月: 2025年10月

安野貴博議員の試み

 偶然見つけた4回のインターネット情報:2025/6/26「安野貴博・インタビュー」(https://shueisha.online/articles/-/254272)を読んでみた。

 以前書いたことあると記憶しているが、彼はサブ、ないしアドヴァイザーとしての役割が妥当、と私は思っている。彼はテクニシャンであってそれ以上ではないからだ。しかし政治屋でないという、この斬新さこそ彼の持ち味で、このインタビュー読んでますますそう確信したわけであるが、それにしても、国会では云々の、国政の中心でデジタルテクノロジーがやたら遅れているという内部情報の吐露は面白かった。せいぜいその改善への貢献を彼には期待しておきたい。しかし、利益をあげなければ倒産してしまう民間企業と異なり、国民から際限なく収奪する特権をなぜか保有して平然と居直っている体制国家の改善など期待すべくもない、まあおのずと限界はあって過度に期待できないと思いつつ、節税のため頑張ってもらうことに異存はない。

 たとえ革命起こしたとしても、早晩権力は腐敗するのが陳腐な定番だからである。その事例は歴史を顧みればそこら中にころがっているわけで、じゃあといって諦めてしまうのではなく、時には伝家の宝刀をちらつかせて、モグラ叩きで絶えずチェックを入れるしかないわけだ。しかし、そのようなチェック機能が現在では正常に働いているように思えない現実もあって、物事はそう簡単ではない。全世界的に一種の混乱期に入っている気配を感じざるを得ないが、そうなると人類は懲りずにまた殺し合うのだから始末が悪い。

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今日日のハーバード大学は、というかどこもご同様というか

 以下の情報を読んで、昔と比べるとえらく変わってしまっている印象を受けた。もちろん時代の変化によるところもあるのだろうが、そのころの日本からの留学生たちで情報を伝えていた連中は人並み以上に頑張っていて、それを自己承認した啓蒙的情報を我らに伝えていて、それを私は真に受けていただけだったのかもしれない。イギリス紳士は車が走ってなくとも青信号になるまで横断歩道を渡らない、といった類いの話である。

 「まるで日本の大学みたい? 米紙が報じる「問題だらけのハーバード大学」」https://courrier.jp/news/archives/418728/

 どの世界にも陰と陽がある。私の体験でもどのレベルの大学においても学生はピンキリなのである。私は、万年定員割れの田舎の女子大学と女子短期大学(よって偏差値的には低レベル)に最初に奉職したが、そこでも一緒に活動するのが楽しいやる気のある有能で熱心な学生はいたし、上京して本郷の高偏差値の大学で非常勤をした経験もあるが、最初10数名いた受講学生が減少して最後は単位と関係ない院生一人だけ残った経験をした。それは彼らの判断基準が楽して優を取れるかどうかに特化する精神構造が蔓延していたせいで、私の講義が無内容だったからとは全然思わないという負い目あっての判断であるが。同僚の東洋史の某教授も同様の目に会ったらしく、お互いに散々あそこの学生の悪口を言い合ったものである。

 まあ、洋の東西を問わず、学生ってそんなものなんだろう。しかし、左翼的なハーバードではそれに反対する言説を表明しがたい圧力があったという指摘には、一方で自称インテリの陥り易い陥穽と思いつつ、他方で論理的根拠を明示しえない弱さは、確かにこれまで触れられてこなかった現象とはいえ、ちょっと問題のような気がしないでもない。論理を磨き表明する勇気を培うのが大学という場のはずなのだから。

 とはいえ、従来の権威の崩壊現象が全世界を覆っているのが現状なのであろう。そこから何が生まれてくるのか。老残の身では、鬼子でないことを祈ることしかできないのだが。

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時代は変わる:空虚なインバウンドに未来はあるか

 特に中国の訪日客の性格が変わってきているらしい。「中国の超富裕層、訪日を卒業」「日本は貧乏人が行く国」「中国資本化された秋葉原」「爆買い失速」「これからはブランド中古品がねらい目」などなど。ところが我ら日本人のほうはかつてのバブルと同じで、過去の栄光の時代が忘れられず、過去にとらわれて生き続けているらしい。そうこうしているうちに、世界の趨勢から取り残されてきたわけで、また同じ轍を踏もうとしている、というわけである。https://toyokeizai.net/articles/-/889687?page=1

