけるのを必ずやること。また、これは実体験したことだが、朝夕の一定時間帯にはブトの活動が活発化する、それを知らなかった入部直後に露出したお尻を集中攻撃され(金玉もやられた)、テントに帰ってかゆくてしかたなくシュラフの中でボリボリかいて指の爪が血だらけになったことがある。皮膚の直下に血だまりがデキているからだ。呉々もお気をつけください。

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https://digital.asahi.com/articles/ASN572V8GN57UHBI00M.html?iref=pc_extlink 2020/5/7

いかにも英国:「ロックダウン」教授から「パンツダウン」教授に:外出制限中に自宅で密会  

 英国で、新型コロナウイルスの感染抑止策として厳しい外出制限の導入を政府に進言した著名な大学教授が5日、外出制限のさなかに女性を自宅に招いたと報じられた。教授は「判断を誤った。後悔している」として、政府の専門家会議の委員を辞任した。

 英紙テレグラフによると、感染症数理モデルの専門家、インペリアル・カレッジ・ロンドンのニール・ファーガソン教授は、政府が同世帯の人以外とは会わないことなどを国民に要請する外出制限に踏み切った3月下旬以降、少なくとも2回、交際している既婚女性(!)を自宅に招いていたことがわかり、大衆紙から「パンツダウン教授」とやゆされるはめに。

 ファーガソン教授は3月半ば、感染が疑われる症状が出た人だけに自宅待機を求めるなどの緩い措置のままでは25万人以上が死亡し、医療態勢もパンクするという試算を発表。これがきっかけとなり、英政府は全ての人を対象にした外出制限や商店の閉鎖などを含む厳しい措置に踏み切った。政府の施策に強い影響力を持つことなどから、同紙は教授を「ロックダウン都市封鎖)教授」と名付けている。

 ファーガソン教授は報道後の声明で、新型コロナに感染して回復し、自分には免疫があると信じていたと弁明した上で「ウイルスの流行を抑えるためには社会的距離をとることが必要であり続けるという明確な(政府の)メッセージを揺るがしたことを深く後悔している」としている。(ロンドン=下司佳代子)

 記者は別所のインタビューで以下のように述べている(但し、有料):

Q なんか、めちゃくちゃですね。……。

A もっとも、不倫が問題になったというよりは、ロックダウンを言い出した専門家が自ら外出制限を破っていたことが批判されました。 たとえばジョンソン首相にしても、過去に2人の妻がいて、子どもは「少なくとも6人」と言われるなど、・・・(イギリス人に)あまり気にされている様子もありません。退院後に出産した婚約者ともまだ正式な結婚はしていませんし、日本とはとらえ方が違うのかもしれませんね。(聞き手・神田大介

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 コロナがらみでトイレ話をもうひとつ。「トイレスリッパは必要?実験でわかった意外な効果」(https://lidea.today/articles/46?utm_source=outbrain&utm_medium=display&utm_content=lifehack2&dicbo=v1-6676fddf5cf95f190087fecd57c801cd-00db9f691cb51569c0c01ab018dcadb8bc-geydayjugq3dcljtgi4tcljumm4tsllbg43ggllbmfswmztcmnrgeyrvgm)。アップは2014/10/23。

 欧米でのコロナ感染拡大に、屋内での土足そのままでの生活が一役かっているのかも。

 「思わぬところにリスクも トイレとウイルス感染の関係」2020/7/29(https://style.nikkei.com/article/DGXMZO61535750V10C20A7000000?&ora)

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コンスタンティヌスのアーチ門:北面東側レリーフをめぐって

 以前、「続・コンスタンティヌスのアーチ門の太陽神について」(2020/6/5)の中でちょっと触れているが、あらためてここで図版を掲示して説明を加えておきたい。掲載図版はすべてウェブから拝借した。

 実は、テトラルキア時代のフォロ・ロマーノについて面白い研究テーマが転がっている。ディオクレティアヌスが開始したテトラルキア体制の理念を象徴する建造物がそこに幾つかあり、それにその支配体制の継承者を自認していたマクセンティウスが一連の公共建築物を追加、だがその後、征服者としてローマに入城したコンスタンティヌスは彼らとは一線を画して、マクセンティウスの造営を乗っ取ると同時に、ローマ帝国の単独支配理念を復活させている、という視点で彼の公共建築造営を位置づけようというものである。それが最もよく現れているのが、アーチ門の北面東側のレリーフである。

北面東側レリーフ全体図

 左から見てゆく。さりげなく背景として刻まれている記念建造物に集中したい。

左はフォロ・ロマーノ西端の平面図;右再現想像図は、西からの景観。手前左からセプティミウス・セウェルスのアーチ門、ロストラ、ティベリウスのアーチ門、そして90度向こう側にバシリカ・ユリア

