柄にもなく、この情報には「長生きはするものだ」と思わされてしまった(以前、ティキヌムのコンスタンティヌス・コインでもそう書いたことを思い出すが (^^ゞ)。たまにではあるが、長いこと研究しているとこういう僥倖に恵まれることもある。
2026年9月4日発:セルビア東部のヴレロ・シャルカメン Vrelo-Šarkamen で発掘調査を行っていた考古学チームが、宮殿の塔の内部に設けられた豪華なローマ時代の浴場を発見した。この浴場は発掘した現地考古学者たちによって、305年から313年までローマ皇帝の一人だったマクシミヌス・ダイアMaximinus Daiaゆかりの邸宅の一部、と断定された。
この遺跡は、ネゴティン Negotin 近郊のシャルカメン村から西へ6km、ヴレロ Vrelo 川の左岸に位置している。ここは1889年にフェリックス・カニッツ Felix Kanitz によって初めて記録され、1947年には建築家のジュルジェ・ボシュコヴィッチ Đurđe Bošković が地上の遺構(要塞、橋、左岸の神殿、右岸の浴場)のスケッチを残した。シャルカメンにおける最初の考古学調査は、1975年にネゴティンのクライナ博物館によって行われ、その際、皇帝の彫像の一部(斑岩製)が発見された。研究者たちはこの貴重な石像をテトラルキア(四分統治)時代のものと特定し、要塞については6世紀の初期ビザンティン時代に築かれたものと年代を推定した。この古代末期の居住・記念複合施設は、90m×90mの正方形の平面を持ち、石と装飾的な煉瓦の列を組み合わせた「オプス・ミクストゥム opus mixtum(混合工法)」で壁が築かれている。施設には10基の塔が設けられており、その塔は内径9m、外径15mの規模を誇る。


は左下角の円形塔土台(⑩)、南側をVrelo川が流れている のみで、遺構はまだ北側に展開しているはずだが未着手

マクシミヌス・ダイアは、第二次テトラルキア体制の主導者だった東部正帝ガレリウスにより、305年に東部副帝(シリア・エジプト属州担当)として登用された。彼は属州ダキアのドナウ川周辺生まれの農民だったが、兵士となった。ガレリウスは母方の伯父だった。308年にリキニウスが正帝となるや(イリリクム・バルカン半島を占有)、コンスタンティヌスとともに”filii Augustorum”(正帝たちの息子たち)を名乗り、310年のササン朝ペルシアとの戦い後は公然と正帝として振る舞い、311年のガレリウス死後、リキニウスと帝国東部を分有していたが、313年4月、ツィラルム Tzirallum の戦いに大敗北し、小アシアのニコメディアを経由してタルソスで再起を図っていたが、8月に死亡した。

この地理的政治状況を考えるなら、マクシミヌス・ダイアがこの要塞邸宅なり浴場なりを常時使用できたという想定はかなり無理があるだろう。当初の6年間は伯父ガレリウスの統治下だったので利用可能ではあったにしても(逆に言うと、この遺跡をマクシミヌス・ダイアに帰すなら、その設立年代の上下限は305ー311年となる)、この地は一貫して彼の統治領域ではなかったからだ。後述予定のガレリウス構築の要塞邸宅 Gamzigrad-Romulianaとの類似性を重視するなら、彼の宮殿と言うよりもむしろ、この要塞邸宅の西方300mに位置する皇帝霊廟(上記平面図でのB:標高差で要塞邸宅より約20m高い)および奉献用墳丘tumulus(C)を含む記念建造物群をこそ重視すべきではないか。

それは 1994年から2003年にかけての発掘での豪華な出土品から、名が知られていない彼の母、すなわち皇帝ガレリウスの姉妹皇后のために築かれたものと判断されるに十分な内容だった。霊廟内からは、皇后の火葬遺骨とともに、総重量約250グラムに及ぶ一揃いの金製装身具(ネックレス3点、指輪3点、イヤリング2点、ペンダント1点など)が発見された。遺骨と共に発見されたこの金製装身具に加え、金箔製の奉納板9枚も出土した。これらの板の表面には、テトラルキア(四分統治)時代の金貨(アウレウス)の意匠が浮き彫りにされており、ディオクレティアヌス、コンスタンティウス・クロルス、マクシミヌス・ダイアといった皇帝の名が刻まれていたのである(詳しくは、Edited by Ivana Popovć, ŠARKAMEN:A TETRARCHIC IMPERIAL PALACE THE MEMORIAL COMPLEX, Belgrade 2005)。この場所がおそらくは彼女の出生地付近だったのかもしれない。


