なんとも奇妙であるが、本人が辞めると言っていない(という)のに、新聞が辞任報道をして号外まで配った今回の茶番の背後には何があったのか、それをなかなか説得的に述べている論説を見つけた。
2025/7/30の「高野孟のTHE JOURNAL」:「安倍政治の亡霊」を断ち切る覚悟。今さら“怖いもの”なしの石破茂が右派との最終戦争の末「戦後80年談話」で堂々と遂げる“戦死”(https://www.mag2.com/p/news/651749)。
なんとも奇妙であるが、本人が辞めると言っていない(という)のに、新聞が辞任報道をして号外まで配った今回の茶番の背後には何があったのか、それをなかなか説得的に述べている論説を見つけた。
2025/7/30の「高野孟のTHE JOURNAL」:「安倍政治の亡霊」を断ち切る覚悟。今さら“怖いもの”なしの石破茂が右派との最終戦争の末「戦後80年談話」で堂々と遂げる“戦死”(https://www.mag2.com/p/news/651749)。
NHK総合の「有吉のお金発見!突撃カネオくん」の「ご当地銘菓2」を見ていたら、私には見逃せない「もなか」が出てきたので、さっそくウェブで発注。
届いた「もなか」のパッケージが「トイレのさいちゅう」とすでに言葉遊びになっている。
これは愛知県常滑の地元餅屋「大蔵餅」が常滑にあるLIXILと提携して開発したもの。今年7/7の新発売らしい。常滑にはリキシル・INAXの立派なトイレ博物館があって、私も一昔前卒論で古代ローマのトイレを扱う学生と見学に訪れたことがある。その時は福岡にも足を伸ばしてTOTOの博物館にもいったが、そっちのほうはなんだか従業員の寮を再利用した感じで、その当時は常滑の設備・展示の方が圧倒的だった。
とりあえず、発注したのは4コ入りのもの。さっそく試食したが、「もなか」にしては皮の造りが若干ぶ厚くしっかりしていて、あんこと送料込みで2980円。まあ一個あたり700円と決して安くはない。味とかはごく普通で、奇抜な一発芸的な楽しみ方をするしかない。私は読書会のメンバー用にさっそく8個入りを追加発注したが、5000円近くなることもあり、そのあともう注文はしないだろう。
【追伸】妻に食べてみてと勧めたのだが、「そんなのいやよ」と言われてしまった。平気で食べる私が人でなしといわんばかりの勢いだった。単なる「もなか」じゃないかと思う私がおかしいのだろうか。読書会のメンバーは女性ばかり。う〜んどんな反応するのだろうか。
ちょっと子細あって以下の本をペラペラ読みした。戦争責任に特化した内容ではないが、カトリックの一信徒で、「日本カトリック正義と平和協議会」で社会問題に関わった人が書いた本である。
木邨健三『このままでいいのか:ともに考える人権』サンパウロ、2007年。
私より20年先輩だから、たぶんもう逝去されていると思う。
こういう問題は、立場が違うと論が永遠にすれ違ってしまうので、非生産的で私は好きではないが、両論、否、各論並記して見比べるにしかずである。だが今回著者がこう書いていたことに私は引きつけられた。
p.14:当時の「公教要理」では、カトリック以外の宗教を否定していました。今の教えとは天と地ほどの相違があったんです。神仏を拝んではいけない、たとえ自分の親兄弟姉妹が亡くなった場合でも、カトリック以外の葬儀には行ってはいけない・・・といった厳しい解釈をしていました。ですから、この解釈に忠実だった信徒が、神社参拝拒否事件を起こしたわけです。
最後の一文にはちょっと引っかからずを得ないが(果たして本当にそうだったか、と:単に不埒な学生の不逞行動だったかも)、「当時」の厳格な公教要理の教えが本当にそうだったとするならば、それから100年を経ての現在の有り様の様変わりは同じ宗教とは思えないかもしれない。国家権力と制度教会といった大所高所のやり取りではなく、一般信徒レベルのこういった肉感的背景をこそ掘り起こす必要があるように感じるのである。これは紀元後1〜3世紀の初期教会と国家宗教化した後4〜5世紀の違いに類した現象のように言われがちだが、いずれの場合にも、信徒には、真面目な者も不真面目な者もいたはずである。
誰も思い出さないだろうが、実は古代ローマ帝国のキリスト教迫害において、碩学J.Vogtが1962年のZur Religiosität der Christenverfolger im Römischen Reichの註記でずばり喝破しているように、近現代の日本における天皇は現人神として神格化され礼拝が強要されていくが、古代ローマ帝国では皇帝は生前神化はカエサルの前例から忌避され、巷で「皇帝礼拝」と言われている現象は、実は皇帝の守護神に皇帝の長寿や安寧を祈願していて、善帝は死後神化する場合があったものの、根本的に理解が違っていたとされている。私のようなひねくれ者は「といいつつも、実体的に官憲と庶民において、実質的に神に類する存在として礼拝が強要・受容されていたのでは、特に古来王政に馴染んでいた帝国東部では」と、一応言ってきたくなるのではあるが。
関連で、以下をみつけた。1891年(明治24年)1月9日の、「内村鑑三不敬事件」である。こういう問題は一旦社会問題化すると現に起こった事実などどこかに飛んで消え去ってしまい、観念的な攻撃に晒されがちであるが、その実際に肉迫した以下の論文を読むとその辺りが如実に再現されていて、興味深い。
赤絵達也「<ためらう>身体の政治学:内村鑑三不敬事件、あるいは国家の儀式空間と(集合的)身体・論」関東社会学会『年報社会学論集』17号(2004年)、pp.1-12.
