殉教者と北アフリカ – 3. 供犠と自殺行為

Salisburyはさらに進む。あるいは、このような設定は現世肯定的な人生観を導いたはずだとイメージするかもしれない。だがペルペトゥアの場合そうはならなかった。それはなぜか。文献史料で称賛されているカルタゴの都市生活すら現代的視点からすれば不潔で危険だった。生活に活気はあったがインフラは脆弱で、ペルペトゥアは古代世界特有の不安にさらされて育った。そしてそうした場合、カルタゴ人は個人を犠牲にする道を選ぶ傾向が強かった、と。先にカルタゴの都市生活のすばらしさを持ち上げていたSalisburyが、すぐ後に前言をはぐらかすような物言いをする。これはここだけのことではないが、落ち着かない気分にさせられるのは私だけだろうか。その場その場で対象に没頭しているのはわかるが、全体的な整合性というか軽重のかけ具合に安定感がないのである。彼女にとって、これまでは明るい面に言及していただけであり、これから暗い面に話題を移すということなのかもしれないが。


古代世界の至る所で神々への犠牲が崇拝の主要部分をなしていた。人々は動物、粉菓子、ワインを祭壇で公的私的に捧げた【ph25-1,2】。彼らは神々が好意的に応じ、利益をもたらすか少なくとも災忌を阻止してくれるものと期待していた。このような世界観を持つ人々にとって 、もっとも大きな犠牲がもっとも大きな利益をもたらし、その最高の犠牲は人間の血であるという確信に至るのは、たいした飛躍でなかった。むしろそのような犠牲こそ人々を捉える大きな力だった。誰もが流血の必然性に固執していた。それは共同体の存続のため、そして個々人の救済のために支払われる代償だった。


史上あまりにも有名なフェニキアとカルタゴの人身供犠(27)に踏み込む余裕はない。ここではこの風習に言及するキリスト教著作家たちに付言するだけにする。ペルペトゥアと同時代の同郷人テルトゥリアヌスは述べる。「アフリカではティベリウスが属州知事であった時代まで、子供たちが公然とサトゥルヌスへの犠牲として捧げられていた。・・・このことはわれわれの父の兵士たちが証言していることで・・・。しかしこの神聖な悪業は、今日でも秘かに続行されている。・・・その子供の親たるや、喜んでサトゥルヌスの要請に応えて、自分の子供を差し出し、しかも犠牲として殺される時に子供が泣き叫んだりしないように、子供の御機嫌をとったりしている」(28)。文脈から「ティベリウス」とは著者と同時代人の総督と考えざるをえない。とするとテルトゥリアヌスの周辺でこのフェニキアの遺風が残っていたことになる。嬰児遺棄、中絶、間引き、そして幼児供犠の場で親が子供をあやしている様子は、後3世紀前半の同郷人ミヌキウス=フェリックスも書いている。「そして実際、それは君たちの行っている事なのである。君たちの中にはわが子を野獣や猛禽の前に捨てたり、時には首を締めたり窒息ーー最も哀れな死に方ーーさせたりして殺害する者もいることを私は知っている。また、薬を服用し、己の胎内の人間の萌芽の息の根を止めるーー子を生む前の子殺しーーを行う女も君たちの中にはいるのである。これらの行いはもちろん、君たちの神々によってなされた先例から引き出されたものである。実際、サトゥルヌスは自分の子らを捨てようとはしなかった。貪り食ったのであろう。したがってアフリカの幾つかの地域で、彼サトゥルヌスに赤ん坊が両親によって捧げられるのももっともなことである。わが子が泣きわめきながら捧げられることのないように両親は愛撫と接吻によってあやすのである」(29)。


ところで、人身供犠はフェニキア系の専売特許ではなかった。ローマ人もまた国家祭儀で行っていた(30)。これを失念しては公平性にもとるだろう。そもそもローマ都市創建の際のロムルスによるレムス殺害も、決闘という形式での人身供犠と解釈されうるし(31)、ローマによるアルバ=ロンガ併合時のHoratiiとCuriatiiの三組の決闘も、同様に儀礼的決闘と考える余地がある。こういった伝統は、危機的状況に直面した前264年と前216年に牛市場(フォルム=ボアーリウム)の供犠として再演され、ギリシア人とガリア人各2名が犠牲になった。大プリニウスは「われわれ自身の時代にも、ギリシア人の男と女、そして当時わが国が戦っていた他国民から選んだ何人かの生贄が牛広場に生き埋めにされるのを見さえした」(32)と書いている。つまり、この慣習が少なくとも後1世紀半ばまで続いたことを明言している(33)。さらに、後4世紀初頭の教会史家カエサレイアのエウセビオスが、後3世紀半ばのアレクサンドレイア司教ディオニュシオスの書簡を引用している中に興味深い一文がある。「彼[アイギュプトス出身の魔術師たちの教師であり組合長である人物]が、ウァレリアノスに聖ならざる儀式や、怪し気な魔術、忌むべき生贄などを行うように勧めました。それは哀れな少年たちの喉をかっ切ったり、不運な両親の子らを犠牲の捧げ物にしたり、生まれたばかりの赤ん坊の内臓を取り出したり、神の被造物を割いたり切り刻んだりすることであり、あたかもそれらのことが幸福をもたらすかのようでした」(34)。皇帝ウァレリアヌス直下の祭司団が人身供犠や嬰児を使っての腸卜行為をしていた、というのである(35)。こうしてみると、国家危急存亡の緊急時であれば、人身供犠による神意予見が少なくとも統治者には許されており、また彼らにとっても大きな誘惑だったことは間違いない(36)。同様の事例は史料的信憑性で劣るものの『ヒストリア=アウグスタ』も、後271年にゴート族とマルコマンニ族が国境を騒がしているとき、必要とあらば戦争捕虜を犠牲に捧げるべしと、アウレリアヌス帝が元老院に向けて書いた書簡に言及している(37)。


