投稿者: k.toyota

パソコンが危ないかも・・・

 昨晩から私のメインのパソコン iMac(2020, 27-inch)の調子が悪い。起動しないし、何度か試して起動しても、しばらく置いておくと自動的にシャットダウンしちゃっている感じ。

 このパソコン、作られてから6年目なのでそろそろ寿命なのだろうか。読書会の準備でレジメを作成してる途中でプッツンして死んでしまったら困ったことになる。とりあえず、今は使っていないiMac(Late2014, 27-inch)をクラウドで繋いでおいて、万一にそなえることにしようと思う。それに 退職時に購入したMacBook(2017, 12-inchi)も健在でクラウドで同期しているし。

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面白い指摘かも:なぜ幕末に日本は独立を保ち得たのか

 2026/09/07 「坂本龍馬でも西郷隆盛でもない…明治維新を成功させ植民地化から日本を救った”ラッキーな2つの出来事”」(https://president.jp/articles/-/118466

 西洋史と日本史を年表で重ねれば自明のことであるが。

 案外予備校教師はこれで気付いたのでは。専門家たちが陥る専門性の間隙を縫っての着眼点と、私は思える。

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聖ジェンナーロ祭での奇跡

 かつて私は世間が「災害同時多発状況」に入ったのでは、という観測を述べたことがある。昨今なぜか前代未聞の災害が頻繁に起こっているように思えたからだ。

 ところでイタリアは火山国で、その象徴は言うまでもなくシシリアのエトナ山とカンパニアのウェスビオ山だろう。特に後者の影響をこれまでしばしば受けてきたのがナポリで、この街の守護聖人が聖ジェンナーロである。私は、彼がディオクレティアヌスの大迫害時代の殉教者とされているのを知ってから、サバティカルその他でのローマ居住中に聖ジェンナーロがらみの故地ナポリ(大聖堂に聖遺物保存)やポッツオリ(斬首地)を幾度となく尋ね、とうとう彼の遺体埋葬地ベネベント(実態は石棺の存在)再訪までしたのを思い出す。

 特に印象深かったのは、聖人の祝日の9月19日のドゥオーモでの大祭で(他に2回ほど大祭があった)、日本と同様にこの祝日に門前市が立って盛況だったことと、そこでの定番のヌガー、トッローネを囓ったこと。テレビ中継も入っていて、もちろん大聖堂は満員で、そこで枢機卿による聖ジェンナーロの血の溶解の奇跡が実演された。

 この祭の大略については、以下参照。これ読んで思いだしてしまった:https://wien2006.livedoor.blog/archives/52432894.html

 当時、イタリアでは18歳の国民皆兵の徴兵義務があって(2005年に志願制度になったらしい)、その召集日が9月のこの大祭ごろだったせいで、このころ南を鉄道旅行すると、さながら年中行事風に、駅毎に親族と別離する若者の涙涙の別れの場面に遭遇し、我らはそれを窓からのぞき見していたわけだ。

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世界の常識、日本の非常識:皇室の歴史

 今日も今日とて、2000年前のローマ帝国の素晴らしさをテレビでやっている:2026/9/5 BS朝日「天海祐希と古代ローマの謎を解く」(ただし、昨年の再放送)。水道といい、トイレといい、公衆風呂といい、日本がまだ弥生時代だったとき、古代ローマはすでに社会インフラがそこまで発展していた!

 一方で、「自民党の小林鷹之政調会長が7月、衆院議院運営委員会で述べた。「皇位の男系継承は、2600年以上にわたって先人たちが守り抜いてきた皇室の伝統です」(毎日新聞 2026/9/5)。これに対し「歴史学者が抗議の声」をあげたそうな。もっともである。彼はどういう歴史教育を受けてきたのか。さすがの山川教科書でもそんなこと書いていないよね。

 他方でアメリカで、なんとかいう大統領の岩盤支持層とされる福音派にとって未だ「聖書における人類創成は6000年前」なのだ。旧約聖書の記述を真実として信奉する彼らにとっては進化論なのありえないわけだ。聖書学者も聖職者もまともな人たちはもはやそんなことを言ってはいない。あれは古代人が編み出した神話なのだから。

