月: 2023年7月

後期高齢者の断捨離

 思い立ってこのところ粗大ゴミの断捨離が続いている。これまでは、使用不可となっていたプリンタや大学から持ち帰っていた大型スキャナの断捨離だったが、ずっと和机でやって来た老妻が、足がしびれ立ちあがるのも億劫になってきたので(机に両手をついてよいしょとかけ声かけないと立ちあがれない)、椅子にすわる洋机にしたいと言いだし、津山で家を新築して以来40年近く使ってきたそれなりに重厚なヤマハ家具製の座机を捨てることにし、組立ても簡便な安価な勉強机を購入した。しっかりした勉強机用の椅子は何本も出ている足がじゃまといって、部屋の隅に転がっていた補助的丸椅子でいいのだという。つくづくお金のかからない人だ。

 昨夜その入れ替えをおこなったのだが、その後に机横に置いてあるゴミ箱を空にしようと持ち上げたらやたら重い。断捨離趣味の妻らしく、この機会にあれこれたまっていた雑品を一掃しただけでなく、なんと本を数冊ゴミ箱にぶち込んでいたせいだ(医学関係もあった)。これが私にはできない技なのである。

 そして、その入れ替え作業で痛感したのが、老人の断捨離って意外と難儀だなということだった。当たり前のことだがもう若くはないわけで、和机の足を分解し、やたら重たい上板を玄関外に運び出すだけの作業で若いときはなんてことないはずなのに、腰に負担がかかっている感覚のせいで、否、そういった肉体的以上に精神的にそれに触発されて動きが緩慢になりタイギイのである。

 私にとってより喫緊の課題は書籍の整理で、実はこの一週間、イタリアから届いたばかりの薄いパンフ形式の本が行方不明となっていて、積みあげている書籍の山の中をあれこれ探したけど未だ発見できていない(上のほうにあるはずなのにない、だから引っかき回す、だけどない,否、目にとまらない)。時間はあっという間に過ぎていってバカにならないし、そのプロセスで不要な書籍がまたえらくたまっているな感に捕らわれたのだが、家具の時もそうだったが、それなりに思い入れもあるモノを捨てるという営みは、私のように昔から脳外記憶保存型の(要するに生来記憶力が弱いからそうなる)、周辺にそれに代わるモノを置いておかないと安心できないわけで(記憶力がよければこんなこと不用だろうが)、はなはだ苦手な作業なのだ。だがしかしどうにかしなきゃと重い腰をあげる気になっているのも、死後に迷惑かけたくないということよりも、空間的にもう限界こえている思いが最近とみに出てきているからだろう。だけど妻のようにゴミにして出す思い切りのよさは私にはないので、そのためかかるであろう時間・手間が意識に先走るから厄介なのだ。

 実際には再び広げて参考にすることもないだろうコピーの山も厄介だ。いつかまた見るかもとか、必要出てくるだろうからと、ファイルボックスの中にそれなりに項目別にいれている書類の山が場所を塞いで増殖していて、これまた老妻の怨嗟の的となっているのだが、あと○年で終わりの私の研究人生を死亡時から見返してみるなら、もうすでに不用品のはずといっていいのだが。

 そう、この発想がようやく芽生え出したというべきか。

 ああ、ベランダ隅のゴミと化した藤製戸棚の分解もしなきゃならんが(ハリーポッターが始まって豊島園にカラスがもどってきて、てきめん姿を消していたハトがまたなぜか出没し出し、そこでくうくう鳴いているし)、この暑さである。一日延ばしにしてきたが、夕方になって陽が落ちたらやるかのう。

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ヒッポクラテスのお言葉

 古代ローマ史のイタリア語論稿を読んでいて、幾分唐突に出会った箴言である。ヒッポクラテスも言っている、la nostra vita è breve ma le ricerche continuano, la conoscenza acquisita è ingannevole, il giudizio è difficile. だから私はもう述べますまい、という箇所での引用だった。

