投稿者: k.toyota

スコットランド出土のローマ軍砦跡出土の釘遺物について

  古代ローマ人の職人関係の碑文の検討をしていて、釘職人関係で私は初めて以下のようなエピソードを知った。

【エピソード】スコットランド最北のインチトットヒルInchtuthilに、後82/83年にGnaeus Julius Agricola総督(後40−93年:彼の養子タキトゥスは史書『アグリコラ』を残している)がカレドニア諸部族との戦闘に臨む際の軍の前進司令部として建設した。そこはスコットランド高地への主要通路の一つの起点に位置し、第20軍団ウァレリア・ウィクトリクスが駐屯し、総面積は21.5ヘクタールだった。後87年の撤退時に敵蛮族が武器に使用できないように、3.6mの深さの穴に100万本以上の鉄釘を埋め(砦構築にはそれほどの各種鉄釘を使用していたわけだ)、1.8mの踏み固められた土で覆われた状態で1950年代の発掘まで埋もれたままだった。回りは酸化していたが中心部の保存状態は良好だった。

 それについて、2012年に5本の釘に関する分析論文が公にされていた。出典は以下。MATASHA MAZIS, Five iron nails from the Roman hoard at Inchtuthil, ANU SoLLL, Occasional Paper 1 (2012), pp.1-18. ただ、機械翻訳しようとするとなぜか文字化けしたので、手打ち入力せざるを得なかった。特に成分分析に関する部分は未見であるが、概要を掴める部分を取り急ぎ報告する。

2012年5月、Derek Abbott氏は、スコットランド、パースシャー州のインチトットヒル Inchtuthilから出土した鉄釘5本をオーストラリア国立大学古典博物館に寄贈した。インチトットヒル遺跡は、1959年に古代ローマ時代の要塞跡の深い穴に埋められた数十万本の鉄釘が考古学的に発見されたことで知られている。論文著者のMazis女史は寄贈された5本の調査を依頼された(この5本の釘の詳しい流転については省略)。
 発掘隊は、1959年に87万5000本以上、重さ約7トンの鉄釘の埋蔵物を発見したが、その調査を依頼されたスコットランドの某鉄鋼会社は、それらを精査して、小型釘763,840本、中型釘85,128本、大型留め具25,088本、そして「長さ16インチ」の特大釘1,344本を数えあげた。その内の5本が今回の分析対象となった。