 今を去る60年以上も前、私が高校生時代、イエズス会経営の学校法人にはたしか「宗研」と呼ばれた部屋があって、そこの書棚に「進化論は誤りである。神が人類を創成したのは6000年前のことである。精緻な人間の肉体構造ひとつとってもその完璧性からして、一瞬での創造としてしか理解不能である」といった類いの西欧の神学者が書いた本の翻訳があって、私などおいおい何書いているの状態で読んだのを覚えている。カトリック的高校においても進化論は常識だった。これは第二バチカン公会議以前の19世紀的反科学主義見地からの著作だったのだが、さて今その本はどうなっているのだろうか。おそらく廃棄処分になって図書室にも保存されていないだろうな(あったら再読してみたいと本心で思っている)。

 今上天皇が皇太子浩宮だったとき「我が祖先は朝鮮半島からの渡来人だった」と明言された記憶があって、さすが歴史のお勉強した人だ、と私は感心したのだけど、それをググって調べようとしたが、全くの空振りで、ただお父上の現上皇(平成天皇)が2001年12月23日の誕生日会見で「韓国とのゆかりを感じています」と述べたことだけヒットした(https://www.asahi.com/international/aan/hatsu/hatsu020110.html;詳しくは以下、https://hiyoshidai-yokohama.jimdofree.com/2021/08/16/%E6%97%A5%E5%90%89%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-%E3%81%AE%E3%81%8A%E8%A9%B1-%E3%81%9D%E3%81%AE%E7%B6%9A%E3%81%8D-%E7%95%AA%E5%A4%96%E7%B7%A8-%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%AE%B6%E3%81%AE%E5%85%88%E7%A5%96%E3%81%AF%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%8D%8A%E5%B3%B6%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AE%E6%B8%A1%E6%9D%A5%E4%BA%BA%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F/)。重要なのになぜか見ることがそうないので、転載します。

《日本と韓国との人々の間には、古くから深い交流があったことは、日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や招へいされた人々によって、様々な文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部の楽師の中には、当時の移住者の子孫で、代々楽師を務め、いまも折々に雅楽を演奏している人があります。
こうした文化や技術が日本の人々の熱意と、韓国の人々の友好的態度によって、日本にもたらされたことは幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に大きく寄与したことと思っています。
 私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王(ぶねいおう)の子孫であると続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、このとき日本に五経博士が代々日本に招へいされるようになりました。また、武寧王の子、聖明王(せいめいおう)は、日本に仏教を伝えたことで知られております。
しかし、残念なことに、韓国との交流は、このような交流ばかりではありませんでした。このことを、私どもは、忘れてはならないと思います。
 ワールドカップを控え、両国民の交流が盛んになってきていますが、それが良い方向に向かうためには、両国の人々がそれぞれの国が歩んできた道を個々の出来事において、正確に知ることに努め、個人個人として互いの立場を理解していくことが大切と考えます。
 ワールドカップが両国民の協力により、滞りなく行われ、このことを通して両国民の間に理解と信頼感が深まることを願っております》

 最後にワールドカップが出てくるのは、この発言が2002年の日韓ワールドカップを前にしていたからである。

 国会議員もキリスト教信者さんもお勉強は必要なくて、信じるというレベルでやっておれるようだけど、それじゃあ困るんですよね。

2026/9/6「社会学的皇室ウォッチング! リヒテンシュタイン女系容認 「議会審議」なしの理由」(https://www.koji007.tokyo/wp-admin/edit.php

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オーパーツ(時代錯誤遺物)がらみの骸骨5点

 私は、昔からよくケーブルテレビの番組を物色しているが、ナショジオの他に、たまにヒストリー・チャンネルの番組表を眺めて奇妙な感覚にとらわれるのは、堂々と「古代の宇宙人」「地球外生命体」がらみで古代文化を論じている番組が存在するということだった。これが歴史番組なのか?というわけだ。宇宙人が地球に到来して文明を伝授した、で話が終わるのであれば、我々がしている研究なんて無意味だろ、と。だから偶然に、”5 Skeletons Found Holding Things That Don’t Fit the Era”(https://medium.com/predict/5-skeletons-found-holding-things-that-dont-fit-the-era-65c4085f018c)を見つけ、末尾で「そのどれにも、宇宙人の関与など必要ありませんでした。 必要だったのは、私たちより前に生きた人々をもっと高く評価することだけだったのです」との文言に出会ったのは収穫だった。

