私にとっての「三上」:トイレ噺(14)

 欧陽脩「帰田録」に「余、平生作る所の文章、多くは三上に在り。乃(すなは)ち馬上・枕上・厠上なり」の言あり。すなわち、文章を考えるのに最も都合がよいという三つの場面。馬に乗っているとき、寝床に入っているとき、便所に入っているとき、というわけである。

 私に「馬上」の体験はない。確かに体験的に「厠上」は物思いにふけるにはいい場所のように思う。ただし、私に具体的成果の記憶はないけど、今後に期待しておきたい。そして「枕上」はさしずめ湯川博士だが、しかし私の場合は確実に眠ってしまう。だが「枕」ならぬ「夢」の中なら、いささか体験がある。今はむかし、修論の最終段階で、夢の中でひらめいた着想があった。「これで修論はできた!」と狂喜したのはいいが、もちろん,起きたらすべて忘れてしまっていたのは言うまでもない。 

 私の体験ではむしろ、風呂の湯船につかっているときに、着想が湧くことがある[かつてあった]。だから一時期,風呂の中に防水のメモ用紙をぶら下げていたこともある。いわば「湯上」というわけだが、用意万端だとかえって思いつかないものだ。これも今はむかし、40年近く前のことだが、青山学院大学での日本西洋史学会の口頭発表の前日(というより当日の丑三つ時)のこと、古代史なので残存史料は限定されている。レジメにそれらを網羅して印刷済みだったが、最後の詰め、というか史料をつなぎ新知見を紡ぎ出すための論理のつながりがどうしても決まらず、しかし発表時間は迫るしで時間切れぎみで、平凡な発表になるがしかたがない、諦めて風呂に入ってせめてさっぱりして人前にでなけりゃ、と湯船につかったとき、突然ひらめいたのである。私は水浸しのまま風呂を飛び出して部屋のメモ用紙に駆け寄り、メモった、ことがあった。まるでアルキメデスだったが、「ヘウレーカ!(ηὕρηκα!)、ヘウレーカ!(わかった! わかったぞ!)」と叫びはしなかったが。おかげで自分的には満足のいく口頭発表をすることができた記憶がある。

 かくして今後への期待を含めて、「厠上」「湯上」、そして「夢上」が、私の場合の「三上」ということになる。
 しじょう、ゆじょう、むじょう

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