 考古学的および文献的証拠は、1世紀後半のブリテン島において、ローマ帝国の征服地と集落が大きく拡大したことを示唆している。推定2万人のローマ軍団兵の存在は、鉄製の武器、防具、道具の生産と維持に対する高い需要を意味していた。この時期、ローマ軍はブリテン島の西部と北部で遠征を行い、征服地に砦を建設することで征服地の強化を図っていた。インチトットヒルのような要塞は、兵舎、将校の宿舎、訓練場、病院、管理棟、工房などを備え、木骨造りの建物や泥壁といった大規模な上部構造を備え、構造上の用途で大量の鉄を必要としていた。釘が大量に製造され、理論上は要塞1つ分の必要量を上回っていたという事実は、領土が確保され、北方国境が開拓されるにつれて、新しい要塞に配備される準備として、インチトットヒルに予備として保管されていた可能性を示唆している。鉄鉱石の製錬で生じたスラング廃棄物(鉄鉱石の廃棄物)に基づくと、西暦43年から100年の間に、Weald、Forest of Dean とJurassic Ridgeといった主要な集落と生産地域をカバーするこの地方で、年間平均360トンの鉄が生産されたと推測される。この基準にすると、埋蔵された鉄7トンは、この州で生産される鉄の年間平均量の約20パーセントに相当する。これは埋蔵された鉄の量としては驚くべき量である。
 インチトットヒルの釘の経済的・社会的価値についてもう少し検討してみよう。釘は鍛冶屋にとって単純で基本的な形状であり、素早く大量に作るのは難しくないと考えられている。インチトットヒルで発見された物的証拠の中には、非対称の釘、偏芯した釘、粗悪に鍛造された釘など、製造に急ぎの作業が必要だったという考えを裏付けるものがある。釘は軍事要塞において城壁、門、その他の構造物をしっかりと固定するために使
われた実用的な物であったことを忘れてはならない。現代の鍛冶屋が手打ちの釘を製造しているのを個人的に観察した結果、熟練した鍛冶屋は、材料が既に赤熱している場合、平均して小~中サイズの釘を1本約45秒で製造できると推定している。これを基準にすると、87万5000本以上の釘を手作業で製造するには約11000時間かかる。すべての釘が現場で製造されたのか、それとも南からインチトットヒルに運ばれたのかは不明である。いずれにせよ、その量は、採掘、鉱石と燃料の準備、炉の建設、材料となる鉄の製錬など、多大な人員と資源の投入を示している。このことから、インチトットヒルの釘の製造に要した労力と、地中に埋蔵された物品の経済的価値を推測することができる。
 軍団の意思決定と問題解決能力についても考察することができる。 7トンもの鉄を埋めるという意図的な行為は、その背後にある意識的な決定に関して無数の可能性があることを示唆している。ローマ軍がスクラップ、損傷した、あるいは修理が必要な資材や装備を隠した例は数多くあるが、インチトットヒルの釘は、埋められた資材の量と、釘が未使用であったという事実で注目に値する。将来、備蓄品を回収するために戻ってくる意図があったのかもしれないし、7トンもの資材を輸送する兵站上の選択肢が限られていたため、急いで埋められたのかもしれない。全く問題のない未使用の鉄を埋めたということは、その資材が一般的に入手可能であったこと、そしてローマ軍が他の物資、施設、システムを迅速かつ効果的に活用する技術と適応力に自信があったことを示唆している。物質文化の研究者は、平釘のような物品を潜在的な「超遺物」として探すべきである。なぜなら、それらは、同時代の他のいかなる物品にも匹敵しない方法で、特定の歴史的時代の人々の知的世界への特別な洞察をもたらすからである。
インチトットヒルの鉄釘の事例を通して、私たちは帝国軍の生産、技術、組織についての洞察を得た。しかし同時に、釘の生産、解体、そして埋設を、自信、経験、問題解決、便宜といった、より具体的ではない概念の観点から論じることで、これらの遺物をより個人的な文脈に位置づけることもできた。
最後に、考古学的発見、解釈、そして保存について一言。過去を解釈できる能力の大きな弱点は、遺物の残存率が低いことである。ローマ軍団が鉄の備蓄を埋めるという幸運な決断、そして堆積条件の好条件、そして土壌の色の変化に気づいた考古学者の洞察力がなければ、私たちは今日、腐食過程、ローマ時代の釘職人の技術、そして帝国軍の組織について議論できる立場にはいなかっただろう。元の持ち主が寄贈された5本のローマ時代の釘を保管し、オーストラリア国立大学古典博物館に寄贈したので、1950年代の著名な考古学的発見への新たな関心を生み出す機会を得ることができた。保存修復と材料研究者は、物質文化の保存と解釈という責任を真剣に受け止め、物品の背後にある人間の知性を尊重し、集合的な過去についてより深く解釈し理解する機会を常に意識している。この釘に関する研究、特に釘の状態の評価と腐食状態の分析は、将来の世代が鑑賞し研究できるように遺物を保存する上で重要なステップだった。

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ローマ時代の北スペインのケルト女神

2025/11/13発信:Enigmatic Roman-era carved stelae found in northern Spain reveal an ancestral cult of Celtic female deities(https://www.labrujulaverde.com/en/2025/11/enigmatic-roman-era-carved-stelae-found-in-northern-spain-reveal-an-ancestral-cult-of-celtic-female-deities/

 私は以前、コンスタンティヌスの太陽神がペルシア起源のSol Invictusというよりも先行してケルト神だったのではという提言をしたことがあるが、いつものように学界は沈黙である。

 このたび、北スペインから出土(サンチャゴ巡礼路より約30km南)の3対神像が女神でケルト神の低層流がずっと息づいていていたとする新見解が提示された。「ローマ化されながらも文化的にまとまりのある地域において、先住民の信仰が根強く残っていた」というわけである。ま、当たり前といえばそれまでであるが。

