皇帝ネロ暴君像の再検討

 ここでは、以前紹介した皇帝ネロの私設劇場発掘報告との関連で、2年前の2021年に大英博物館が特集展示をした悪帝ネロ像の再検討がらみの情報を掲載しておこう。Thorsten Opper, ”Nero: the man behind the myth”, the British Museum, 2021, Pp.304.

 私なりの結論を先取りすると、悪帝の汚名がネロに付随するようになった決定的原因は、後64年のローマ大火でその責任をキリスト教徒に押しつけたというタキトゥス叙述が大いに影響していたらしいということ。再検討の史資料として、反皇帝の元老院勢力側とは一線を画するものとして、落書きとパピルス文書が挙げられていて、一般民衆にはネロおよび2番目の皇妃ポッパイア・サビーナに対して根強い人気があった証拠とされているが、落書きは彼女の故郷のポンペイからだし、パピルスの原作者は皇室御用達の占星術師にして叙事詩人だったので、さてどんなものかと思わざるをえない。しかしネロの死後、彼を僭称するニセモノの出現が相次いだという事実は、義経ジンギスカン説と同様に、彼の人気を裏づけているといっていいかもしれない。しかし同時にキリスト教徒にとって彼の復活出現は「反キリスト」の到来とみなされることにもなったわけである。

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【事例研究】悪帝ネロ再評価をめぐって:文書史料、落書き、そしてパピルス文書

(1)タキトゥスによる「ローマ大火」(後64年)叙述とその反ネロ的傾向性

 ・タキトゥス『年代記』15.38-44: 38 この後ですぐ[大火という]災難が起こった。偶然だったのか、元首の策略によるのか、不明である(両説あってそれぞれが信用のおける典拠をもっているので)。… 39 ちょうどこのとき、ネロはアンティウムに滞在していた。都に帰ってきたころには、パラティウム丘とマエケナス庭園を結ぶ「ネロの館」に今にも火が燃え移ろうとしていた。…ネロは呆然自失の態でいる罹災者を元気づけるため、マルス公園やアグリッパ記念建築物を、さらには自分の庭園までも開放した。そして応急の掛け小屋を設け、そこに無一物となった群衆を収容する。オスティアや近郊の自治市から食料を運ばせ、穀物の市価を三セルセスティウスまで下げさせた。このような処置は民衆のためにとられたはずなのだが、何の足しにもならなかった。というのも、次のような噂が拡がっていたからである。「ネロは都が燃えさかっている最中に、館内の舞台に立ち、目の前の火災を見ながら、これを太古の不幸になぞらえて『トロイアの陥落』を歌っていたcecinisse Troianum excidium」と。… 42 それはさておき、ネロは祖国の壊滅をこれ幸いと利用して、「黄金の館」を建てた。… 44 ついで神々の忿恚[ふんい:いきどおりの意]を和らげる手段が講じられる。…しかし元首の慈悲深い援助も惜しみない施与も、神々に捧げた贖罪の儀式も、不名誉な噂を枯らせることができなかった。民衆は「ネロが大火を命じた」と信じて疑わなかった。そこでネロは、この風評をもみけそうとして、身代わりの被告をこしらえ、これに大変手のこんだ罰を加える。それは、日頃から忌まわしい行為で[嬰児殺害・人肉嗜食・乱交]世人から恨み憎まれ、「クリストゥス信奉者」と呼ばれていた者たちである。…  [國原訳]

左画像は、1951年米映画「クォ・ヴァディス」でPeter Ustinov(当時ネロと同年代の30歳)が怪演した鬼気迫る「芸術家」ネロ;右図は延焼範囲、黒の実線が当時の城壁、火元は大競技場北付近

(2)文書史料の傾向性の指摘:反ネロ的支配身分層

・ネロの自死後、彼は元老院により「記憶の抹殺」damnatio memoriae処分を受け、彼が布告した法律や彼の彫像などは公的に廃棄された(ただし、69年に皇帝オトとウィテッリウスによって早くも復権している。むしろネロの後継者として自らを位置づけるのが得策と判断したからだろう。これは「一時的に」と表現されるのが通例であるにしても、ポピュリスト・ネロへの評判が根強かったことの反映と考えるべきだろう)。タキトゥスらの著述者たちはいずれも当時の支配者階級(元老院身分・騎士身分)に属していたので、共和政への復帰を目論む彼らの叙述が反皇帝・反ネロ的な傾向に捕らわれていたとしても不思議ではない。