 中国人観光客の受け入れ態勢にも中国資本の進出がかつて指摘され、要するに中国人観光客の落とすカネも中国が回収していると言われて久しいが、であれば、日本のおもてなしも中国人が真似すれば、まあサービスは低下し新味も薄れるわけだ。以下のランキングでも莫大な人口を擁する中国は3位にすぎない。それも円安に乗っかっての現象なのである。要するに、円安だから日本で爆買いして自国で転売して利ざやを稼ぐためにやって来ているに過ぎない。

 本当は、新規顧客とともにリピーターをどのように開発するかという工夫が必要なのだ。古代ローマ史を勉強している私は、それでなくとも万年オヴァー・ツーリズムの現代イタリアの呼び込み策術に絡みとられていて(遺跡の新発掘と公開、博物館・美術館といった箱物の新規充実、展覧会の世界巡業・・・)、毎年渡伊しなきゃと思わされるほど新企画が目白押しなのであるが、そういった「観光立国」を意図した政策が我が国の文化行政にはたしてあるといえるのだろうか、という疑念にとらわれてしまうのである。

 円安での空虚なインバウンドに浮かれてばかりいないで、将来を見据えての戦略が観光にも必要なのではないか。

【慌てて追加】

 その一方で、以下のような新傾向も。在日50万、100万でおたついていないで、かつての度量ある国士の登場を願わずにはおれない。

「言論の自由求め、中国のインテリが東京に大集結」https://toyokeizai.net/articles/-/730965

「中国人向けの書店が東京で続々開業する深い事情」https://toyokeizai.net/articles/-/731663

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ようやく出てきた、まともな政局観

 2025/10/24:新恭「高市の歓喜、麻生の暗躍、吉村の翻意、玉木の嘆息。急転直下「自維連立」真の“黒幕”と、明かされた緊迫の数日間“全シナリオ”」https://www.mag2.com/p/news/659378#google_vignette

 その中で「霞が関文学」という表現が言い得て妙だった。私見では「政治を変えたいという民意をなんら反映していない」新政権誕生、との印象だったので。

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追記:コロッセウムのトイレ

 本年9月18日にこのブログで報告したように、到着したローマ市内のトイレ研究書が届いた。86ユーロに郵送料が3千円ほどかかって(カラー写真多用のため重量がかさむ)、2万1千円。目先の仕事が終わったので、一番気になっていたコロッセウム内のトイレの箇所を紹介しようと思うが、できればこれからもちょこちょこ紹介できればいいと思っているので、まず、市内とその近辺の66箇所を地図で示しておこう。とはいえ小さい表示で見にくいだろうが、今回紹介するのは通し番号19-21がそれである。

 コロッセウムの一般的でかつ簡明な解説は3Dを駆使した以下のYouTube参照。https://www.youtube.com/watch?v=q7Yee9NbccY&t=6s(また、地下構造にも目配りしている以下も一見の価値あり:https://www.youtube.com/watch?v=bmvxRMYxlhE

 このYouTubeはなにしろ件の巨大ネロ像(後代では太陽神像)を並記して描いてくれているので、私好みなのである。但し、翻訳は問題なしとはいえない。「円形闘技場」を「円形劇場」、コンスルを「領事」と訳したり、剣闘士の生死の決め言葉を「いいぞ。ダメです」と訳したりしているのは、訳者が古代ローマ史にド素人のようでいただけない(最後ごろに、なぜか兵馬俑と見まごう画像が一瞬登場するが、これは訳者のせいではないだろう)。

 結論を先に述べると、コロッセウムにも当然トイレはあった。しかし古代ローマ遺跡で普通見かけるいわゆる常時流水・便座型 toilets は確認されていない。私のいわゆる男性用立ちション・トイレurinalsと思われる遺構は確認されている(これは私が南仏のニームの円形闘技場で目撃したと記憶する構造物と同一のものである)。その際、私が未見のチルクス・マクシムスのそれら(本書、26−28)と類似している由なので、できれば実見していずれ言及したいと考えているが、さて・・・。