左: Villosladの石板  中・右:Ortigosaの石板現況と復元描画

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クリスチャン・トゥデイ情報:書店の閉店続々と

◎2025年11月10日:日本キリスト教団出版局、事業を整理・縮小へ 5月に債務超過

 関連記事として以下も:

「友愛書房」は昔、よくお世話になった。書店そのものの未来が不安視されているのだから、仕方ないが。

昔の情報も:

米キリスト教書店大手、全米170店舗閉鎖 ネット販売に一本化

キリスト教出版のミライは!? 若手書店ボーイと牧師がトークライブ

CLC、文書伝道70年の歴史に幕 コロナ影響

◎私は個人的興味で以下に関心をもった。

2025年10月31日「カンタベリー大聖堂の「落書き」プロジェクトに批判の声」(https://www.christiantoday.co.jp/articles/35292/20251031/canterbury-cathedral-graffiti-project.htm

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久しぶりのGrand、そこ出土の「いわゆるメディトリナの石碑」

 文献検索していたら、偶然以下に行き当たった。M. Michel Bouvier, Une nouvelle interprétation des stèles de Grand (Vosges), Bulletin de la Société nationale des Antiquaires de France,  Année 2012,  2006  pp. 267-282.

 その冒頭を読んで気付いた。おお、あのグランではないか。「グランは、ヴォージュVosges県にある人口500人の小さな村である。しかし、ローマ時代には大都市であり、部分的に修復された1万7000席の円形闘技場、城壁、350㎡の巨大なモザイク画を収めたバシリカ、そして無数の地下水道など、かつての壮麗さを物語る重要な証拠を誇っていた」。かの論文は、その村の円形闘技場へ続く道沿いで1841年に発見された「いわゆるメディトリナの石碑」Stèle dite de Meditrinaについて、フェリックス・ヴーロ Félix Voulotによってアスクレピオスの娘であるメディトリナ神la divinité Meditrinaを表わすものと同定されたものを再検討するものである。

 このグランはかつて温泉治療場として名を馳せていて、コンスタンティヌス大帝もここで神託を得たと伝えられているので、アスクレピオス関連のものが出てきても一向に不思議ではないのである。

 だがその後、この女性を、石鹸、菓子、チーズ、あるいはより有力な説としてビールの製造を司る女神という説も提唱されてきたが、著者の言に依ると、いずれも根拠薄弱なのだそうで、さてそんな中でどんな新説を提出しているのか、読むのが楽しみである。

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アフリカ大地溝帯の人類史における意義

  私は、かつて「文書史料の落とし穴:聖書と考古学」上智大学文学部史学科編『歴史家の工房』上智大学出版、2003年、p.196f. で、この大地溝帯とその北に小アジア半島まで伸びている死海地溝について触れたことがある。そこでの主眼は人類の「出アフリカ」だったが、最近になって、古代エジプト文明におけるこの地溝帯の有していた現実的有効性、具体的には他に比べて鉱物資源が容易に入手できたというテレビ番組に触発され、紹介したことがあったが(2025/3/17)、このたび2025/11/5発信の「ナイル川が黄金の道だった」という記事を見つけることができて、我が意を強くした。https://www.labrujulaverde.com/en/2025/11/how-gold-flowed-through-the-nile-gold-mining-in-ancient-egypt-was-surprisingly-profitable-and-the-river-its-main-source/

 要するに、古代文明は他と比べて容易に資源を利用可能な地で発生した、というごく当たり前の指摘に過ぎないのであるが。

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安野貴博議員の試み

 偶然見つけた4回のインターネット情報:2025/6/26「安野貴博・インタビュー」(https://shueisha.online/articles/-/254272)を読んでみた。

 以前書いたことあると記憶しているが、彼はサブ、ないしアドヴァイザーとしての役割が妥当、と私は思っている。彼はテクニシャンであってそれ以上ではないからだ。しかし政治屋でないという、この斬新さこそ彼の持ち味で、このインタビュー読んでますますそう確信したわけであるが、それにしても、国会では云々の、国政の中心でデジタルテクノロジーがやたら遅れているという内部情報の吐露は面白かった。せいぜいその改善への貢献を彼には期待しておきたい。しかし、利益をあげなければ倒産してしまう民間企業と異なり、国民から際限なく収奪する特権をなぜか保有して平然と居直っている体制国家の改善など期待すべくもない、まあおのずと限界はあって過度に期待できないと思いつつ、節税のため微力を尽くして頑張ってもらうことに異存はない。