 さて今回の「オーパーツがらみの五つの骸骨」のうち、古代ローマ関係は、2,3,4の三つであるが、3はエルコラーノの脳のガラス化説でこれはすでに検証・掲載済みなので除外し、4もローマ時代に、新石器時代の遺骨を掘り出してローマ時代のものとなぜか組み合わせて再埋葬したという話なので除外して(いずれもオーパーツにしてはそれほど意外でないのがミソであるが)、ここでは2を紹介しよう。

ニームで発見された、本来なら残るはずのないものを抱きしめた子供 :2024/4/21(The History Blogでは、2024/4/11に既報 https://www.thehistoryblog.com/archives/69946

 フランスのニーム Nîmes(古代ローマ時代は「Nemausus」と呼ばれていた)のボーケール通り(Rue de Beaucaire)で古代の街道「ドミティウス街道」Via Domitiaの発掘調査が行われた際、考古学者たちは前2世紀と前1世紀から後1世紀の間のものと推定される15基のローマ時代の墓を発見した。 大部分は火葬による埋葬だが、土器の水差しやランプと共に埋葬された幼児を含む、少数の土葬も確認されている。

 ここで不可解なのは壺そのものではなく、遺跡全体から出土したガラス製品の状態である。それらはあまりにも保存状態が良く、一見すると、その時代の文脈にはそぐわないほど新しい時代のもののように見えた。

 出土したローマ時代のガラス容器の中には、考古学の常識では考えられないほど細部まで鮮明で、完全な形を保っているものがいくつかあった。通常であれば、後世の混入や、墓への後からの侵入を疑うような状態なのだ。

 しかし、その理由は時代錯誤(アナクロニズム)ではなく、化学的な要因にあった。 ローマ時代のガラスには不純物として鉄が含まれており、それが緑がかった色合いを生み出していた。さらに、埋葬されていた特定の環境(何世紀にもわたる、安定したミネラル豊富な土壌)が、ガラス表面に虹色の輝き(イリデッセンス)を生じさせるような劣化を招くのではなく、むしろ容器の美しさを際立たせるような変化をもたらした場合である。 当時のローマのガラス職人の技術は驚くほど高度なものだった。私たちは古代の工芸技術を過小評価しがちだが、それは歴史教育において、その時代が「原始的」なものとして語られる傾向があるからにすぎない。

 壺を抱きしめた子供の姿は、今も私の心に残っている。ローマ文化では、幼くして亡くなった子供を悼むことは公式には推奨されていなかったが、ここには明らかに深い愛情や配慮が込められた埋葬の跡がある。 その小さな手に握られた品は、子供の死に対する当時の一般的な認識とは相容れないものである。そして、ガラスそのものに関する事実以上に、この「認識との乖離」こそが、この事例における最も重要な点だと言えるだろう。

【幼児がもっていた壺の話題のはずが、それとは別のガラス器の話に移っているのがいささか唐突であるが、ちょうど乳幼児埋葬に関心を持っているので、ま、よしとするか。掲載写真は、以下:https://www.mensjournal.com/news/archaeologists-skeletons-glassware-roman-settlement-france

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ウィーン郊外で戦没兵士集団墓穴発掘

 オーストリア、ウィーン近郊のジンメリング Simmering にある競技場の改修工事中、2024年10月末に建設会社が人骨を発見した。研究者が派遣され少なくとも129体、150体以上と推察される大量の遺骨が出土した。

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 浅い穴に死者を無造作かつ性急に埋葬しており、遺体はすべて男性で年齢は20~30歳、検査されたすべての個体に、特に頭蓋骨、胴体、骨盤に生前の損傷が認められた。骨の損傷は明らかに戦闘の結果であり、急いで埋葬されたことは活発な軍事作戦を示唆している。C14分析での骨の年代測定により、西暦80年から230年と大まかな年代が出て、残された僅かな出土品は西暦1世紀半ばから2世紀初頭のものと判定された。

 火葬を行わずに集団墓地が作られたという事実は、多数の死者が出たこと、そして時間や資源が不足していたこと、治癒していない戦闘による傷跡があることから、軍務における臆病さへの罰としての処刑といった可能性は排除され、むしろ、あらゆる証拠が、ある軍事作戦が壊滅的な結末を迎えたことを示している。

