オスティアって実は季節労働だった、はず:オスティア謎めぐり(12)

 以下で触れる件は、一般向けのカルチャでは話してきたが、これまで秘中の秘として温めてきた構想である。文献的に見落としあれば、ご連絡いただけると幸甚である。k-toyota@ca2.so-net.ne.jp

 帝都ローマの外港オスティアのことを調べていると、私は思考の落とし穴のひとつに、古代地中海世界の船舶航行にとって航行可能期間が春から夏にかけてと限られていたという指摘から、あることに気付いてしまった(やっぱ、才能は隠せんものじゃの〜)。それは、当時の港湾労働のかなりの部分が人力に頼っていたという当たり前の事実から、当時の人力の最大の供給源は奴隷だったはずで、ここまではそれぞれ従来から普通に言われていたことであったが、ちょっと待てよと。

 前段と後段を繫いで、はたと気付いたのが、じゃあ航海不能の期間に奴隷たちはどうしていたのか、ということだった。奴隷の所有者は無駄飯を食わせていなかったはずだ。これを別視点から見てみると、港湾労働が季節労働だったということであり、具体的には繁忙期は3月から9月までで、10月から翌年の3月までの実に半年が、毎年決まったように港での仕事閑散期となるのであれば、私が奴隷所有者であれば当然、労働力の有効活用の途を探ったに違いないはずなのだが、というわけである。

 奴隷労働の季節的転用といっても、なにしろ本邦どころか管見の限りとはいえ欧米研究者の文献中にも具体的に触れているものにお目にかかったことがなく、データ的に若干間遠いけれどようやく見つけえたのが以下の図33と解説だった。K.グリーン『ローマ経済の考古学』白水社、1999年、p.191、図33.

 

この図をじっくり拝見していて、なんと都合いいことに、地中海世界では港湾作業の閑散期が農繁期にあたり、とりわけオリーブ収穫期に集約的な労働力が必要とされていた、すなわちおそらく春先から港湾労働に投入されていた奴隷たちは、秋以降はオリーブの、そして穀物やブドウの手入れや収穫作業へと就業場所を移動していたのでは、との想定が可能になったのではと思う。

 私は、後四世紀の北アフリカの初期キリスト教運動でのドナティストの一派、キルクムケリオーネスを久々に思い出してしまった。彼らは、属州の現地人なので、いかにカラカッラ帝以降とはいえローマ市民権保持者として遇せられていたとは思えないが、奴隷ではなく、季節労働に従事する無産階層、いわば現代のフリーターだった(厳然と存在していたいわゆる下級市民humiliores:別件だが、池袋での運転ミスした現代の上級市民honestioresさん、当然のことながら処罰されてよかったと思う。でも収監はされないのだろうけど。同様にサクラ問題の最上級市民に対しても厳正にやってほしいと思うのが私のような庶民感情なのだが、ま、政権に媚びるどっかの国レベルの我が国司法体制ではだめでしょうね、残念ながら)。

 引き続いて次に湧いて出る疑問、ではオスティアでの半年間の港湾労働従事中、奴隷はどこに宿泊していたのか、という問題が出てこざるをえない。果たして奴隷たちはあの立派な集合住宅内に居住していたのであろうか。そんなことはありえない。冬が雨期で春から夏は乾期の地中海気候を考慮にいれるなら、臨時宿舎としてせいぜいテント生活していたのでは、との可能性を指摘したくなるのである。そのほうが昼間の熱がこもっている家屋内で過ごすより、はるかに快適だったという事実がある(私はそれをローマ滞在中や、サンチャゴ巡礼中の巡礼宿で目撃・体験した。日本と違いなぜか蚊が出てこないのだ)。奴隷の逃亡を防ぎ、管理しやすい区画が奴隷用にオスティアのどこかに割り当てられていたのではないか、というわけである。雨期には使い物にならない土地だったらなおさらいいはずのその場所がどこだったのか、が当面の課題となろう(現段階で私は、川向こう、とりわけ当時存在していたテヴェレ川の大湾曲部分が最適ではと密かに思っている)。

 また、先行研究者たちによってオスティアの集合住宅から居住者数が想定されてきているのだが、このような諸事情を勘案するなら、奴隷以外の、解放奴隷やローマ人たち、それに貿易に従事して地中海各地から往来していた非ローマ人たちの滞在状況も、現代の海岸のリド・ディ・オスティアでの観察から、ヴァカンツァ期の夏以外多くの集合住宅が無人化し、スーパーも休業して街自体が閑散化していることから連想して、貿易商はもとより、役人・商人たちも同様に相当規模で年中行事的にローマや本拠地とオスティア間を人口移動していた、と想定してもあながち間違ってはいないような気がする。要するに立派な居住家屋も季節使用されていたに過ぎなかったのでは、というわけである。

 そこからさらに、オスティアでの社会インフラ、とりわけ特徴的な多数存在する公共浴場や大規模な製パン工房なども、繁忙期を想定してのそれであって、閑散期にはその多くが店じまいしていたはずという結論が容易に導かれるのであ〜る。

 ただし、そもそもオスティアは創建以来状況の変化の中で都市機能的にずいぶんと変容してきた挙げ句、最後は大理石やトラヴァーチン、ついでにおそらく焼成レンガなどの建築資材の石切場・採掘場となる運命を辿っているからには、二〇世紀における発掘状況で姿を現したその都市景観はその最終段階の姿に他ならないわけで、要するに転用や放棄・破壊を蒙ったあとの景観から、往時を再現しようとするには慎重な配慮が必要とされねばならない。たとえば私など実は、オスティアはポンペイに比べてバール関係がやたら少ないことに不審を覚えたものであるが、それも5,6世紀の都市凋落期の姿とすればなんとなく納得できるような気がしないでもないのである。それにしてもあまりに少ない気がするので、別の仮説を加味すべきだと思っている:現段階では、オスティアは基本的な都市機能が一般市民を前提とした消費都市ではなく、なによりも特殊港湾都市であり、そこに集住していた主要構成員が奴隷であるという特異事情、すなわち、基本的に廉価な賄いで養われていた身分層からなっていたせいでは、と考えている。奴隷には身銭を切っての購買能力が、お目こぼし程度にはあったにしても、基本的に備わっていないはずと考えるからである。

 サァテかくのごとき珍説、いつものことながら、はたしていつになったら真面目に取り上げられることになるのやら、もって瞑すべし。

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