 たとえ革命起こしたとしても、早晩権力は腐敗するのが陳腐な定番だからである。その事例は歴史を顧みればそこら中にころがっているわけで、じゃあといって諦めてしまうのではなく、時には伝家の宝刀をちらつかせて、モグラ叩きで絶えずチェックを入れるしかないわけだ。しかし、そのようなチェック機能が今現在正常に働いているように思えない現実もあって、物事はそう簡単ではない。全世界的に一種の混乱期に入っている気配を感じざるを得ないが、そうなると人類は懲りずにまた殺し合うのだから始末が悪い。

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今日日のハーバード大学は、というかどこもご同様というか

 以下の情報を読んで、昔と比べるとえらく変わってしまっている印象を受けた。もちろん時代の変化によるところもあるのだろうが、そのころの日本からの留学生たちで情報を伝えていた連中は人並み以上に頑張っていて、それを自己承認した啓蒙的情報を我らに伝えていて、それを私は真に受けていただけだったのかもしれない。イギリス紳士は車が走ってなくとも青信号になるまで横断歩道を渡らない、といった類いの話である。

 「まるで日本の大学みたい? 米紙が報じる「問題だらけのハーバード大学」」https://courrier.jp/news/archives/418728/

 どの世界にも陰と陽がある。私の体験でもどのレベルの大学においても学生はピンキリなのである。私は、万年定員割れの田舎の女子大学と女子短期大学(よって偏差値的には低レベル)に最初に奉職したが、そこでも一緒に活動するのが楽しいやる気のある有能で熱心な学生はいたし、上京して本郷の高偏差値の大学で非常勤をした経験もあるが、最初10数名いた受講学生が減少して最後は単位と関係ない院生一人だけ残った経験をした。その理由を推察するに、彼らの中での判断基準として楽して優を取れるかどうかに特化する精神構造が上から下まで蔓延していたせいで、私の講義が無内容だったからとは全然思わないという負け惜しみの判断であるが。同僚の東洋史の某教授も同様の目に会ったらしく、お互いに散々あそこの学生の悪口を言い合ったものである。

 まあ、洋の東西を問わず、学生ってそんなものなんだろう。しかし、左翼的なハーバードではそれに反対する言説を表明しがたい圧力があったという指摘には、一方で自称インテリの陥り易い陥穽と思いつつ、他方で論理的根拠を明示しえない弱さは、確かにこれまで触れられてこなかった現象とはいえ、ちょっと問題のような気がしないでもない。論理を磨き表明する勇気を培うのが大学という場のはずなのだから。

 とはいえ、従来の権威の崩壊現象が全世界を覆っているのが現状なのであろう。そこから何が生まれてくるのか。老残の身では、鬼子でないことを祈ることしかできないのだが。

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時代は変わる:空虚なインバウンドに未来はあるか

 特に中国の訪日客の性格が変わってきているらしい。「中国の超富裕層、訪日を卒業」「日本は貧乏人が行く国」「中国資本化された秋葉原」「爆買い失速」「これからはブランド中古品がねらい目」などなど。ところが我ら日本人のほうはかつてのバブルと同じで、過去の栄光の時代が忘れられず、過去にとらわれて生き続けているらしい(我が世代だけのことかもしれないが)。そうこうしているうちに、世界の趨勢から取り残されてきたわけで、また同じ轍を踏もうとしている、というわけである。https://toyokeizai.net/articles/-/889687?page=1

 中国人観光客の受け入れ態勢にも中国資本の進出がかつて指摘され、要するに中国人観光客の落とすカネも中国が回収していると言われて久しいが、であれば、日本のおもてなしも中国人が真似すれば、まあサービスは低下し新味も薄れるわけだ。以下のランキングでも莫大な人口を擁する中国は3位にすぎない。それも円安に乗っかっての現象なのである。要するに、円安だから日本で爆買いして自国で転売して利ざやを稼ぐためにやって来ているに過ぎない。

