ペルペトゥア・メモ(1):鞭打ちと磔刑

VI.3:滅多にないことだが、他で読んでいる文献から関連記事がみつかった。フラウィウス・ヨセフス『ユダヤ戦記』II.9.308:翻訳第一分冊、p.325。

   その日フルロスはかつて誰もしたことのない大胆な所業、つまり、騎士階級に属する者たちを審判の座の前で鞭打ちし、十字架に釘打ちするという所業をやってのけたからである。たとえ生まれがユダヤ人だったとしても、少なくともローマ人としての地位のある者たちをである。

 ヨセフスは、ここでのユダヤ総督フロルスGessius Florus (在職64-66年)を第一次ユダヤ戦争勃発を目論んだ張本人として描いている。

http://jewishencyclopedia.com/articles/12376-procurators

 その140年後、場所は北アフリカで、ペルペトゥアの父はアフリカ総督代理のHilarianusによって鞭打たれている。この総督代理の臨時職は、正規のアフリカ執政官格属州総督proconsul(アシア州と同格で元老院選出属州総督の筆頭ランク)のMinucius Timinianus(ギリシア語訳での表記のほうがより正しいとされているが、さてどうだろうか:「Mινουκίου Ὀππιανοῦ」= Oppianus ≒ Opimianus = PIR5 M 622,1983:ca.186 consul)の在任中の死亡によるもので、北アフリカのいずこか(おそらく州都カルタゴ周辺)の皇帝直轄所領の財務管理官procuratorだったヒラリアヌスは、後継の正規の総督が派遣されるまでのつなぎだったと思われる。こういった財務管理官の出自は、身分的には元老院身分に次ぐ騎士身分にランクされてはいても、おおよそ皇帝の宮廷における私的雇用人(奴隷、解放奴隷)であったから、姓名表記もここでのように個人名のみとなることが多い(ローマ市民が2つの姓名で表示される場合は、個人名・家系名で、今の場合、ミヌキウス・ティミニアヌスは、ca.123のアフリカ総督のT.Salvius Rufinus Minicius Opimianus,[PIR5 M623]が祖先と考えられるので、Minucius Opimianusと修正されているが、さて)。

 何が言いたいかというと、ペルペトゥアの父は笞打ちされているからには、元老院身分や騎士身分等いった特権身分ではなかった、ということ。ヨセフスがご1世紀半ばの例外事例を書き残しているものの、そしてカラカッラ帝の全自由民への市民権付与が目前の時期だったにせよ(それは、本来の市民権の内実の凋落を意味していたはずだ)。

【追伸】まったく別の話題ですが、磔刑つながりで。以前学生向けの論文集に磔刑がらみの事を書いた(「ローマ時代の落書きが語る人間模様」『歴史家の散歩道』上智大学出版、2008)。そこで十字架刑を体験した唯一の出土物を紹介したことがあったが、二番目ないし三番目の例として2000年前のイタリア出土の骨が2018年に公表されていた。いずれ再検討したいテーマであるが、なにせ先のない身なので、ここに明記しておきます。志ある人を求めています。https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2018/05/extremely-rare-evidence-of-roman.html#EKZb2MUx2dCPG5RE.97

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