 前半はどこかで聞いたことある、なかなかしゃれた文言だなというわけで、典拠を知りたくてググってみたら、ヒッポクラテス『全集』の冒頭に書かれているらしいことがわかった。「人生は短く、術のみちは長い」。これはどこかで聞いたことある。しかしその次に以下が続いていることは知らなかった。イタリア語訳だと「得られた知識は欺瞞的で、判断はむつかしい」となる。私が惹かれたのは「得られた知識は欺瞞的で」という箇所で、これを私は「現段階の研究は将来乗り越えられるそんな存在に過ぎないのだ」と読解し、こりゃ研究者たる者常に頭に刻み込むべきだと感じたのである。しかし原文だと「機会は逸しやすく、診断はむつかしい」、すなわち、彼は医者だから、この箴言の本来の意味は「短い人生の間に、医術の道を究めるには時間がかかる。しかも患者に適切な処置を施す機会は逃しやすく(失敗することも多く)、実に診断はむつかしい」といった意味になるはずだ。翻訳が重なっていくうちに、原意が微妙に曲げられていくわけである。

 世に流布している前半についても、ゲーテによって順序を逆転させて「芸術は長く、人生は短い」などと言われる場合が多く、芸術至上主義の表明と明らかに意味が変化してしまっている。問題は、ヒッポクラテスは芸術なんて意図していなかったにもかかわらず、なのだ。これはそもそもギリシア語原文でのtechneが、セネカによってラテン語でarsと訳され、それが英語のartを経て、日本語では「芸術」に変じたからである。これについては泌尿器を専門とする医学部教授による論稿をみつけた。斉藤博「ヒポクラテスの箴言「人生は短く,術のみちは長い」について」『埼玉医科大学医学基礎部門紀要』10、2004,61-75ページ。

 換骨奪胎、誤訳文化ニッポンの面目躍如である。もちろん立派なグリーク・ラテンの諸先生たちはさすがに読み誤ってはいないようだが、なにせ大多数の常民にとっては世に膾炙している俗論(俗事)のほうが耳に快いわけで(だからこそ流布する)、いくら「本当はこうなんですが」と指摘したとしても蟷螂の斧なのである。げに刷り込みは恐ろしい。いや、知名度の差というべきか。

 余談だが、上記論文には孔子『論語』の例の有名な文言も出てきている。だけど十五歳から六十歳までの格言、私にはこれまで少しも納得いかなかったのだが(私の場合、そんなに思い切りよく、どれも断念できなかったので)、今回「七十にして心の欲する所に従って、矩をこえず」にいささか思うところあった。76歳目前の私の場合、矩をこえるエネルギーが既に失われちゃっていて、もはやこえようにもこえることができないというわけなのである。

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帝国主義はいつも同じ

 テレビで映画「クーデター」(2015年米国)をみた。その中でピアース・ブロスナン演ずる正体不明の男がこんなことを言っていた。「欧米企業はこの国を食い物にしている。まず俺が友好的に現れる。インフラ構築のための貸し付けを申し出る。彼らには払えない額だ。次に発電所、水道、道路を造る。何だってかまわない。借金が払えなくなったら、乗っ取りだ」。

 かつてタキトゥスは『アグリコラ』21で、ローマ帝国が野蛮人を手なずける手立てを大略以下のように述べている。まず軍事力で十分に恐怖の念を植え付け、その一方で寛容政策で平和の魅力を教示する。そうするとそれまでローマに対等な意識をもって振る舞っていた多くの部族も、人質を送ってよこすようになる。この連中にさらに快適な生活を味あわせ、公的な援助をして、インフラを整備させ、酋長の子弟に教養学課を学ばせ、他の部族より優秀だとおだてると、これまでラテン語を拒否していた者まで熱心に学びはじめる。こうしてローマの服装さえも尊重されるようになる。それから人々を悪徳へと誘うもの、例えば逍遙柱廊、浴場、優雅な饗宴にふけさせる。何も知らない原住民は、これを文明開化と呼んでいたが、実は奴隷化を示すひとつの特色でしかなかった、と。

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