アウグスティヌス時代の信者たちの実態

 コミカレで以前アウグスティヌスをしたときに付録として配布したプリントをここに添付する。小論「人間アウグスティヌスを『告白』から探る」上智大学文学部史学科編『歴史家の調弦』上智大学出版、2019、pp.217-235、ではアウグスティヌスの生態を探ったが、このプリントでは、当時のキリスト教信者の実態を、フランシスコ会司祭のアマンが余すところなく暴露している。日本の研究者にはなぜかこういうしごく下世話な視点が欠落していて、きれい事、事実の探求よりも所詮護教なのである。その当否は読者各自のご判断にお委せせざるをえないが。

【付録】A.-G.アマン『アウグスティヌス時代の日常生活』上,リトン, 2001(原著1971)。

   著者:Adalbert-Gautier Hamman(14 Juin 1910〜20 juillet 2000)

   フランシスコ会司祭、Migneのラテン教父集成の補巻を刊行するなど、教父学の権威

結婚・家庭生活関係の実態

p.133- アフリカでは、試し結婚[足入れ婚]こそ知られていなかったが、キリスト教徒の場合でさえ、さまざまな状況を考慮せねばならなかった。ローマ法でいう「結婚の誉」が確立するまで、裕福な家庭は息子に同棲することを容認していた。

p.141- アフリカの教会会議では、司教や聖職者の息子が異教徒や異端者の女を娶ることがないよう求めている。しかし実際の生活においては、法はあってなきがごとしだった。一つ屋根の下で異端者の嫁とカトリック教徒の義理の母が暮らすこともあった、とアウグスティヌスは記している(『詩篇講解』44.11)。

 自由人と女奴隷の結婚は煩瑣に見られたにちがいない。小作人の状態は労働や生活水準などあらゆる面で奴隷の境遇と大差なかったからである。

 実際の法律は、こうした結婚を法律上一種の内縁関係であり貧者同士の結婚である「事実婚」contuberniumと同一視していた。

p.145- 教会は、異教徒の法律家には思いもよらなかった夫婦の平等をまっ先に言明した。しかし、アンブロシウスやアウグスティヌスにおいてさえ、計画と実行には隔たりがあった。夫と妻の関係をキリストと教会の関係になぞらえるほど、婚姻締結証書tabulae nuptiales中で聖化された男性優位の思想は、長い年月の間に人びとの心に定着し、難攻不落の城塞のごとくにたちはだかっていたのである。アウグスティヌスは自らこう語っている。「あなた方の妻はあなた方の下婢であり、あなた方が彼女たちの主人であることは、議論の余地なき事実であります」(『説教』332.4)。

p.148  アウグスティヌスは、ヒッポの教会で夫婦間の貞節を説いて夫たちの不評を買った。しかし彼は、ひるむことなく法律によって裏づけられた男性の特権を攻撃した。彼は、夫婦間の貞節を守らねばならなくなることを恐れて洗礼を受けない市民がいることを指摘した。

   私のことを憎んで「この男は妻が自分を見に教会に出かけることを知っているのだ」などと言っている人々がいることを私は承知しています(『説教』82.11)。

 アウグスティヌスは、春を売る男や女に対して寛大さを示したが、それは売春婦が人々のストレスを取り除く社会的役割を担い、一般女性が売春に陥るのを防いでいると考えたからだ(『秩序論』Ⅱ.4.12)。

p.150 金持ちは大勢の女を自分の思うままに操っていた。彼女たちは非常に便利な存在で、家庭での楽しみも享受した。しかし、アウグスティヌスはこうした下女の愛をののしり、妾は売春婦であると考えた。

p.151 世論は、夫が姦淫を犯すことを非としなかった。妻に禁じられた罪が夫には許されていた。既婚婦人が奴隷と寝台をともにしているところを現行犯で捕らえられると、彼女は公共広場に引きずり出された。しかし、男の方はそういう処罰を受けることはない、とアウグスティヌスは指摘している(『説教』161.9)。

p.159 監視の目を盗んで密会は行われた。厳しすぎる体制には落伍者がつきものである。神に身を捧げているはずの修道女が夜ごと助祭の家に通ったことに、キプリアヌスは気付かなかったのだろうか。他の聖職者は彼らの言によれば「名誉にかけて」修道女と寝ることを習慣にしていた。疑い深くなった司教は、娘たちが処女であるか否かを産婆に調べさせている(Cyprianus,Epistula,61)。

 残念ながら、その結果は知られていない。

 親は息子のいたずらを気にかけなかった。少年時代は過ぎ去ってゆくものである。彼らの犯す過ちは許してやる必要があった。父親は息子たちの力と男らしさの発露を誇りにさえ感じた。キリスト教詩人ペラのパウリヌス[5世紀の詩人。アウソニウスの孫]は、女中たちにすがった若き日の思い出を詩に書いている。彼は彼女たちが気楽に、ただで遊びにのってくれたと記している(Paulinus de Pella, Eucharisticos, 165-166)。 

 アフリカの多くの家庭でも同じようなことがおこなわれていたのだろう。母親さえも息子の行為を自慢することがあった。

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