 本当は、新規顧客とともにリピーターをどのように開発するかという工夫が必要なのだ。古代ローマ史を勉強している私は、それでなくとも万年オヴァー・ツーリズムの現代イタリアの呼び込み策術に絡みとられていて(遺跡の新発掘と公開、博物館・美術館といった箱物の新規充実、展覧会の世界巡業・・・)、毎年渡伊しなきゃと思わされるほど新企画が目白押しなのであるが、そういった「観光立国」を意図した政策が我が国の文化行政にはたしてあるといえるのだろうか、という疑念にとらわれてしまうのである。

 円安での空虚なインバウンドに浮かれてばかりいないで、将来を見据えての戦略が観光にも必要なのではないか。

【慌てて追加】

 その一方で、以下のような新傾向も。在日50万、100万でおたついていないで、かつての度量ある国士の登場を願わずにはおれない。

「言論の自由求め、中国のインテリが東京に大集結」https://toyokeizai.net/articles/-/730965

「中国人向けの書店が東京で続々開業する深い事情」https://toyokeizai.net/articles/-/731663

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ようやく出てきた、まともな政局観

 2025/10/24:新恭「高市の歓喜、麻生の暗躍、吉村の翻意、玉木の嘆息。急転直下「自維連立」真の“黒幕”と、明かされた緊迫の数日間“全シナリオ”」https://www.mag2.com/p/news/659378#google_vignette

 その中で「霞が関文学」という表現が言い得て妙だった。私見では「政治を変えたいという民意をなんら反映していない」新政権誕生、との印象だったので。

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追記:コロッセウムのトイレ

 本年9月18日にこのブログで報告したように、到着したローマ市内のトイレ研究書が届いた。86ユーロに郵送料が3千円ほどかかって(カラー写真多用のため重量がかさむ)、2万1千円。目先の仕事が終わったので、一番気になっていたコロッセウム内のトイレの箇所を紹介するが、できればこれからもちょこちょこ紹介できればいいと思っているので、まず、市内とその近辺の66箇所を地図で示しておこう。とはいえ小さい表示で見にくいだろうが、今回紹介するのは通し番号19-21がそれである。

 コロッセウムの一般的でかつ簡明な解説は3Dを駆使した以下のYouTube参照。https://www.youtube.com/watch?v=q7Yee9NbccY&t=6s(また、地下構造にも目配りしている以下も一見の価値あり:https://www.youtube.com/watch?v=bmvxRMYxlhE

 このYouTubeはなにしろ件の巨大ネロ像(後代では太陽神像)を並記して描いてくれているので、私好みなのである。但し、翻訳は問題なしとはいえない。「円形闘技場」を「円形劇場」、コンスルを「領事」と訳したり、剣闘士の生死の決め言葉を「いいぞ。ダメです」と訳したりしているのは、訳者が古代ローマ史にド素人のようでいただけない(最後ごろに、なぜか兵馬俑と見まごう画像が一瞬登場するが、これは訳者のせいではないだろう)。

 結論を先に述べると、コロッセウムにも当然トイレはあった。しかし古代ローマ遺跡で普通見かけるいわゆる常時流水・便座型 toilets は確認されていない。私のいわゆる男性用立ちション・トイレurinalsと思われる遺構は確認されている(これは私が南仏のニームの円形闘技場で目撃したと記憶する構造物と同一のものである)。その際、私が未見のチルクス・マクシムスのそれら(本書、26−28)と類似している由なので、できれば実見していずれ言及したいと考えているが、さて・・・。

  5万人から7万5千人収容のコロッセウムでは、人々はショーを見るためにほぼ一日中建物内に滞在したし、その間、食事を摂ったり飲料水も飲んだので、当然トイレが必要だった。水源を近くのチェッリオ丘の貯水槽とする泉水は構内に少なくとも28あって、あふれた水は廊下の床にある長いopus signinum(今で言うコッチョペストで、粉砕したレンガに、石灰石と砂を混ぜたもの。壁や床の湿気を防ぐために使われた)とトラヴァーチン製の溝に流され、そこから縦樋を経て建物の下水道へと流れ込んでいた。しかも円形闘技場は雨期に大量の水を集める構造で巨大なボウル状になっているので、アレーナや下層部の浸水を防ぐための広範な下水道システムが不可欠で、大規模な排水構造が地下構造に組み込まれていた(私はその地下構造を一度見学したことがある:ちょうどにわか雨が降った後だったせいで、すさまじい勢いの流水を目撃できたのは幸運だった)。