 歴史的記録によれば、1世紀末のドミティアヌス帝(在位81~96年)の時代、ローマ帝国のドナウ川国境地帯においてゲルマン部族との戦闘が繰り返された(86~96年のドナウ戦争)。これらはローマ側にとって極めて大きな犠牲を伴うものであり、ある軍団(レギオン)が全滅したという報告も残っている。その数年後、トラヤヌス帝(在位98~117年)代には、大規模な防衛線「ドナウ・リーメス」が拡張された。ジンメリングにあるこの集団墓地は、当時の激しい戦闘を示す最初の物理的証拠であり、現在のウィーン地域で戦闘が行われた場所を特定するもので、したがってここでの敗北が、発見場所から7キロメートル足らずの距離にあった小規模な軍事拠点を、軍団駐屯地「ヴィンドボナ」へと拡張させる直接的なきっかけとなった可能性がある。つまり、この戦闘がウィーンの都市としての歴史の始まりを告げるものだったかもしれない。

 以上が2025年段階での人骨の約3分の1の分析レベルでの見解だった。2026年になってすべての調査が完了し以下のような新知見が得られた。そのひとつが鼠径部(股間付近)の負傷が異常に多いという点である。調査対象となった128人のうち40%に「骨盤およびその周辺への外傷」が見られたのである。考古学調査会社Novetusの生物考古学者シェリダン・ストラング Sheridan Strang 女史は、最も可能性の高いシナリオとして、馬上の攻撃者が騎兵槍 lancesを用いて敵の鎧の隙間を狙ったからではないかと説明している。

 また、25体の人骨を対象としたDNA分析により、彼らの出自が多様であることが明らかになった。これは、必ずしも全員がローマ軍の兵士ではなかった可能性があることを示唆しているとストラング女史は説明する。ウィーン博物館によると、歴史的記録からローマ帝国はこの時期、ゲルマン部族としばしば戦闘を繰り広げていたことがわかっている。そのため、この墓地は「異なる集団が混在した墓地(commingled grave)」である可能性があると、ストラング女史は指摘している。

https://gizmodo.com/at-least-50-men-in-this-roman-mass-grave-were-hit-in-the-same-sensitive-spot-2000802847

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なんと返信メールが1千通近くも!

 昨晩からすさまじい大量の「@niftyメールサービス」からの「メール送信エラー通知」表示のメールが送られてきた。

 そしてニフティからは「【重要】メールの送信制限に関するお知らせ」が以下の文面で送られてきた。

「平素より@nifty (アット・ニフティ)をご利用いただき誠にありがとうござ
います。

お客様のメールアドレスより大量のメール送信が行われておりました。 昨今、フィッシング詐欺などによって流出したID・パスワードを悪用し、第三者が迷惑メールを大量送信する被害が多く発生しております。
不正に利用された可能性があるためお客様のアカウントを保護し、被害の拡大防止のため、一時的にメールの送信制限をかけております。」

 それと連動してるのかどうかは不明だが、ここ半年なぜかHPへのアクセス数が連日ず〜と100近くになっていたのが、数日前からそれまで通常の30程度に落ち着いた。国別を確かめたらこれまで多かったときはアメリカが七割位占めていたのに、ここ数日はパタリとアクセス数が消え去っている。

 これで終わればいいのだが・・・

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ローマ皇帝の真の顔

https://www.popularmechanics.com/technology/a34209169/real-faces-of-roman-emperors/ローマ帝国

最先端技術により、これら著名な統治者たちの実際の姿が初めて明らかになった。

執筆:コートニー・リンダー  COURTNEY LINDER

公開:2020年10月5日

 この54人、残念ながら私が関心をもっているディオクレティアヌス以降の1世紀間が省かれている。

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かつての戦略物資「いわし」

https://courrier.jp/news/archives/456338/?utm_source=category_post_02&utm_medium=top_slider&utm_campaign=article_id_456338

 韓国人の女性の研究らしい。以下は記事からの抜粋。

 20世紀初頭の大日本帝国にとってマイワシは単なる食べ物以上の存在だった。明治維新以降、日本は近代化と積極的な帝国建設に乗り出し、帝国主義国家としては後発だったものの、武力による侵略や併合を通じてアジアを支配下に置いていった。それまで魚油は長年、魚を肥料へと加工する際の「副産物」にすぎなかった。この油はもともと、ヨーロッパでは「水素添加」と呼ばれるプロセスを経て、無臭の固形脂肪「硬化油(こうかゆ)」へと加工されていた。この技術が日本に導入されたのは、1910年代初頭のことだ。硬化油は化学処理を経て、ダイナマイトの主成分となるニトログリセリンの原料へと姿を変えた。

