テヴェレ川の戦略地点を探る

 今、法事絡みでちょっと早めに帰省している。ヒマというわけではないが、実家に置いてあるiMacのデスクトップをいじっていると、以前の仕事で集めたけど忘れ果てていた史資料が埋もれていて、なんだかもったいないネタがあれこれ転がっていたりする。研究雑誌には野放図に画像を掲載できない事情があるが、その落ち穂拾いで論文に掲載したかったものを、ひとつ紹介したい。

 以前『軍事史学』第54−2、2018年に、「三一二年のコンスタンティヌス軍」を書いたことがあった。その時の私の論述のキモのひとつは、312年10月28日のミルウィウス橋決戦において、迎え撃つマクセンティウス側にとってテヴェレ川の蛇行が重要な防衛拠点になっていたはず、という着想にあった。私は幾度か現地を訪れ、最終的には歩道のない自動車道をひやひやしながら歩き通して自分なりの確信をえた(せめて自転車で軽快に移動したかったのだが、実際にそんなことしたら車が文字通り疾駆しているので危険きわまりない冒険になっていただろう)。論考では地図でそれを簡単に示しておいたが、今般その時のGoogle Earth画像が出てきたので、それを開示する。ただし2013年段階の画像なので(我ながらこのネタ長く寝せていたんだなあ)、現在のそれとは表示が異なっていることをお断りしておく。どなたでもグーグルで距離も測ったりして追体験できるので、実際に試して頂ければと思う。

 フラミニウス街道Via Flaminia を一路南下してきたコンスタンティヌス軍は、決戦を前に帝都から20キロ直前のMalborghetto付近の丘陵地に数日間滞留していたが、28日早朝に進軍を開始する。直線で約6km緩い坂を下ったところで、かつてのアウグストゥスの皇后リウィアの別荘に至るのだが、ここまでくるとそれまで左手に見え隠れしていたテヴェレの流れをようやく手近に見ることができたはずだ。この別荘は舌状台地の南端に位置していて、そこを下る街道は現在でもやたら狭い切り通しで(だから自動車道は東でトンネルにもぐっている)、その真下がPrima Portaであり(このあたりのことは、このPHでの、「【余滴】コンスタンティヌス大帝1700周年記念関連貨幣・切手資料紹介:今年は何の年?」、p.16-17;上記『軍事史学』の画像補遺、p.7-10に、かつて書いた)、そこにはテヴェレ川に注ぐ支流が西から流れてきていて、現在の鉄道ノルド線のプリマ・ポルタ駅はその上をまたいでいる。実際にはおそらく前日までにそこまで進出してきていたマクセンティウス軍はコンスタンティヌス軍進発に呼応してその台地を急登し、現在の大ローマ市民墓地Cimitero付近で東西に展開して布陣し、コンスタンティヌス軍を待ち受けていたと考えられる。テヴェレ川はこのあたりで大きく東側に蛇行しているので、マクセンティウス軍からみて右には広い空間が開けていたことになる。但し当時は遊水池の河原の不毛の湿地帯だったかもしれないが(当然、往時に川筋が今のままだったと考える必要はないが、今と似たようなものだったと想定しての話である。以下同様)。

中央やや左に見える眼鏡状の自動車道の立体交差のすぐ左上が別荘、その左にPrima Portaのアーチ遺跡がある。自動車道が先で地下に潜っているのも注目

 その後テヴェレ川の川筋は西に動き、フラミニア街道に接してくる。そして、街道と川筋が最も接近する箇所が下図付近。現在は両脇を自動車道で挟まれて鉄道線路も平行しているが、昔の街道筋がどちらにあったのかは不分明だが、いずれにせよ、西側はちょっとした崖なので、川筋と街道はかなり接近していたことは確か。そこで私はマクセンティウス軍の防御線がここに置かれたと想定した。崖から川まで最短で40mほどしかない。そしてその手前(南)にはやはり蛇行しての若干の空き地があるので、そこにそれなりの軍勢を待機させることも可能だったはず。

右の写真の自動車道は2車線ずつ左右に見えるが、その左にさらに鉄道線路ともう一つ道路が平行して走っている

 この防御線から南に直線で約270mの地点でテヴェル川はまたもや右に急激に蛇行し始め、現況では約110mを経てまた戻って来る。この北側の隘路を採るか南側を採るかが問題だが、私は背後の空き地に部隊を配置することできるので、北側に防御線を張ったのではないかと想定してみたが(川まで260m)、どうだろう。南側も場所によっては西を塞ぐ丘もあって北側に比べると60mは幅が短くなっているのだが。

 ところで、Aurelius Victor,40.23には以下のようなくだりがある。マクセンティウスは「首都からサクサ・ルブラへと9ローマ・マイルほど辛うじて進んだところで、戦列がacie 粉砕され caesa」た、と。ここでのSaxa Rubraとは元来このあたりを示す地名と考えられているので(現在のノルド線の駅名と合致しているわけではない。また上記【余滴】で触れたピウス10世による顕彰ラテン語碑文設置場所はプリマ・ポルタ駅近くなのだ)、一説にはマクセンティウスはこのあたりで敗北を喫したとされる場合もあるが、地形的に決定的戦場とは思われない。

 その防御線を突破されたとき、帝都ローマの城壁以前の最後の守りはいうまでもなくテヴェレ川を渡河するミルウィウス橋ということになるが、そこに至るまでにテヴェル川はまたもや大きく東側に蛇行して、ローマ・オリンピックの時に陸上競技場などが設置された広大な平地を提供している。ここは現在Tor di Quito公園となっていて、古来幾度か戦場となった場所である。コンスタンティヌス軍とマクセンティウス軍が激突した主戦場がここだったと考える研究者もいるほどなのだが、私はむしろマクセンティウス軍壊滅の場所だったのではと考えている。その後のミルウィウス橋の戦闘とは、潰走するマクセンティウス軍を追撃するコンスタンティヌス軍の掃討戦にすぎない。とはいえ敵将マクセンティウスをそこで溺れ死にさせたという記念すべき戦場ではあった。

フラミニウス街道はローマ市内から北上し、左隅でミルウィウス橋(赤丸1つのほう)を渡り、一旦北上したあと右折して川筋にいたる

 というのは、これは論文に書いていないのだが、コンスタンティヌスはプリマ・ポルタ攻防戦のあと、自軍の出血を避ける手立てとして、マクセンティウス軍がフラミニウス街道に幾重も仕掛けた防御線を迂回すべく、軽騎兵連隊を放って西側の間道を疾駆させ敵の背後をついて、一挙にこのTor di Quito地区に殺到させ、いち早くミルウィウス橋を渡河して対岸に達しせしめたのではと密かに思っているからだ(それをうかがわせる文書史料など一切ないが、マクセンティウス側の内通者の存在は別途指摘しておいた:たぶん彼らが詳細な間道情報をコンスタンティヌス側に漏らしたのでは:「裏切り者は誰だ!――コンスタンティヌス勝利のゲスな真実――」『地中海学会月報』389, 2016/4)。こんな突飛とも思われかねない仮説を本気で考えざるを得なかったのは、コンスタンティヌスのアーチ門の南面右のレリーフ右端で、合図のラッパを吹いているあの二人の兵士をどう解釈すべきか、に関わっての想定なのである。あれはどう見てもコンスタンティヌス側の進軍ラッパである。それが橋を潰走するマクセンティウス軍より先に渡河しているのだから、奇妙なわけなのである。

 このような私の間道仮説の当否は別にして、テヴェレ川の複雑な蛇行を利してのマクセンティウス軍の防御線構築論は納得頂けたであろうか。

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