 この本に掲載されている写真は以下のようなもので、通路の壁際に構築され一見単純な排水目的のように見えるのだが(そのため、いわゆる便座型トイレtoiletを探していた私は見逃してしまった。迂闊だったが、立ちショントイレとも即断しかねたのも事実だった)、編著者は男性用立ちション便器 urinalとみている。この横溝はコッチョペストないしトラヴァーチン製だった。

 なにしろコロッセウムは、尿税を導入したというウェスパシアヌス皇帝によって建設が開始されたので、ここでも尿を蔑ろにしていたとは思えない、というのは半分冗談だが、上階から縦樋を通じて地下で集中収集して有効利用していたと考えるのははたして私の妄想にすぎないのだろうか。

 これでは単なる排水施設かどうかよくわからないので、参考までにより保存状態のいい前述のチルクス・マクシムスでの掲載写真・図版を見てみよう。チルクス・マクシムスの残存現況は東端のみなので、勢いそこでの限定的知見とならざるを得ないが、私の年来の「立ちショントイレ」仮説がこのように実証されたのは歓喜である。

左:東端平面図          右:東端断面図

 これだけしっかり残っていると明確に立ちション用と認識できる。要するに後世にわたって利用された施設では、部分的な改変は常態なので、コロッセウムではトラヴァーチン部分があらかた取り外されてしまった可能性が高い。その点、チルクス・マクシムスのほうは旧態のまま残存しているわけであろう。この形式は、オスティア遺跡、それにMinturnae (Minturno, Italy) でも散見できて、以前紹介したことがある。

 それにしても、現況を前提に考える場合、女性はどのように用を足していたのかが疑問となるが、一つの解決策として女性は最上階での見学が指定されていたので、それは現況では取り壊され原型が消え去ってしまった、ないし、現存設備の一部をカーテンで区切って用を足していた、などが考えられているようだが、ウェスタの巫女や高官関係者の女性は低層階で見物できていたと思われるので、後者がより妥当ではないかと考えている。また大便に対してはどう対応していたのか、私のような食せば出したくなる存在には気になるところであるが、この件について本書はとりあえず何も答えてくれていない。そういう便所は後世取り壊され跡形もなく改変されてしまったのか、狭いニッチェを利用して可動式(木製)便座の下に桶を置いて用を足し、奴隷が小まめに処理していたので、設備的に確認できないだけだったのか、と想像するしかない。

社会身分による座席指定状況の想像図

 ところで、現代イタリアにも通じることだが、日本同様あちらでも壁の隙間などでの放尿は一般的で、私もテルミニ付近でかなりの臭気を感じたことがある。といった現実的事情も存在することも研究射程に入れておきたい。

【追記の追記】2009年出版の以下をとうとう発注した。500ページ弱で送料込みで4万円強となるが、ニームの円形闘技場がらみを初めとして、私のトイレ研究では不可欠と判断したからだ。

 ・・・10日後に「都合につきキャンセル」との通知が届いた。代わりを探したが現段階では見つけえなかった。2022年からのデジタル版入手も検討中だが可能性は低い。もちろん国内大学図書館所蔵は確認されていない。残念である。

【追記】昨日登学してついでに調べたら、チルクス・マクシムスについて、以下文献でもすでに1箇所トイレとされていた。J.Humphrey, Roman Circuses:Arenas for Chariot Racing, London, 1986, p.109. “Lastly, a drainage canal linked to an earthernware pot (a possible latrine) was found in bay F (fig.44)”. その意はおそらく、放出された小便は縦樋で地下に設置された土器製容器に収集されていた、ということだろう。ちなみにfig.44でのその場所Fとは、上記平面図で右から2つめの表記「urinal?」である(Humphreyは他は無視し、壁関係の測量結果も異なっているが)。

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