今日日のハーバード大学は、というかどこもご同様というか

 以下の情報を読んで、昔と比べるとえらく変わってしまっている印象を受けた。もちろん時代の変化によるところもあるのだろうが、そのころの日本からの留学生たちで情報を伝えていた連中は人並み以上に頑張っていて、それを自己承認した啓蒙的情報を我らに伝えていて、それを私は真に受けていただけだったのかもしれない。イギリス紳士は車が走ってなくとも青信号になるまで横断歩道を渡らない、といった類いの話である。

 「まるで日本の大学みたい? 米紙が報じる「問題だらけのハーバード大学」」https://courrier.jp/news/archives/418728/

 どの世界にも陰と陽がある。私の体験でもどのレベルの大学においても学生はピンキリなのである。私は、万年定員割れの田舎の女子大学と女子短期大学(よって偏差値的には低レベル)に最初に奉職したが、そこでも一緒に活動するのが楽しいやる気のある有能で熱心な学生はいたし、上京して本郷の高偏差値の大学で非常勤をした経験もあるが、最初10数名いた受講学生が減少して最後は単位と関係ない院生一人だけ残った経験をした。その理由を推察するに、彼らの中での判断基準として楽して優を取れるかどうかに特化する精神構造が上から下まで蔓延していたせいで、私の講義が無内容だったからとは全然思わないという負け惜しみの判断であるが。同僚の東洋史の某教授も同様の目に会ったらしく、お互いに散々あそこの学生の悪口を言い合ったものである。

 まあ、洋の東西を問わず、学生ってそんなものなんだろう。しかし、左翼的なハーバードではそれに反対する言説を表明しがたい圧力があったという指摘には、一方で自称インテリの陥り易い陥穽と思いつつ、他方で論理的根拠を明示しえない弱さは、確かにこれまで触れられてこなかった現象とはいえ、ちょっと問題のような気がしないでもない。論理を磨き表明する勇気を培うのが大学という場のはずなのだから。

 とはいえ、従来の権威の崩壊現象が全世界を覆っているのが現状なのであろう。そこから何が生まれてくるのか。老残の身では、鬼子でないことを祈ることしかできないのだが。

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