 魚油の軍事兵器の製造利用は日本固有の試みではない。実際のところ、これは20世紀初頭の帝国主義戦争における世界的な潮流であり、ナチス・ドイツなどでも同様の動きが見られた。大日本帝国にとって、イワシと帝国建設の関係には二つの側面があった。領土を拡大すればイワシの漁獲量が増え、その結果、戦時体制により多くの油を供給できるようになる。

 日本は1910年に韓国を併合した。しかしこの地域におけるマイワシ漁が大きな転換期を迎えたのは、1923年のことである。その年、朝鮮半島北部の沖合にマイワシの大群が押し寄せた。この大発生は、関東大震災後に起きた海流の変化や、漁師たちの間でマイワシの価値が広く知れ渡ったこと、あるいは海面水温の変化などが原因だったと考えられている。当時のデータでは、植民地だった朝鮮の漁獲量だけで米国の3倍近くに達しており、日本全体では米国の10倍近くという驚異的な水揚げ量を記録していた。

 イワシは食卓から戦場へと駆り出された。1931年の満州事変を皮切りに、日中戦争、そしてアジアにおける第二次世界大戦への引き金となった1937年の盧溝橋事件にいたるまで、大日本帝国による大陸侵略を加速させる「燃料」となった。当時までに植民地であった朝鮮の興南(フンナム)地域は、こうした「魚由来の兵器」を製造する一大拠点となっていた。その中心が朝鮮窒素肥料株式会社の一部として設立された巨大な化学工業施設「興南コンビナート」だ。当初は化学肥料工場として建設されたが、同コンビナートは急速な発展を遂げ、1935年までにグリセリンや爆薬の工場を内包する広大な複合施設へと拡大していった。  

 朝鮮がマイワシ漁の拠点から化学工業の拠点へと変貌を遂げるなかで、マイワシはもはや単なる大衆魚ではなくなっていった。それはまさに「軍事化された魚」となったのだ。しかし、この魚の兵器化は、第二次世界大戦中、長くは続かなかった。複数の研究によると、大日本帝国のマイワシの漁獲量は1940年代初頭に激減し、一時は完全に途絶えたことさえあったとされる。水産資源に深く依存していた日本の軍事力は、これにより大きな制限を受けることとなった。戦争における日本の敗北は、マイワシによって形成された帝国の野望に終止符を打った。

 しかし、その産業利用は現在も続いている。2020年の農林水産省の「水産物流調査」によると、イワシの76%が油、肥料、魚の飼料といった非食用目的で使用されている。

 【調べてみると、イワシ関係の戦時中のポスターは見当たらなかった。さてどの程度だったのだろうか】

戦時中の統制関係のポスター

 【なにせ大戦末期「松根油」さえ代用燃料にしようとした我が祖国である。そういえばアメリカはかつて鯨油搾取のため大量のマッコウくじらを殺害していたな。肉を利用しようともしないで。それがペリー来航につながったという話もある】

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渇水期のドナウ川で各種遺物が出土

 お盆前後に広島に帰省していたが、大雨に襲われた千葉なんかと比べ、雨は一滴も降らず、原爆忌同様のカンカン照り、そんな感じだった。そんなとき、知人やナショジオから、ドナウ川が干上がって色んなものが水面上に表れたという情報が届いたのだが、なぜかWiFiの調子が今一で即応することは出来なかった。データだけを保存して帰京してまとめたのが以下である。

 猛烈な熱波の影響で欧州10か国を流れるドナウ川の水位が大幅に下がり、川底からマンモスの骨や沈没船が見つかった。欧州メディアは「熱波がもたらした意外な発見」と伝えている。

1.マンモスの骨:ブルガリア北部   https://news.yahoo.co.jp/articles/9738a889bc9ac53d462b956b6e61ba340ea18293/images/000

 クロアチアの地元メディアは7月下旬、東部を流れるドナウ川に沈んでいた船が姿を現したと伝えた。1937年に航行中の事故で沈没したハンガリーの貨物船とみられ、地元市長は「川の遺物を記録する絶好の機会だ」と語る。