ローマでは戦争捕虜や他人の子が犠牲とされることが多かったが、フェニキア系では自らの子供(特に長男)が求められた、という違いは認められるかもしれない。しかしながらSalisburyのユニークさは、カルタゴの人身供犠の伝統は両親による子供の犠牲にとどまらず、自分自身を犠牲にすることを厭わなかったこと、むしろそれを高く評価していたという点でより一層きわだっていた、と主張する点にある。


古代において自殺はアリストテレスを始めとし否定的であった。天命がつきないのに寿命を縮めた死者は、中空に迷って悪霊となり生者に害を与えると考えられていたからである。それで、不慮の死をとげた者、死刑になった者、両親よりも早く若死にした子供まで「ビアイオタナトイ」biaiothanatoiなどと呼ばれて恐れられていた。だがストア派やエピクロス派では賢者の高潔な選択とみなされていた。人身供犠の伝統をもつカルタゴ社会では、自己犠牲的な死もイメージとして捉えられやすかった。事実、カルタゴ史の転換点では必ずといっていいほど犠牲的な自殺が登場する。それもたいていは女性によるものだった。北アフリカ人は、ディドーの自殺をとりわけウェルギリウスの語るところを通じて記憶していた【fig15】。この物語がカルタゴの歴史の始まりであった。それはまた個人がなすことのできる至上の犠牲のモデルでもあった。後年自殺に反対したアウグスティヌスですら、青年期にはえらくこの物語に引きつけられていたことを書き残している(『告白』I.xiii.20-21)。まさしくディドーは、自己犠牲によって記憶された多くのカルタゴ人たちの最初の一人だった。著名な自殺者リストは続く。前485年、カルタゴの将軍ハミルカルの焼身自殺(ヘロドトス『歴史』VII.166-7)。彼は戦いの勝利でよりもその自殺によって記憶されることになった。第三次ポエニ戦争の終わりの、古代カルタゴ滅亡の瞬間も、ある女性の自殺により鮮明に記憶された。すでに触れた司令官ハスドルバルの妻である。


ローマ支配下でのカルタゴ再建とともに、古代の神々崇拝も変化した。バアル=ハンモンはサトゥルヌスに、タニトはカエレスティスとなった【ph26-1, 2, 3, 4】。神々への生け贄も変化した。ローマでは人間の生け贄は前97年に元老院決議senatus consultumによって禁止されていたが(大プリニウス『博物誌』 XXX.12)、先に見たように実際にはその後もずっと行われていた。後2世紀中頃にハドリアヌス帝は、禁止令を帝国全体に拡大したが、人身供犠の習慣が目に見えて消えていったのはようやく後3世紀になってからだった。これは普通の共同墓地の発掘結果からも立証されうるという(Salisbury, p.55)。


ローマ人は公的な人身供犠を禁止した。だが彼らは別の人身供犠を残した。剣闘士競技である。その競技は、死者の魂は人間の血によって宥められるという信念に由来し、戦争捕虜や奴隷たちが葬儀において生け贄とされた。後になると剣闘士たちはアレーナの闘いで死ぬための訓練を強いられた。彼らは、焼かれ、鎖につながれ、鉄の武器で殺され、そして最終的にひるむことなく殺害用の刃に自らの首をさらすために訓練された。この新たな人身供犠、アレーナ競技は北アフリカでたちどころに一般受けした。まさしく北アフリカ的伝統に合致していたからに他ならない、とされる。それは人々の意識の中に深く染みこんでいた考えだった。富裕な北アフリカ人の家々を流血の拳闘(剣闘)士とか猫科の猛獣が人間に飛びかかっている場面のモザイクが平気で飾っていたことからも、血の生け贄への彼らの愛着の深さが推し量られよう【ph27-1, 2, 3, 4】。日本人の我々には想像もできないことであるが、殷賑をきわめていた北アフリカで供犠への礼賛が渦巻いていたのである(38)。