・とりわけ、ネロが大火を眺めながら自作の『トロイアの陥落』を歌っていたという件は、トロイアの末裔を標榜していたユリウス・クラウディウス朝が第五代皇帝ネロで断絶したという事実を踏まえると、明らかに意図的事後予言の創作箇所といっていい。

 その上、ネロとポッパイアがポンペイを訪れた際に(後64年?:おそらく後62年の地震災害復興の視察か)、女神ウェヌス(=ヴィーナス=アフロディーテ)に捧げたものを賞賛する詩の落書きが残っている。なお、ポッパイアはポンペイ出身で、遺跡から西北西に直線で2.7kmに位置する豪華絢爛なOplontis遺跡はポッパイアの別荘と想定されている。

(3)Pompeii, Casa di C.Iulius Polibius(IX.13.1-3)の台所の壁に刻まれた落書き:後42-45年頃

Munera Poppaea misit Veniri sanctissimae berullum helenumque / unio mixtus erat / Caesar ut ad Venerem venet sanctissima ut tui te vexere pedes / caelestes Auguste millia milliorum ponderis auri fuit

「ポッパイアは最も神聖な(女神)ウェヌスに、緑柱石(エメラルド)beryllus、そしてイヤリング真珠、大きな一粒真珠を贈った / カエサル(ネロ)が最も聖なるウェヌス(神殿)を訪れたとき、そしてアウグストゥス(ネロ)よ、あなたの天の両足がそこにあなたを連れてきたとき、そこには夥しい重さの金があったのだ」。

  この落書きがネロ没落の10年後の後79年のポンペイ埋没まで残存し得ていたことは、少なくともポンペイにおいてネロやポッパイアへの根強い親近感が庶民・中産層に存在していたことの証しだった、と考えられているが、さて。

(4) ネロの皇妃ポッパイアを愛でたパピルス文書P.Oxy.77,5105:帝国東部での好意的評価?

 ネロ帝、ウェスパシアヌス帝(在位後69-79年)と密接な関係があった占星術師・叙事詩人アレクサンドリアのレオニダス作のHexameter(六歩格)詩「ポッパイアの神化」の、後3世紀の写しがパピルスの両面に各42行残っているのも、親ネロ的感情からだとしているが、さて。

表側                    裏側  

     第15-25節の訳

*インタビュー記事:https://globe.asahi.com/article/14439296

ポーランドのノーベル文学賞作家ヘンリク・シェンキェヴィチの小説『クォ・ヴァディス』(1895年、受賞はその10年後)がネロの悪行やキリスト教徒迫害の様子を描き、さらにこれが映画化され、悪役ネロのイメージが定着した。

だが、「エリートによってつづられた公式記録がネロを悪者扱いしているのに対し、落書きは彼の大衆人気の高さを物語っている」と、研究者は語る。

コロッセオ考古学公園のアルフォンシーナ・ルッソ所長談:2021年6月21日

――ネロはどんな皇帝だったのですか。

「考古学的視点から探る限り、極めて有能な君主だったと考えられます。彼は、セウェルスやケレルといった有能な建築家を登用して宮殿を建設するとともに、大火後のローマの街の復興にも努めました。災害に備えて道路を広く取り、柱付きの回廊を設けて家同士の間隔を保つという、合理的な都市計画でした」

――なのに、なぜ「暴君」と呼ばれるようになったのでしょうか。

「彼は、庶民すなわち下層中産階級を優遇する政策を展開し、改革を実施して、民衆に広く愛されました。彼らからの支持に依拠した政治を進めたのですが、一方で貴族階級や元老院とは対立したのです。だから、死後否定的に扱われたのです」

――ただ、母を殺害したり妻を死なせたりと、粗暴な印象は拭えません。

「この時代は、殺人も、近親相姦(そうかん)も、権力闘争の一環でした。同じようなことは中世にもその後の世界でも起きたのです」

【蛇足】上記ウェブ記事であるが、せっかく展覧会場で落書きが書かれた漆喰壁の写真をとっているのだが、ラテン語、いなむしろ筆記体を読めないせいで、とんちんかんな箇所を写してしまっていて、私的には使い物にならなかったことを付記しておく。

左が記者の撮った写真。右が本来の4行にわたる引用箇所を上部に示したもの。もっと左寄りで上のほうを写すべきだったのだ。

 

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