月: 2021年1月

使徒ペトロの痕跡?:Ostia謎めぐり(5)

 オスティア遺跡には、色々の宗教施設の痕跡も発掘されていて、各種東方密儀宗教のほかにも、キリスト教教会堂跡とユダヤ教シナゴーグすらあるし、墓地においても古来の火葬墓と3世紀以降の土葬墓の両系を見ることもできる。ここでは、そういう公然とした施設ではなく、私邸においてキリスト教の痕跡とされているものを紹介したい。問題の場所は、III.ix.1の「ディオスクリ(ディオスクロイ)の邸宅」Domus dei Dioscuri である。Russell Meiggsはこの邸宅の持ち主に、355年の道長官で、365/6のローマ都市長官だったC.Caeionius Rufus Volusianus Lampadiusを想定している(Roman Ostia, second Ed., Oxford, 1973, p.212)。そして、彼の一族は北アフリカに所領をもっていたこともあり、本邸宅のモザイクも若干平面的な北アフリカ風であるとしている。

 ここには我々の2009年夏の現地調査時に堀賀貴・九州大学教授のグループの3Dレーザー測量が入り、下図の「I」(大広間)が実測された。そこはいつ訪れてもほぼ完璧に床は保護シートと土砂によって隠されていたが(ところがいかにもイタリア的現象なのだが、一応隠しているが見たいと思うところは見ることできたりするのだ。中央部分だけいつしか破れていて、おやおやまあそこがこの部屋のモザイクのもっとも肝心なVenus Anadiomeneの顔の部分で、まさしくそこだけ覗けるようになっていたのであ〜る。勝手知ったる誰の仕業か、観光客にとってありがたいことだが、笑うしかない)、この調査のため土砂があらかじめすっかり取り除かれ、私が訪れたとき,縦横10m超の鮮明な多色モザイク舗床全体が夏の強烈な太陽のもとに晒されていて、若干立体感には乏しかったがそれなりに壮観であった。その全景は堀教授のウェブで見ることができる(現在は一時的に見れなくなっている:是非以下の報告も参照してほしい。モザイクの製作工程解明にも触れていて、なにより分析視角が斬新なのだ。堀賀貴「オスティア・ディオスクロイの家におけるヴィーナスを描いたモザイクの制作過程に関する復元的考察:オスティア・ローマ都市研究1」『日本建築学会計画系論文集』第77巻第671号、2012、pp.173-181:https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/77/671/77_671_173/_article/-char/ja/)。

上が北:この大広間は南北10.6m×東西10.3mのほぼ正方形の広さ
西南から撮影(2009/9/7):奥の中央右が「L」の出入口
上が西(堀研究室提供の平面加工図):銘文はシュロと月桂冠の間に「PLVRA FACIATIS[・・・]MELIORA DEDICETIS」(汝らより多く[・・・]をなせば、汝らより良きもの[財産]を申告できよう)

 ところで「紹介したい」と書いたが、実は私はそれをこの目で現認することができたわけではない。その存在が報告されていて、その実見を希望したのだが、遺跡管理事務所から何の返答もなかったので、なにか不都合あるのだろうと忖度して引き下がるしかなかったのだ。

 この邸宅のモザイクに興味を持つようになったのは、私の当時のもうひとつの研究対象、ウァチカン・サンピエトロ大聖堂の地下マウソレオのCampo Pの「壁面G」上の落書きがらみで、あの押しの強い碑文研究者Margherita Guarducci女史編纂の史料集掲載の写真に出会ったのがきっかけである(I Graffiti sotto la Confessione di San Pietro in Vaticano, Vatican City, 1958, p.411:この本、現在山積みの梱包発掘調査中 (^^ゞ )。そこには、イエスの筆頭使徒ペトロ(彼はイエスから天国の鍵を授けると言われていた:マタイ福音16.13)の名前(PetrosのPとE)で鍵を暗示した組み合わせのキリスト教的モノグラムが読みとれる、とされる写真が掲載されていた。かく、グアルドゥッチ大先生はローマ首位権論者なのであ〜る。

典拠:Margherita Guarducci, La Tomba di Pietro, Roma, 1959
Giovanni Becatti, Mosaici e pavimenti marmorei, Scavi di Ostia, IV(Text), Roma, 1953, p.115-6, n.214;cf., SO, IV(Tavole), Tav.XLVII, n.214:DOMUS DEI DIOSCURI.