 レリーフ左端から見ていく。この部分の背景左半分を占めて4連のアーチが見えるが、これらは明らかにBasilica Juliaを示している。そして右端に若干大きめのアーチが続いているが、これはArcus Tiberiを示していると思われる。前者がガリア戦争での戦利品で前54年から建設が開始され、アウグストゥス時代に完成、後者は後9年にゲルマン人に奪取された軍旗返還を記念して後16年に建立された。前面の群像はローマ市民男性で、一人男児が描かれている。

 ただ、中央広場から西を見たときに、Basilica Juliaは正面ではなく左に位置している。そしてArcus Tiberiは、最近の説ではBasilica JuliaとAedes Saturuniの間の通りvicus Jugariusの入り口に想定されている場合もあるので(上記平面図でゲタ記号状の印の箇所がそれ)、その場合これも中央広場から直接見れたはずはないので、いうまでもなくレリーフ製作側の意図的意志だったと思われる。

 次に、レリーフ中央部分。背景に見える列柱は、テトラルキア体制創設10周年を記念して303年に建設された5柱記念物で、中央柱頭上に主神ユピテル像(ディオクレティアヌス帝の保護神でもある)、その左右に4帝立像が配置されていた。手前の囲い部分がロストラ(演壇)で、その左右端にマルクス・アウレリウス帝とハドリアヌス帝が座像で描かれている。群像中央の顔面が破損された立像がコンスタンティヌス帝で、あとの登場人物は元老院議員集団。

左がロストラ正面の想定例、右が背後からの復元想像図、の一例(レリーフに一致したものを選んだ)
こちらの方が円柱の配置に関しては正しいかも

 最後にレリーフ右端背後に見える3連アーチは、セプティミウス・セウェルスのアーチ門。いうまでもなく対パルティア戦勝利(後194/5と197-9年)を記念して後203年に創建された建造物。手前の群像はローマ市民男性で、右端に男児2名が紛れ込んでいる。

 総体的にこのレリーフは、いわゆる対外戦争勝利を記念した記念建造物、とりわけユリウス・クラウディウス朝がらみとセウェルス朝の凱旋門が左右に描き込まれ、中央演壇上にアントニヌス朝の2皇帝、そしてコンスタンティヌスにとっては直前の第一次テトラルキアの4皇帝(その一人が父コンスタンティウス)が刻み込まれていて、自らをローマ帝国を代表する諸皇帝の正統継承者として表現しているわけである。315年、未だ皇帝として盤石の地位を確保できていなかったコンスタンティヌスにとって重要なプロパガンダであったし、実質的にアーチ門建立を担ったローマ元老院としては、新皇帝の治世方針がローマ元老院を尊重する帝国再興の賢帝であれかしとの思いもあったはず。ある意味で両者同床異夢の蜜月時代を演出していたわけである。ただし、コンスタンティヌス帝自身は、旧帝都ローマを疎んじ、すでに過去の遺物と見ていた節があり、それは単独皇帝となった324年以降にあからさまになる。その意味で彼は皮肉にも、テトラルキア体制からの脱却をはかっていたにもかかわらず、こと対旧都ローマに関してはディオクレティアヌス帝の遺志の継承者でもあったのである。

 最近の考古学の成果を反映した以下の書籍が必読(見)文献。Gilbert J.Gorski & James E.Packer, The Roman Forum:A Reconstruction and Architectural Guide, Cambridge UP, 2015;Ed. by Andrea Carandini e Paolo Carafa, Translated by Andrew Campbell Halavais, The Atlas of Ancient Rome:Biography and Portraits of the City, 2vols., Princeton UP, 2012;Gregor Kalas, The Restoration of the Roman Forum in Late Antiquity: Transforming Pbulic Space, University of Texas Press, 2015.

【付記】ほとんど知られていないはずだが、フォロ・ロマーノにはここで触れた古来からの「ロストラ」(別名「西のロストラ」「アウグストゥスのロストラ」)の他に、中央広場を挟んで3世紀末ないし4世紀初頭に「東のロストラ」も造られていた(それ以前からあったとする説もある)。これは現在の遺構だとカエサルの火葬場遺構の前方西側に見ることができる。その建設はテトラルキア体制によるフォロ・ロマーノの再構成の一環だった。よってこの東のロストラは別名で「ディオクレティアヌスのロストラ」Rostra Diocletianiとも呼ばれているが、テトラルキアの正統継承者を自認するマクセンティウスが、フォロ・ロマーノ東端で自らの権威を誇示すべく一連の公共建造物(ロムルス霊廟と新バシリカの新築、女神ウェヌスと女神ローマの神殿修復;その他、アッピア街道沿いに競技場、さらにクイリナーレの浴場もか)を建設した時のものとする説もある。

左はフォロ・ロマーノを南東上のパラティーノ丘から見た写真、中央長方形区画の左に残る遺構が「東のロストラ」跡;右は後310年頃の復元想像図
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