要するに、あの要塞邸宅は皇母の霊廟への参拝に際しての皇帝宿舎として建築されたというべきなのではないか。今日においてもきわめて辺鄙な場所にあることだし、水が豊富な土地柄なのにわざわざ導水渠を構築してのテルメなのは、あるいは温泉を引いていたのかもしれない。
シャルカメン Šarkamen のこの施設は、実は、ガムジグラード Gamzigrad にある皇帝ガレリウスの宮殿「フェリクス・ロムリアナ Felix Romuliana(ササン朝ペルシアへの勝利後、298年から311年にかけて建設)や、その東約1kmに位置する皇帝とその母ロムラ Romulaに捧げられた聖地マグラMagura の記念・聖域複合施設と呼応するように建設されたとしか私には思えないほど類似しているので、それに関して少しだけ触れておく。両者の高低差はMaguraの方が 60m高い(詳しくは、以下参照:Ed.by Ivana Popović, Felix Romuliana : Gamzigrad, Belgrade, 2011)。マグラには皇帝神格化儀式 apotheosis の基壇があり、ローマ帝国最後の祭礼地だった。

⇧Felix Romuliana 聖地 Maguraの霊廟他 ⇧
ガムジグラードは、セルビアのザイェチャル Zajiećar 市、ドナウ川の南に位置する遺跡であり、温泉保養地、そしてユネスコ世界遺産でもあった。この地には、ダキア・リペンシス Dacia Ripensis 属州において皇帝ガレリウスによって建設された、古代ローマの宮殿と神殿からなる複合施設「フェリクス・ロムリアナ」Felix Romulianaが存在する。主要エリアの広さは10エーカー(40,000平方メートル)に及ぶ。初期の探検家たちは、この古代遺跡をローマの軍事キャンプだと考えていたが、1953年以降に行われた体系的な考古学調査により、この場所が実際には皇帝の宮殿であったことが明らかになった。この施設は、四分統治(テトラルキア)体制の一角を担った皇帝ガレリウスによって構想・建設された。ガレリウスはダキア系の出自で、ローマ皇帝ディオクレティアヌスの養子かつ義理の息子でもあった。彼は、ササン朝ペルシアへの勝利によって名声と栄光を手にした後の298年、自身の生誕地を記念するために建設を開始した。その名「フェリクス・ロムリアナ」は、ダキアの異教信仰の巫女でもあった母ロムラを偲んで名付けられた。この神殿と宮殿の複合施設は、主に3つの目的を果たしていた。すなわち、神格化された母を崇拝する場所、皇帝としての自身の功績を称える記念碑、そしてガレリウスのための豪華な別荘。ロムリアナは5世紀半ばにフン族によって略奪され、その歴史を閉じるまで存続した。
このロムリアナRomulianaの遺跡群を東側から見下ろしているマグラ Magura の丘がある。その頂上には、それぞれ2基の霊廟 mausoleum と「トゥムルスtumulus」と呼ばれる墳丘があり、皇帝を神々の列に加える「アポテオシスapotheosis」という神秘的な儀式が行われる場所だった。西暦305年頃、ガレリウス帝の母ロムラがこの霊廟に埋葬されたと推定されている(息子は311年に死亡し隣りに埋葬された)。この構造物は高さ約12メートルあった。現在それらは廃墟となっているが、その部材は後期ローマ時代のロムリアナ建設に流用されたと考えられている。
皇太后ロムラの霊廟に付属しているトゥムルスは、直径30メートル、高さ最大2メートルの石の環で囲まれた区域で、その内部からは木製の火葬用壇(薪の山)が発見された。このトゥムルスは当時の皇帝や皇族が神々の列に加えられる「神格化apotheosis」の儀式が行われた場所だった。しかしこの場所で焼かれたのは蝋(ろう)で作られた像であり、実際の遺体が焼かれたわけではない。
2つ目のトゥムルスは、皇帝ガレリウスの霊廟からほど近い場所にあり、石の基部の上に高さ8.5メートルの盛土が施されていた。高さ約10.5メートルの円錐形をなすこのトゥムルスの上には、3段構造の火葬用壇が設置されていた。伝承によれば、ロムリアナの構想者である皇帝ガレリウスが神格化され、神となったのもこの場所だった。

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