アウグストゥスの家系をめぐって

 読書会での準備で調べ出したアウグストゥスの出自・家系問題だったが、アウグストゥスについての後世の評価が実像より高くなってしまったせいか、あまり触れられることのないテーマのようなので、ここに知りえたことをまとめて、過大評価を排して、彼の実像らしきものを探る手立てとしたい。

[アウグストゥスの家系問題]:誇るべき祖先を持っていなかった(以下の情報は、スエトニウス『皇帝伝』「アウグストゥス」1-3に依拠:これにはスエトニウス叙述の信憑性問題が絡むが、別件での調査から、こういった内容に関して私は信頼できると考えている)

 ・オクタウィウス氏Octavia gens はネミ湖の東南Velletriの地方名士で、王政時代元老院に抜擢され、平民から貴族に移籍されたが、時を経て自ら平民となった(いかにも嘘くさい)。この氏は2系列に分かれ、一方は元老院身分だったが、オクタウィアヌスが属する方は彼の父の代まで騎士身分であった。

 ・アウグストゥス自身は「由緒ある騎士身分の資産家に生まれ、自分の家系で元老院議員となったのは父が最初であった」としか記していない。

 ・のちの政敵のマルクス・アントニウスは「彼の曾祖父は解放奴隷で」「Thurii(半島南端)出身の綱作り職人で、祖父は両替屋であった」とけなし、彼を幼称のThuriusと呼んで憚らず、のみならず母方についても「曾祖父はアフリカの土着民で、Aricia(ネミ湖とアルバノ湖の中間)でときに香油屋を営み、ときにパン屋をしていた」とくさしている。

                      Aricia ↑      ↑ Velletri          ↑ Thurii

 ・別情報でも「父は両替商であった」とか「選挙のとき、候補者に雇われて選挙区民に賄賂を配る下働きの一人だった」と言われていた、などなど。

 要するに、父ガイウス・オクタウィウスがカエサルの姪アティアと結婚したので、表舞台に登場できる道筋が敷設されたわけのようだ。         

 というわけで、次により詳細にOctavia gens の系図を調べ出したのだが、ようやくそれがだいたい完成した段階で、以下のウィキペディアで明快に図示されていることが判明 (^_^; 。 やれやれ、とんだくたびれもうけだった。https://en.wikipedia.org/wiki/Template:Family_tree_of_the_Octavii_Rufi

 王政時代のうさんくさい伝説的な系図話はさておき、さかのぼり知られる最古の祖先グナエウス・オクタウィウス・ルフスは財務官=元老院身分有資格者で(前230年頃)、長男系は、法務官、執政官等を輩出して元老院身分としてそれなりの位置を占めていたが(カエサル時に平民から貴族に昇格)、次男ガイウス・オクタウィウス系はずっと騎士身分に属し、アウグストゥスの父がようやく法務官格でマケドニア属州総督、即ち元老院身分に登り詰めることができた「新人」家系だった。後日談としてその息子ガイウス・オクタウィウス(前64年生まれ:彼は生涯自分から「オクタウィアヌス」と称したことはなかった、らしい)が、さしたる政務官経歴もないのに、元老院から元老院議員とされたのは前43年、19歳の時のことだった。

 彼を養子に抜擢したガイウス・ユリウス・カエサルの家系については、以下のウィキペディアをご参照のこと。https://en.wikipedia.org/wiki/Julii_Caesares(より詳しくは、https://en.wikipedia.org/wiki/Julio-Claudian_family_tree)

  

【成人してからも、実際に毀誉褒貶相半ばする評価】これも、スエトニウス『ローマ皇帝伝』「アウグストゥス」に依拠

  16:シケリア海戦で、戦いが始まろうとしていたとき、突然アウグストゥスは猛烈な睡魔に襲われ、その結果、幕僚に呼び起こされて初めて戦闘開始の号令を下したほどである。これがアントニウスに意地悪い非難の材料を与えたものと、私には思われる。「奴は戦列を整えた敵の艦隊をまともに正視できず、仰向けにのけぞり、空を睨んだまま、この阿呆は眠りこけてしまい、とうとうマルクス・アグリッパが敵の艦隊を潰走させてしまうまで、目を覚まさなかったし、兵たちから見える所までやってこなかった。

  68:アウグストゥスは若い頃から早々と、いろいろの不行跡をめぐる世間の悪評に耐えた。ポンペイウスは彼の柔弱を嘲り、アントニウスは「大叔父カエサルとの汚らわしい関係で養子縁組をせしめた」とののしり、同じくアントニウスの弟ルキウスも「カエサルに童貞を奪われ、ヒスパニアでも、ヒルティウスにすら30万セステルティウス[約1億円]で操を売った。そしていっそう柔らかい毛を生やしたいため、いつもすねをまっ赤に焼いた胡桃で焦がしていた」と。

  89:アウグストゥスがせっせと間男をしたことは、友人といえども否定していない。・・・アントニウスは・・・(あれこれ中傷したあげく)・・・まだはっきり敵でなかった頃に、次のようなあけすけな手紙を書いた。「何がそなたの考えを変えたのか。私が女王クレオパトラとねてるためか。彼女は私の妻だ。今に始まったことではない。9年も前からではないか。そしたらそなたはリウィアとだけねているのか。この手紙を読むころ、テルトゥラとねていなければ結構なことだ。それともテレンティラとか、サルウィア・ティティセニアか、いやそいつらみんなと一緒にねているかな。しかるに、そなたならば、どこでどの女に対して勃起させようと問題にはならんのかね」

  71:奔放な情欲に関する非難は彼にしがみついて離れなかった。伝えるところによると、後年になっても処女を辱める方をいっそう好み、そのような女があらゆる所から妻リウィアによってすら探され提供されたという。

    賭事はいろいろ取り沙汰されても、アウグストゥスは決して尻ごみしなかった。・・・「私は私の名儀で2万セステルティウス[640万円]失った」。・・・「そなたに250デナリウス[32万5千円]送ります。これは饗宴の席で・・・賭をしようと思ったら、一人一人に私が与えていたかもしれない金額です」

 病弱で肝心の時腑抜けであった彼がまだ10代に、なぜ大叔父カエサルが遺言書で養子に指名していたのか(本人はそれを知らなかったらしい)は論議の的である(スエトニウス、8参照:直系男系として、ローマで散々叩かれた「愛人」クレオパトラ7世との間に前47年生まれのCaesarionがいたが、それは論外にしても)。

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