  5万人から7万5千人収容のコロッセウムでは、人々はショーを見るためにほぼ一日中建物内に滞在したし、その間、食事を摂ったり飲料水も飲んだので、当然トイレが必要だった。水源を近くのチェッリオ丘の貯水槽とする泉水は構内に少なくとも28あって、あふれた水は廊下の床にある長いopus signinum(今で言うコッチョペストで、粉砕したレンガに、石灰石と砂を混ぜたもの。壁や床の湿気を防ぐために使われた)とトラヴァーチン製の溝に流され、そこから縦樋を経て建物の下水道へと流れ込んでいた。しかも円形闘技場は雨期に大量の水を集める構造のため巨大なボウル状になっているので、アレーナや下層部の浸水を防ぐための広範な下水道システムが不可欠で、大規模な排水構造が地下構造に組み込まれていた(私は一度見学したことがある:ちょうどにわか雨が降った後だったせいで、すさまじい勢いの流水を目撃できたのは幸運だった)。

 この本に掲載されている写真は以下のようなもので、通路の壁際に構築され一見排水目的のように見えるのだが(そのため、いわゆる便座型トイレtoiletを探していた私は見逃したのだろう。迂闊だった)、編著者は男性用立ちション便器 urinalとみている。この横溝はコッチョペストないしトラヴァーチン製だった。

 なにしろコロッセウムは、尿税を導入したというウェスパシアヌス皇帝によって建設が開始されたので、ここでも尿を蔑ろにしていたとは思えない、というのは半分冗談だが、上階から縦樋を通じて地下で集中収集して有効利用していたと考えるのははたして私の妄想にすぎないのだろうか。

 これでは単なる排水路かどうかよくわからないので、参考までにより保存状態のいい前述のチルクス・マクシムスでの掲載写真・図版を見てみよう。チルクス・マクシムスの残存現況は東端のみであるので、勢いそこでの限定的知見とならざるを得ないが、私の年来の「立ちショントイレ」仮説がこのように実証されたのは歓喜である。

左:東端平面図          右:東端断面図

 これだけしっかり残っていると明確に立ちション用と認識できる。要するに後世にわたって利用された施設では、部分的な改変は常態なので、コロッセウムではトラヴァーチン部分があらかた取り外されてしまった可能性が高い。その点、チルクス・マクシムスのほうは旧態のまま残存しているわけであろう。

 現況を前提に考える場合、女性はどのように用を足していたのかが疑問となるが、一つの解決策として女性は最上階での見学が指定されていたので、それは現況では取り壊され原型が消え去ってしまった、ないし、現存設備の一部をカーテンで区切って用を足していた、などが考えられているようだが、ウェスタの巫女や高官関係者の女性は低層階で見物できていたと思われるので、後者がより妥当ではないかと考えている。また大便に対してはどう対応していたのか、私のような食せば出したくなる存在には気になるところであるが、この件について本書はとりあえず何も答えてくれていない。そういう便所は後世取り壊され跡形もなく改変されてしまったのか、狭いニッチェを利用して可動式(木製)便座の下に桶を置いて用を足し、奴隷が小まめに処理していたので、設備的に確認できないだけだったのか、と想像するしかない。

社会身分による座席指定状況の想像図

【追記の追記】2022年出版の以下をとうとう発注した。500ページ弱で送料込みで4万円強となるが、ニームの円形闘技場がらみを初めとして、私のトイレ研究では不可欠と判断したからだ。

 

【追記】昨日登学してついでに調べたら、以下でもすでに1箇所トイレとされていた。J.Humphrey, Roman Circuses:Arenas for Chariot Racing, London, 1986, p.109. “Lastly, a drainage canal linked to an earthernware pot (a possible latrine) was found in bay F (fig.44)”. その意はおそらく、放出された小便は縦樋で地下に設置された土器製容器に収集されていた、ということだろう。ちなみにfig.44でのその場所Fとは、上記平面図で右から2つめの表記「urinal?」である(Humphreyは他は無視し、壁関係の測量結果も異なっている)。

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来年公開、国立ナポリ考古学博物館分館

 これまで手狭だったナポリ考古学博物館とは別に、ポンペイ出土品に特化した分館が来年に公開予定されている。そのころ見学に行きたいなと思う。この分館は、廃墟となっていた旧「貧民のための王立ホテル」Real Albergo dei Poveri (Palazzo Fuga) に、1億5800万ユーロ(約275億円)の資金を投じて、2026年半ばに完成予定。場所はナポリ植物園の北隣。ナポリ中央駅から北に直行すると行き着けるようだ。規模的に本館よりも相当広い感じ。