 このキリスト教シンボルとおぼしきモザイクは部屋「I」にではなくcubiculum「L」の西壁際の一角に黒地に白のモザイクで穿たれていて、そばにシュロの葉が添えられている(Angelo Pellegrino, Ostia Antica:Guide to the Excavations, Roma, 2000, p.57:ここも保護用シートと土砂で覆われ床モザイクは見ることできない:管理事務所としてそこまで保護土砂を掘る用意がなかったのかもしれない)。この邸宅の名称のもとになったのは部屋「H」の床モザイクに航海の守り神であるディオスクロイが描かれているからであるが(「使徒行伝」28.11:「(パウロが乗船した)この船はディオスクロイの印をつけていた」)、よって家主はもともと貿易商か船主ではないかとも想定され、研究者によっては、モザイクはその家、その部屋にペトロが滞在した記念にはめ込まれた、とまで想像をたくましくしてゆくわけ。

ディオスクロイとは「ゼウス神の双子の息子たち」の意。

 ちなみに、この邸宅の現状は壁体から2世紀以降の建設と考えられているので(ちなみに、ウィーナス・モザイクは4世紀後半の作)、紀元後64ないし67年頃処刑死したペトロの事績が、どうしてこの部屋と結びつけ可能なのか、私には納得できない。むしろ、キリスト教徒のモザイク師(だいたいが奴隷だったはず)が隣室の華美な異教的造形に対し、密かにそして控え目に対抗して埋め込んだとする説(Becatti, op.cit. (Text), pp. 115-6;Carlo Pavolini, Ostia, Bari, 1983, p.160)のほうが妥当な気がする。こういうところ、多分にイタリア人好みのストーリー性がかった感じもしないでもないが。グアルドゥッチ女史と異なる全くの別説としては、PEを、pe(rpetuo)=「永遠に」、p(raemia) e(merita)=「恩賞に値する」、p(alma) e(t) l(aurus)=「シュロと月桂樹」等といった非キリスト教的な読み取りもあって、まだ決定打に至っていないように思う、というよりこっちのほうが一層中庸的解釈とも思えるんですけどねえ、グアルドゥッチ先生。

【補遺】次の写真は2003年夏撮影のもの。いつ行ってもこんな調子だから写真もほとんど撮っていない。

奥の左側出入口が「L」で、右が「M」
実測直前の大広間「I」を北西から見る(2009/9/1):中央がめくれている;奥の出入口は左が「M」で、右が「N」

【付論】もうすぐしたら堀教授編著の論文集が出る。彼とはここ10年、Pompeii, Ercolano, Ostiaの調査でご一緒させていただいたが(何を隠そう、彼の遺跡実測能力が我々の調査を可能にしてくれてたわけ)、彼はそれ以前からPompeiiでの調査をしていて、私のような建築学に疎い文獻学徒にとっては有難い現場教師だった。私は同行中の彼のさり気ないつぶやきから学んだことが多い。たとえば、以下の写真のような階段遺構が意味すること、それは邸宅内の「内階段」と街路に面した「外階段」の違いから住居人を区別するという、考古学や建築学では初歩中の初歩の知識であろうが、私にとっては不意を突かれ、とても新鮮な指摘だった。

左は外階段(エルコラーノにて2016夏):踏み台が高すぎてベンチと化している。駄馬荷下ろし専用かと思ってしまう;右はポンペイ(I.vi.15)の内階段

 これまでの自称研究者たちの論述(その多くは横文字からの剽窃)と比べての彼の最大特徴は、継続的現場主義ということだろう。二〇年近く毎年現場を訪れて、3Dレーザー測量を武器に実測を実施してきた。継続的に現場に立つということは、行きずりの研究者には不可能な、あれはどうしてなのかという疑問の持続と、実測データの検証をもとにした、ああでもないこうでもないという無数の仮設の挙げ句の、あるときひらめくオリジナリティーに富む解答にはじめて到達可能、ということなのだ。定点観測的な年期というものが研究の深みに絶対必要、との私の確信もそういった体験から生じている。