 ハンガリー首都ブダペスト周辺では、第二次世界大戦中のドイツ軍のオートバイも見つかった。欧州では依然として厳しい熱波が続き、ドナウ川の水位がさらに下がる可能性が指摘されている。

2.  ナチス軍の軍船20隻余り:http://b.hatena.ne.jp/entry/https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/26/081700456/

 これらの船は、1944年9月にナチス・ドイツがセルビアのプラホボ港付近で自沈させた約200隻からなる船団の一部だ。ソ連軍の進軍を阻止するため、船はプラホボの航路を横切るように沈められた。

3.川底から突如現れた“全長2キロ超の橋”の遺構:ブルガリア北部のギゲン村付近で、コンスタンティヌス橋の基礎部分が確認

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 この橋は、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世(大帝)の時代に建造され、西暦328年7月5日に開通したと伝えられたもの。ブルガリア側の古代都市ウルピア・オエスクスUlpia Oescusと、現在のルーマニアに位置するスキダヴァSycidavaを結んでいた。 その規模は驚くべきもので、全長は約2.5キロメートル、幅は約6メートル。水面から橋を支える部分の高さは約10メートルに達したとされ、古代に造られた橋としては世界でも有数の長さを誇った。基礎には四角く加工した石材やレンガが使われ、その上に川を渡るための木造部分が築かれていた。

 今回の調査では、水に強い「水硬性コンクリート」やローマ帝国時代のタイルを使った石積みも確認されている。プレヴェン地方歴史博物館のヴォロディア・ポポフ館長によると、当時のローマ軍には軍事施設や道路、橋などを建設する専門の工兵部隊があり、高度な土木技術を持っていた。巨大なドナウ川を横断する橋も、そうしたローマ帝国の技術力を背景に造られた。一方、この橋は軍事目的だけのものではなかったようで、市民の移動や交易、行政にも使われ、橋には関所も設けられていた。ドナウ川を挟む地域を結ぶ、いわば古代の重要インフラだった。

 これほどの大工事で造られたコンスタンティヌス橋だが、その役割は長く続かなかった。 4世紀後半になると、ローマ帝国の北方国境は周辺勢力による侵入が相次ぐようになる。便利な橋を残しておけば、逆に敵がドナウ川を渡って帝国内へ進む経路として利用する恐れがあった。そのため、橋の木造部分は焼か、巨大橋は建設から数十年ほどで使われなくなった。その後、遺構は長い年月をかけて水流や自然の力に削られ、現在では川底に基礎などが残るのみとなった。ただ残存部分は現在も水面下約70センチにあり、水上から肉眼で確認するのは困難。正確な位置を把握したうえでドローンから見ることで、その姿がようやく分かるという。

 今回撮影された写真やデータは今後、詳しく分析される予定。橋脚の構造を調べることで、これまで研究者が抱えてきた疑問を解く手がかりも得られると期待されている。1700年近く前、人々や物資が行き交ったドナウ川の巨大橋。猛暑と水位低下という現代の異常な状況が、はるか昔のローマ帝国の技術を改めて知る機会をもたらした。

Sekularac, Ivana. “Low Danube water levels in Bulgaria expose Roman-era bridge”Reuters. Reuters. Retrieved 6 August2026.

【付録】皇帝「ネロの橋」が出現 水位低下が著しい首都のティベレ川

https://news.yahoo.co.jp/articles/aa5d7603e60573270e81671f07590b3b6f7cd5ec/images/000

ローマ(CNN) 焼けるような暑さと長く乾燥した夏にあえぐイタリアで、川の水位低下により2000年前の橋の遺構が姿を現した。「ネロの橋」と呼ばれるこの橋はかつて、首都ローマ中心部を流れるティベレ川に架かっていた。

ローマ市民保護当局の調整官によると、アペニン山脈北部の支流から注ぐティベレ川の流量は、毎秒80立方メートルを下回っている。毎秒80立方メートルというのは、この時期の全国平均の半分に当たる。

調整官はAP通信の取材に、「我々は深刻な水危機に直面している。冬にかなりの降雨があったものの、乾燥した期間が長引いたことも危機の一因だ」 と語った。

https://www.cnn.co.jp/fringe/35251573.html

【これはしかし毎年夏になると普通にみることができるので、本年の渇水だからというわけではないし、しかも西側にもそれらしき遺構が藻にまとわれて見ることできることに注目】

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