    ⬆手前に本館         ⬆上方に分館 ⬆右端下がナポリ中央駅
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ポンペイ遺跡で新仮説:ドムス付属の高塔の存在

 私は常々、観光客のみならず研究者においてさえ、考古学遺跡を訪問したとき陥りやすい誤解として、建築構造遺物の残存状況では土台部分しか残っていないので、平屋建築と誤認しやすいのだが、上階部分のみならず地下構造も併存していた可能性を排除してはならないと授業などで言ってきた。その私にしても、後代に6階建てのインスラ建築すら存在した帝都ローマと異なり、後79年に埋没したポンペイやエルコラーノは、それ以前の地方都市の姿を保存していて、2階建てまでが普通で、それ以上は例外的だったと認識してきたのだが、それは通常の住宅でのことであった。

  というのは、ポンペイでは城壁沿いに12箇所の塔が指摘され一部復元されている。以下はIX.8.3「Casa del Centenario」から出土した多色テッセラによるメドゥーサ頭部を描いた床モザイク(現在はナポリ考古学博物館所蔵)の上下に描かれた四角枠の片方が、その城壁塔を彷彿させていて、私の興趣を否応なく刺激するのは、もう一方が港風景で、往事のポンペイ都市の特徴を彷彿させているからでもある。いずれ小論を書きたいテーマであった。

  ここであえて遺言として気付きを付言しておこう。上記地図では南壁と西壁の間(即ち、左図でのT12とT1の間)では城壁塔が確認されていない。それは両壁部分がサルノ川が形成したラグーンないし海水に曝されていた海岸だったことと無関係ではないと思われる(拙稿「ポンペイ遺跡の謎を探る:(1)」『西洋史学報』50,2023参照)。上記モザイク画で言うなら、両壁部分がさしずめ右側という位置関係になるはずである。但し、モザイク画での高低差表記に注目するなら、城壁塔の位置関係が逆転していることになるだろう。

 さて本論である。この城壁塔とは異なり、今回2025/10/20にポンペイ考古学管理事務所よりE-Journalで発表されたのは、さながら中世都市ボローニャやサン・ジミニャーノのように、超富裕層の邸宅に高塔があったのでは、という仮説の提示である。この情報に日本語で簡単に接することできるのは、「ARTnews Japan」である(https://artnewsjapan.com/article/50447)。件の邸宅は北側がVia Nolaに面し、番地としてはIX.10.3が振られ、とはいえ本格的な発掘は2023年に開始されたばかりで、そこからごく最近ディオニュソス秘儀のフレスコ画が出土した(https://artnewsjapan.com/article/25168https://www.youtube.com/watch?v=WMK1ns5oiW8)との報道が本年3月になされ、それにちなんで「Casa del Tiaso、Domus of Thiasus」(ティアソスの邸宅)と命名された。もちろん一般観光客はまだ見学不可である。なにしろ発掘途中なので、不明点も多いが速報レベルで告知しておく。

IX.10.3:左平面図中で階段は25、塔は21  右3D画面の中央に階段と塔
左は復元想像図:塔の高さは12mあったらしい 右は塔の透視図:塔内の階段は木造

 詳しくは、ポンペイ考古管理事務所編の以下が現段階でもっとも詳しい。https://pompeiisites.org/wp-content/uploads/09_E-Journal-La-torre-della-casa-del-Tiaso.-Un-nuovo-progetto-di-ricerca-per-la-documentazione-e-la-ricostruzione-digitale-della-Pompei-perduta.pdf

 塔の地階(我が国で言う一階)部分はおそらく倉庫として使用され、おそらくローマ・コンクリートと石材からなる他に類をみない長大で特徴的な外階段から、塔内の木造階段を登っての上階部分は、現代のタワー・マンションよろしく、おそらく風景を楽しみながらの食堂・宴会場だったと想定されている。そもそも最近発掘が進んだIX.10.1, 2区画(製粉・製パン工房と洗濯工房)に次いでの今回の3であるが、この区画はポンペイの有力者で市長に相当する「二人役」duumvir 経験者でもあった、Aulus Rustius Verus ないし彼の被解放自由人などの縁故者の所有地とみなされ、現段階で少なくとも1500平方メートルの面積に及ぶ50以上の部屋が発見され、未発掘部分もまだ残っていて、今後の調査進展が大いに期待されていて楽しみである。付言しておくと、他の邸宅ではこのような長大な外階段は未確認なので、邸宅付属の本高塔は現在のところポンペイ遺跡で唯一のものである(仮説の実証のため既出土の階段を検証し直す作業が必要だろう)。