 だからそれは借り物の知識ではない。こんな体験もある。Ostiaでかろうじて一階部分の壁体が残っている場所で、彼は「この壁は45センチですので、おそらく二階ないし三階建てだったったのでしょう」と言った。そこで私は一階建てだと壁は30センチあれば十分だが、上階があると45センチ必要で、60センチなら三階以上あったと見ればいい、といった豆知識を獲得することができたわけである(結果的に、これはローマ尺単位と連動しているというおまけ付きでもあった)。で、数年後、今度は私が彼の前で「ここ45センチなので」と訳知り顔で紋切り型知識を披露したら、「そう言われているけど、本当でしょうか」ときた。常識を押さえつつも、彼はなにごとによらず鵜吞みせずに反芻していることが、それでわかった。

 こんなことがたび重なるうちに、オスティア遺跡全体の実測調査が一応完了した数年前から彼はとんでもないことを言い出した。オスティアは水没を前提に立てられた古代都市である、と (2014年1月31日の冠水写真参照:https://www.ostia-antica.org/archnews.htm。実は彼もこれを現地で目の当たりにしているのを、私は彼からの報告で知っているが、当時の責任者との約束を堅く守って未だ彼は口外しないので、私がしゃしゃり出ておこう)。

このときは20センチの冠水でこの有様だった(左は東西大通り、右は劇場内)

それをポイント箇所を回りながら滔々と開陳される。無知な私は気のきいたこともいえず、ただ黙って聞くだけだったのだが、そんな私でもそういえばと気付いたことがある。「ユピテルとガニメデスの邸宅」(Domus di Giove e Ganimede:I.iv.2)出入口の敷居の高さなど、どう考えても普通ではないのだ。南北のその角地付近と東西のダイアナ通り北側の高さは、とてもでないが踏み台がないと入れはしない。すなわち人間工学的に作られたのではないことが明白である。もひとつ、私もずっと「?」だった構造物が「七賢人浴場」のそばにあるが、その謎解きは堀先生の著書のおたのしみにとっておこう。こうしてみると水没を前提にしているという説はなるほど説得力がある。しかも世界レベル的に新見解なのである。それを可能にしたのは遺跡全体のレーザー測量データである。

左写真の左奥が「ユピテルとガニメデスの邸宅」出入口で木造の、右写真がダイアナ通り北側で、展望台への階段場所のみに石の踏み台が現在設えられている:昔はすべての出入口にあったはず

 そうそう、「ユピテルとガニメデスの邸宅」についても触れなきゃ。この作業で思い出してしまったが、書き残しておきたい話はまだまだ一杯残っている。でも写真の整理だけでもたいへんという現実もある。

Filed under: ブログ

うんちビジネスの今:トイレ噺(21)

 これも偶然だがようやく知った。2018年あたりから話題になっているようだ。「「便はダイヤモンドより価値がある」:起業したサッカー元日本代表の挑戦」(https://mainichi.jp/articles/20210122/k00/00m/050/229000c?cx_fm=mailhiru&cx_ml=article&cx_mdate=20210125)。

 ググって見たらウンチビジネス関係がかなりアップされている。腸内細菌がらみで、「茶色いダイヤ」とかアプリ「ウンログ」の開発とか・・・(https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/04/ni150.php)。2013年には「日本うんこ学会」も結成されていたようだ(https://unkogakkai.jp/about-us)。ま、トイレ止まりの私はそこまで遡及追跡する予定はないが。

 以前、『うんこ漢字ドリル』が大ヒットし、類似商品が色々出た。これも立派なウンチビジネスかも?。今回ちょっと調べてみたら面白い動きがあった。一つは絵本、も一つはトイレ専用カレンダー。

 リビー・ドイチュ作、バルプリ・ケルトゥラ絵『旅でみる世の中のしくみ大図解』ポプラ社、2020年;(株)イオンファンタジー編集『Whose poo? だれのうんち:2021 CALENDAR』。後者はどうやらアンケートに回答したらもらえた非売品らしい。私はヤフオクで手に入れた(まだあるようですよ)。我が家でもトイレにぶら下げようかな。でも具象的でないので、便通に悪いかもね。