ペルペトゥアは生け贄や犠牲的自殺の話を聞いて育ったことだろう。カルタゴ人には大義のための死への称賛は深く染みこんだ感性だった。ペルペトゥアの同郷人テルトゥリアヌスは、喜んで死んだ人々の長い伝統の集団を獄中の彼女たちに思い出させた。彼は、古代ローマ史を彩るルクレツィア、ムキウス、ヘラクリトゥス、それにエトナ火山に身を投じたエンペドクレス、火葬台で焼死したペレグリヌス(40)といった異教徒の自殺リストを書きつけ、続けて「婦人たちでさえ、炎を恐れず、それを蔑みました」として、ディドー、ハスドルバルの妻の二人を挙げ、その後、ローマの執政官レグルスの受けた拷問、クレオパトラ、アテナイの娼婦レアイナの自殺に言及している。彼は勇敢に死んだ男女を列挙し、このように異教徒ですら地上的栄光を蔑んでいると強調し、ペルペトゥアと彼女の仲間たちを励ましている(41)。それによって、彼女たちがアレーナで容易に死に直面できるよう心の準備をさせていたのである。だがこともあろうに、ペルペトゥアたちを闘技場に引き出すために準備されていたのは「男はサトゥルニヌスの神官たちの、女性はケレスの巫女の」(xviii.2)衣装だった。ペルペトゥアは敢然と抗議しその意志を貫徹するが、その報いは着衣を「はぎ取られ、そして網をかぶせられて」(xx.1)の、すなわち裸体でのアレーナ登場だった。ペルペトゥアを北アフリカ的心情が支配していたとして、その北アフリカを端的に表象する神々を断固として否定せざるをえない、という一種の自家撞着。挙げ句のさらなる恥辱。悪い冗談としかいいようもないが、それが彼女たちの直面した現実だった。


以上我々は、Salisbury女史に導かれてフェニキア=カルタゴの人身供犠と供犠的自殺の世界に足を踏み込みすぎたかもしれない。しかしこの風習はポエニ人のみに特徴的といえないし、心底に自己犠牲を希求する願望をもつ人間類型は普遍的に存在する(もちろん、利己型類型もいて多数派かもしれない)。また、小説の筋書きが人間の行動規範を規定するというのもどうだろうか。実際になしえない言動を、読書や演劇で(そして現代では、映画やテレビで)代償行為的に解消しているのが、平凡な人間の姿ではないだろうか(もちろん、切れてしまう類型も少数ながらいるだろう)。Salisburyの描くイメージに従うならば、ペルペトゥアはさしずめ自殺願望とヒロイン願望が強く、そのうえ切れやすいタイプ、ということになりそうである。はたしてそうなのだろうか。結論を出すのはもう少し先にして、以上の検討から我々がまっさきに確認すべきなのは、女性のライフ・サイクルにおける陰惨な古代世界の現実である。美しく健やかに成長し、よき伴侶にめあわされ、そして健康で賢い子供を産み育てる。これがどの時代においても成熟した女性の願望であるとしても、おそらく平均寿命30歳台のあの時代において、人生半ばで幾度か遭遇する出産は重大な試練だった。トフェトの骨壺は、その賭に敗北した若き母親の悲しい記憶であり、たとえその後トフェトは消滅したとしても、同様の哀しみは若い母親を捕らえて放さなかったはずである。それは産む性の半面を彩る悲しい宿命として、ごくごく最近まで連綿と絶えることはなかっただろう。さらに付言するなら、たとえ人身供犠は姿を消したにせよ、親の望まぬ嬰児や幼児はより即物的に処理され続けてきたのが、歴史の実相かもしれない。そこにペルペトゥアは乳児を抱えて毅然と立っていた。


ペルペトゥアは信仰のために死ぬ決心をしていた。だからこそ自分の体験を書き留めようとした。しかし、家族との関わりやわが子への義務といった伝統的・人間的なしがらみは強力で、その圧力に耐えるのはひどくむつかしかった。Salisburyはそれを単純に「ローマ的伝統」と考えているようだが(p.57)、疑問である。遊牧民との接触もあった北アフリカのほうが、ローマよりも父権とか家族的紐帯は強かったのではないか。彼女は地中海世界に流布していた多様な考え方に接していて、伝統的ローマ的教育の許容範囲以上に、女性に主導権を与えている小説類も読み、北アフリカ的に自らを生け贄とする決意で人に遅れをとらなかったかもしれない。それにしても、なぜ彼女(たち)のみが、ほぼ同じ環境の中にいたはずの他の同郷人以上の突出行動に出たのかは、未だ判然としないままである。我々が第三の要素として検討すべきは、ペルペトゥアの生き様へのキリスト教信仰の影響である。なぜキリスト教だったのか。これが続稿の課題である。