 またあえて屋上屋の想定を述べさせてもらうと、本年8/27に掲載した、最近注目されている噴火埋没後の居住者の存在(「火山噴火で灰に埋もれたポンペイに住民が帰還していた その暮らしぶりも明らかに」https://www.cnn.co.jp/fringe/35236786.html)との関連で、想定通り12mの高さがあれば、噴火物による堆積と火砕流によってかなりの損傷を受けたにせよ、埋没地面より抜きん出て残存し得た構造物と考えられないであろうか。

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エルコラーノ出土の炭化パピルスから新たに判明した哲学者ゼノンのエピソード

https://www.labrujulaverde.com/en/2025/10/analysis-of-carbonized-papyri-reveals-intimate-details-of-the-life-of-zeno-founder-of-stoicism

 後79年のヴェスビオ火山噴火で埋没した都市のひとつにヘルクラネウム(現エルコラーノ)があるが、そこの「パピルス荘」というかなりお金持ちの邸宅の一部が18世紀に発掘され、その名が与えられているように、その家の図書室から当時の巻子本でパピルス文書が出土した。発掘当時は炭化して手がつけられない状態だったが、徐々に解読され、その中の1書に、文献では今日まで伝承していないエピクロス派哲学者ガダラのフィロデモス(前110年頃ー前30年頃)による『ストア派史』があった(逆に言うと、我らがよく知っているギリシア人やローマ人の著作は見つかっていないという、興味深い事実もある)。
 このたび行われた登録番号P.Herc.1018のパピルス文書断片の調査では、最新鋭の赤外線画像技術であるアクティブサーモグラフィー技術の応用でこれまで不可能だったギリシア文字と炭化した紙の判別が可能となり、従来より10%可読部分が増加した。

登録番号P.Herc.1018のパピルス文書断片

 その中に、ストア派の創始者とされてきたキプロス島のキティオン出身のフェニキア人ゼノン(前335ー263年)についてのエピソードが含まれていて、「新たに読み取られた断片テキストでは、ゼノンの鮮明でニュアンス豊かな人物像を描き出している。すなわち哲学的思索に明け暮れる禁欲主義者、おそらく質素な食生活に起因する虚弱な体質、そして社交的な宴会を避けるほどの孤立主義的な傾向があった。しかしながら、記述の中には彼に批判的で辛辣な論調も見られる」。エピクロス派がストア派を批判するの当然として、「この文書はまた、この哲学者がギリシア社会に溶け込むのに苦労した様子を浮き彫りにしている。フェニキア系の彼は、ギリシア語の流暢さに乏しいことで公然と嘲笑された。これは、ギリシア人がギリシア語を話さない外国人に対して抱いていた軽蔑的な態度を反映している」と。

パピルス荘から出土したゼノン胸像:台座部分に人名刻印

 同様な目にマケドニア人のアリストテレスも会っていたらしい。しかし、彼らを小馬鹿にしていたアテナイのギリシア人たちは何も残すことなく歴史の闇の中に消え去り、馬鹿にされていたゼノンやアリストテレスは極東日本の世界史教科書にまでギリシア哲学の著名人として登場している。

 それにつけも、アリストテレスやゼノンは古代ギリシア哲学者とひとくくりにされていて、いかにもギリシア人と思われがちだが、彼らの出身地は彼らが活動したアテナイではないので、当然その地のギリシア語方言だったアッティカ方言を流暢に操れなかったわけで、思想と言語は必ずしも一致していないという事実はもっと認知されるべきだと私は思うのだ。 

 その関連で、外来語を取り込んで自国語で思想を語ることをしてきた翻訳大国の日本は世界的に例外であるという指摘があることも、国際言語と距離を保って同化しちゃう民族的独自性としてもっと注目されていいのではと思わざるを得ない(これは、欧米植民地の知識階級が欧米語経由でしか思想を語ることができない現状と比較しての話だし、日本人研究者が凡てその才を発揮しているわけではないことも自明であるが)。