【付論】失せ物探しで梱包を探っていて出てきた。↓ 観光大国イタリアでは「Pisello(ちんこ)ビジネス」もありなのだ。一年間住んだのがナヴォーナ広場だったからいやでも目に入る。なかでも、ミケランジェロ作ダビデ像の前掛けなど、さすがの私も恥ずかしくて買えなかったものもあったが。

 ここで紹介するカレンダーは縦12cmの小さな1994年版だが、表紙は件のダビデ像のもの。月別であれこれ写真が変わる。カレンダーだけ代えて今も販売されているはず。右はトレビの泉の土産物屋で同行の女子学生がみつけたちんこパスタ(正直、私の眼にはとまらなかった、信じないかもだが本当である)。私は教材用に買って保存していたが、彼女は日本に帰るなり食したそうだ。文字通り肉食女子! 

 

Filed under: ブログ

40年振りに公開:パラティヌス丘Domus Tiberiana

 久し振りに恒例の考古学ニュースのチェックをしたら、今年の後半に、 パラティヌス丘の中のDomus Tiberianaが40年振りに公開されるそうだ。ここは現在ファルネーゼ庭園となっている場所であるが、新発掘の部屋やプールも含まれているらしい(https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2021/01/romes-domus-tiberiana-to-reopen-after.html)。私的にはDomus Augustianaのほうを公開してほしいのだが。

上が北。数字的には上図の左側中央の「17」の場所
逆に、北方向から南を見る

 秋までにコロナが沈静化していることを期待したい。

 世の中コロナ騒ぎで停滞が多いが、他にも、ポンペイ出土で国立ナポリ考古学博物館所蔵のアレクサンデル大王のモザイクが修復に入った(https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2021/01/pompeiis-alexander-great-mosaic-set-to.html)といった情報もある。

Filed under: ブログ

疫病対策の歴史:遅報(63)

 たった10分間の講義であるが、これは面白い視点だった。片山杜秀・慶應大学教授「伝染病予防法廃止から見えてくる新型コロナウイルス問題:新型コロナウイルス問題を日本の疫病対策の歴史から考える」(https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=3227&referer=push_mm_rcm1)。私にとって目からうろこは、オンタイムでのホッブス対ジョン・ロックの主張の解釈で、そのあたりを抜かしての学者先生(含む、私)の神学・哲学論争のバカらしさを再認識した次第。

 「伝染病」から「感染症」への表現の変化もあったのか・・・。全然気付いていなかった。

 私の妻からすると、政府や自治体によって保健所がこれまで予算削減対象になってきていて、だから今回みたいな状況になると、後手後手にわまるのよ、というわけ。

【追記】2021/1/10 広がる格差「コロナで変わる世界」(http://nml.mainichi.jp/h/ad4xa6m4gZyoiBab

 コロナ下で困窮している層増加の半面、さらに蓄財している富裕層の、2分解が促進している、という話。専門家の見立ては「所得が低いほど対面のサービス業や肉体労働が多い。高所得層ほどITなどコロナの影響が少ない業界で働く人が多いほか、テレワークができる事務系の職種に就いており打撃が少ない」。

Filed under: ブログ

秘匿されてきたアスレティック・モザイク

 イタリアの首都ローマから20km南東に、カステッリ・ロマーニCastelli Romani と呼ばれる丘陵地が広がっていて、古来より著名な保養・観光地である。その中でもひときわ有名なのがフラスカーティFrascati で、その名前の白ワインとポルケッタ(豚の丸焼き)が名物となっている。そこに林立する由緒ある別荘のひとつに、1582年に枢機卿Bonanniによって建設されたVilla Lancellotti がある。その後の詳しい来歴を辿るのは今は省略して(Wikipedia 参照)、ただちに本論に入ろう。