論文名に明示されている「ためらう身体」という、リアルな表現があの時の内村鑑三の怯えた現実感覚を彷彿させていて、実に興味深いのである。そこに、偶像化・神格化された無教会主義者内村はいない。状況に翻弄され戸惑う生身の哀れな内村が登場している。30歳のときのことだった。
表題は「米国の福音派牧師は半数近くが兼業している 調査で判明」(2025年6月26日)だったので、それを読んで最初私は、聖職以外に世俗の職業に就いている「兼業」のことかと思い大いなる興味をもってクリックしたのだが、情報の大部分は、複数教会での司牧を兼務している「兼牧」という内容だったのでいささか落胆した。というのは、カトリックでも司祭の減少で複数ないし巡回が普通のことになって来ていて、全然目新しい話題ではないからだ。しかしカトリックでも「兼業」が14%いると出ているが、これはアメリカならではの現象なのであろうか。
私の友人が所属する日本基督教団系の某教会は登録信者数50名だが、集会参加者は2,30名に過ぎないというわけで、牧師夫婦を養うのも大変で、いずれ他の教会と合同せざるを得ないだろうと話してくれたことがあった。
以下、兼業に関わる部分を中心に紹介する:
全米の宗教指導者1600人を対象に行った「全米宗教指導者調査」(NSRL、英語)の報告書(英語)によると、米国では福音派の牧師の47%が兼業しているという。
「兼業」している聖職者・教職者の割合は、全米平均で35%だった。2001年に行われた同様の調査では28%で、この20年余りで7ポイント増加したことになるが、これは主に福音派の牧師によるものだった。
聖職者・教職者の兼業割合は、黒人プロテスタントが35%、カトリックが14%、主流派プロテスタントが11%となっており、いずれも福音派プロテスタントより少なかった。なお、福音派・主流派プロテスタントの多くは、白人が占めている。
複数の教会を担当している「兼牧」聖職者・教職者の割合は、全米平均で19%で、01年の12%から増加した。こうしたケースは、主流派プロテスタント(24%)やカトリック(22%)、黒人プロテスタント(21%)で比較的多く見られ、福音派プロテスタントではあまり見られず、9%だった。
カトリックや主流派プロテスタントの聖職者・教職者は、追加の責任を負う場合、兼業するよりも、複数の教会を担当するケースが多く、逆に福音派プロテスタントでは、兼牧するよりも兼業するケースの方が多いという結果になった。
関連で、グーグル検索したら「YAHOO! 知恵袋」がヒットして、「牧師や神父は何か副業してますか」という問いかけに、以下のような返答が載ってました。2021年7月のことですが。
◎ カトリックや正教会の司祭は一定の俸給が保障されているので経済的理由で他の仕事をしている人はいません。付属幼稚園の園長などをしている人もいますし、教育機関で教職についている人もいます。カトリックの労働司祭は一般の仕事をして自らの食い扶持を稼いでいます。プロテスタントの教職(牧師)にも教職についている人もいますが、教職としての俸給が月10万円前後や遥かに下回る人もいます。自らの生活のために平日は一般の職業についている人もいますし、塾、新聞配達など様々なアルバイトをしている人もいます。プロテスタントには職業宗教人を置かない制度の教派もあります。
◎ 教会から十分な給料を貰っているのに、教会の仕事を大してしない牧師もいたりして。
◎ 奥さんを働かせる牧師もいたりして。
◎ 収入を補うために、多くの神父や牧師が、教会に併設された幼稚園の運営、高校や大学の講師、原稿執筆、語学の指導など、なんらかの副業を手掛けています。
なるほどこういうのも「兼業」に含まれるわけか。しかし教区司祭にはそうそうそういうチャンスは多くないような気がする。