古代におけるギリシア圏での方言地図

 喋るのと読めるのと書くのでは語学の質が格段に違っていると思い込んで自分の語学的才能のなさに諦念し断念している語学オンチの私はつい、アリストテレスの著作って、ひょっとしたらアッティカ方言を操れる弟子たちが口述筆記し加筆訂正したものでは、などと空想してしまう。これは私の在職した大学で、かつて欧米出身の著名神父には秘書役の女性がついていて(男性の場合もあったようだが)、彼女たちが神父の母国語原稿を日本語に訳して公表していたということからの連想なのだが、さて実際にはどうだったのだろうか。

 通常の日常的会話交流とは異なり、やっぱり、それなりに高度な思想はネイティブ言語でこそひねり出せる技のように思われて仕方がない。もちろん語学の天才という存在の例外を排除する必要はないが。

【追記】2025/10/16で、NHKBSでの「英雄たちの選択」の小泉八雲編の最後に、下手な日本語と下手な英語の夫婦でどうして名作の英語版『怪談』が生まれたのかが話題となっていたのが、ここでの問題と通底しているようで興味深かった。ウィキペディアでは以下のように書かれている。「なお、八雲は日本語があまり上手くなく「ヘルンさん言葉」と自称する独特な片言の日本語の変種で他者と会話していた。「ヘルンさん言葉」を完璧に理解できるのは妻のセツだけで、英語のできない客人とは話が通じず、セツが間に立って「ヘルンさん言葉」を通訳していたと次男の巌は『父八雲を語る』で回想している。」

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「初めは処女の如く、後は脱兎の如し」

 ケータイの画像を調べていたら、ローマの国立考古学博物館・マッシモ宮の最上階はフレスコ画中心の掲示になっているが(最大の見どころは、Villa di Liviaのそれだろうが)、Villa della Farnesinaの寝室Dを入口から覗いていて気づいて撮っていたのをみつけた。たぶん夫婦の寝室なのであろうが、部屋の三方の壁の中央の嵌め込み壁画がどうやら連続画になっているようで、なにぶん角度と距離あるのでうまくは撮れてないが、なんとか撮れたものを繋げると以下のごとし(本当は、初夜を前にして新婦が一人で物思いにふけっているのが最初だけど、角度的にうまく撮れないのが残念。それにエロテック情景のせいか、インターネットはおろか各種カタログなどに掲載されていないようだ)。

 また、いずれの画面にもペットの犬猫同様の扱いなのであろう、若い男女の奴隷が所在なげに傍観者的に描かれているのが興味深い。

 私は新婦の変化を見て、冒頭の一句を思い浮かべたのであ〜る。が、今回、語義を確かめてみたら、私の理解はどうやら間違っていたようだ。出典:孫武孫子・九地』

(白文)始如処女、敵人開戸、後如脱兎、敵不及拒。

(訓読文)始めは処女の如く、敵人戸を開くや、後は脱兎の如く、敵は拒ぐに及ばず。

(現代語訳)初めのうち、処女のようにおどおどしていれば、敵は(油断して)門戸を開くであろう、それからは、逃げる兔のように素早く攻撃すれば、敵はもう防ぐことはできない。

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最近のARTnewsJapan

◎古代ローマ墓石が、アメリカから出土の謎:https://artnewsjapan.com/article/48862

◎トルコの浴場からローマ時代のエジプト神図像出土:https://artnewsjapan.com/article/49197

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◎イスラエル・ガリラヤ東岸で石の隙間から1400年前の金貨や宝石が出土:https://artnewsjapan.com/article/47633

◎イギリスの金属探知機愛好家親子が古代ローマ時代のブローチ発見:https://artnewsjapan.com/article/47175

◎オランダから1900年前のランプ完品出土:https://artnewsjapan.com/article/46838

◎ポンペイ秘儀荘から待合用ベンチ出土:https://artnewsjapan.com/article/46308

◎シチリア島西海岸沖海底からローマ軍ヘルメット発見:httphttps://artnewsjapan.com/article/45973

◎1400年前の十字架がアブダビから出土:https://artnewsjapan.com/article/44758

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