現況:ちなみに現在非公開の由

 この別荘には、実は「トゥスクルム・モザイク」Il Mosaico Tuscolano と称される床モザイクが一階玄関間に保存されている。それは古代トゥスクルムの斜面に位置するカマルドリ会修道院の庭で発見されたものだった。それを最初に報告したのはE.Pinderで1862年9月のことだった(Musaico Tuscolano, Bullettino dell’Instituto di Corrispondenza Archeologica, 1862-9, pp.178-182)。その翌年、今度はH.Hirzel が Pinderの先行研究を批判的に再検討している(Musaico Tusculano, Annali dell’Instituto di Corrispondenza Archcologica, 35, 1863 pp.397-412。そして41年後にHans Lucas, Athletentvpen, Jahrbuch des kaiserlich deutschen archäologischen Instituts, 9-3, 1904, pp.127-136 が発見以来の研究を総括的に論じた。 余談になるが、19世紀と20世紀初頭の上記3論文はたいへん有難いことにウェブ検索で入手できた。研究はその段階で早くも終わったようで、私はこれまで後続研究を見つけ得ていない。

典拠:Isa Belli Barsali e Maria Grazia Branchetti, Ville della Campagna Romana, Milano, 1975, p.222.

 Pinder によると、そのモザイクは、12 passi × 6 passi(≒ 9m × 4.5m;他説では12m × 6m;いずれにせよ、上記写真を見る限り、私には幅と縦の比率が2対1のようには見えないのが不審)の長方形で、おそらく体育訓練場 palestraの床を飾っていたものだったらしい。その部屋の山側の壁面は、発掘当時まだかなりの高さで壁が残っていた(4〜5 passi)。そしてモザイクはほぼ完璧な保存常態で、白黒のテッセラだけで作製されていた。製作年代を彼はハドリアヌス時代としている。この別荘への移設の際、両脇の2つの小さな四角の枠内に銘文が埋め込まれ、以下のように書かれているらしい。「ROMANVM HOC VETVS OPVS E TVSCULO TRANSLATVM」(この古いローマ(時代)の作品は、トゥスクルムから移設された);「PHILIPPVUS LANCELLOTTVS HIC POSVIT ANNO MDCCCLXXIII」(フィリッポ・ランチェッロッティがここに1873年に設置した):典拠は以下、M.Domenico Seghetti, Frascati nella natura, nella storia, nell’arte, 1906(未見。なお1986年なり2007年にAtesa社から再刊されたらしい。なお、銘文中の2箇所の「U」表示はママ)。ここに登場する人名はフィリッポ・マッシミリアーノ・マッシモ・ランチェッロッティ公爵(1843-1915年)。彼は1865/2/22にエリザベッタ・アルドブランディーニ(1847-1937年)と結婚し、この別荘を翌年購入していた。

 一見して分かるように、古代の接近格闘競技を中心に描いているが(具体的には、下部右から順に、ボクシング、レスリング、円盤投げ、徒競走?、パンクラティオン、幅跳び、など)、なぜか通常のそれ関係の本では紹介されることのないモザイクである(少なくとも、私は知らない)。私はググっていて偶然見つけた。その具体的解題は、地元のジャーナリストによって詳細に紹介されている。Achille Nobiloni, Il Mosaico Tuscolano della Villa Lancellotti a Frascati : Rinvenuto nel giardino dei Padri Camaldolesi nell’estate del 1862 (http://achillenobilonifrascati.blogspot.com/2010/01/:2010/1/14)

 今回はこの希有なモザイクの存在を紹介するにとどめるが、機会があれば詳細に論じたいと思っている。その際、下部左端(No.10-13)に何が描かれているのか、が焦点となるはずである。その際、Pinderが数字を付し(おそらく玄関奥から見ている)、それを具体的に図示したNobiloniの図(逆に玄関から見ている)を示しておく。

Pinder, p.180.
Nobiloni

【警告!】 私は今回の件で、未入手本の検索をしていて、どうやらフィッシングにあった可能性がある。無料で本のコピーが手に入る、ロボットでないことを証明するためカード・データの提示を、と求められたのだが、その後、肝心のダウンロードはできなかった。お陰で正月早々カード番号の変更をするはめになった。みなさまもお気をつけあれ。

Filed under: ブログ