殉教者と北アフリカ – 1. 北アフリカ・カルタゴ

ペルペトゥアはおそらく北アフリカの属州州都カルタゴ、ないしその周辺で生まれ育った(3)。彼女の生育歴の大部分は北アフリカ的環境にまず見いだされるだろう(4)【fig01-1, 2, 3】。そしてカルタゴおよび北アフリカは、後7世紀末のイスラム征服以前においては、ベルベル人と総称される土着先住民【ph01-1,2】に、フェニキア系、ギリシア系、そしてローマ系の移住者が、重層かつモザイク状に生活を営んでいたことに留意する必要がある。彼らが互いにどういう関係にあり、どの程度同一化していたのか、といったきわめて基本的な事実が不分明のまま、我々は論じざるをえないが、ここでは結論を先取りし、彼女を代表的な北アフリカ系(すなわち土着先住民系)の、カルタゴ市民家系とみなして話を進めてみよう。諸般を考慮してそれが一番妥当な線と考えるからである。


カルタゴは伝承によれば、前814年頃フェニキアのティルスの王女エリッサ(ないしディドー)によって創建された。故郷を追われるようにして彼女とその一団は、フェニキア人が幾世紀もかかって開拓した航路を西にとり、東地中海の海岸沿いを進んだ【fig02】。古代の船すべてがそうであったように、一日約50キロメートルずつ移動し、夜はこれまた設置されていた彼らの停留港に停泊したことだろう。そこには水と食料の用意があった。こうして彼女たちはとある停泊地の小高い丘に拠点を定めた。それが現在のチュニジア共和国首都チュニスの郊外、電車で2、30分でそのふもとにつくことができるビュルサByrsaの丘である【ph02】。王女エリッサは、その地の族長ヒアルバスの求婚を拒み火に身を投じて焼身自殺した。ウェルギリウスはこの話をアエネアスの出立におきかえている(5)。伝説とはいえ、移住民と先住民の間のこじれた関係が明示されているのは興味深い。しかしこの都市はその後、東西地中海のフェニキア系海上貿易ルートの結節点として大いに繁栄した。特に重要な港湾施設は、内港は軍港、外港は商業港という特異な構造を持っていた【fig03ph03】。都市の直径およそ11キロメートル、三面が海に守られていた。残りの地続きの部分は30キロメートル以上の城壁があった。都市の中心は広場と碁盤の目状の道路網で港近くに作られ、ビュルサの丘は堅固な砦で覆われていた(6)。フェニキア人は人目を引く高層の石造りの家に住んでいた。そこには庭があり下水や浴槽もあった【fig04-1, 2ph04】。家屋の床は地中海でもっとも早期のモザイクで飾られていた【ph05-1, 2, 3】。その技術はギリシア・ローマのそれへと発展・伝播し、ペルペトゥアが生きた後2世紀末の家々の床を見事に飾っていた(7)。


フェニキア時代の最盛期に人口はおそらく40万人、そのうち純粋のフェニキア人末裔は10万に満たなかったとされる。入植者の子孫は変化を望まないことにおいて祖国フェニキア人以上で、母都市の古い習慣に固執した。それはまず言語と故国カナーンの神々崇拝堅持に現れている。彼らは主神バアル=ハンモンBaal Hammonとその妻タニトTanito信仰においてきわだっていた(8)【ph06】。この神々にはひとつの特徴があった。生け贄を要求したのである。供犠それ自体は古代地中海世界で珍しくなかったが、カルタゴのフェニキア人には人間を犠牲に捧げる習慣があった【fig05ph07-1, 2, 3, 4】。それは母都市が滅びてしまった後でもそうだった。それへの固執が彼らの紐帯の強さのひとつであり、同時に先住民との関係を疎遠にもしていた。


カルタゴ人についての描写は混乱している。前5世紀のヘロドトスは沈黙貿易を例に挙げ、誠実な交易商人として描いている(9)。その後200年を経てローマ人がカルタゴに対決し始めると様子が変わる。ポリュビオス、リウィウス、プルタルコスらの記述は、色とりどりの宝石、香水瓶、快適な住居といった考古学的知見とは相容れない、陰気で野蛮で冷淡な輩という偏見に満ちた描き方をしている。「彼らの政務官たちに対しては恨みがましく、不機嫌で卑屈なくせに、臣従者たちには過酷、恐怖に駆られるとほとんど絶望的となり、怒るときわめて野蛮、一旦決定したことに固着すること強情で、陽気なことや洗練さに対しては、気に食わず冷淡な態度をとる」(10)。


カルタゴ人が自己の慣習に固執したのは事実である。ディドーの子孫はこの性質を受け継いだ。海上貿易と同時に、工芸製品製造や農業経営にも秀でていたカルタゴは、地中海の経済的覇者として名を轟かせ繁栄していた。だが対抗勢力ローマと2度戦って2度休戦し、3度目に壊滅的破壊を被って滅びる。3年間の包囲攻防の末、前146年、ローマ軍はようやく10万人がたてこもる城壁内に突入できた(3年前の開戦当初の人口20万、戦闘員3万)。ビュルサの丘の大神殿に至る狭くて曲がりくねった坂道は6昼夜におよぶ死闘の舞台と化した。坂を登るローマ兵に、市民は道の両側にひしめく堅固な石造りの高層建築物を砦にして抵抗した。それに対しローマ軍も残虐に報いた。建物内にいた者すべてを非戦闘員も含めて惨殺、道幅を広げるためにまだ息ある者も死者とともに溝に埋めこんで平らにし、その上を騎兵隊が前進した。ここで、いかにもカルタゴを象徴するエピソードが伝えられている。市街戦の7日目、ビュルサの砦に追い込まれた5万人の生命を救うべく最後の交渉が行われた。カルタゴ司令官ハスドルバルはこの土壇場で降伏を申し出て許されたが、彼の妻は、助命対象外の900名と運命をともにし、燃えさかる大神殿の炎の中に身を投じた。彼女は祭りの晴れ着を身にまとい、夫の行為を罵った後、子供たちをまず火の中に押しやり自らも続いたという。ディドーの再演である。


ローマの将軍スキピオ=アエミリアヌスが、カルタゴの永遠の不毛を願って溝に塩をまく儀式を行ったとは、これまた有名な史伝であるが、実際には早くも23年後の前122年、ローマ元老院はこの地に植民市建設を決定し6千人送り込む計画を立てている(11)。そして前46年、ポンペイウス派を追ってやってきたユリウス=カエサルは退役兵の植民市として再建に本腰を入れ出すが、前44年に暗殺され、遅れてローマは前40年に3千人を送り込んだ。さらにアウグストゥスによって、前14/13年にアフリカ州都の座がウティカ Utica からカルタゴに移された。こうして、カルタゴはアフリカ=プロコンスラーリス州都として転生する。ストラボンはこの「コロニア=ユリア=カルタゴ」をローマ帝国の中で最も隆盛を誇った都市の一つに数えている。長い間城壁は禁じられていたが、それも前35/34~前19/17年に完成した(12)。この属州の統治権はローマから派遣された第一級の格式を誇る元老院選出属州総督(proconsul)にあったが、各地共同体は現地人による間接統治がローマの支配の常道だった。それは現地人が伝統的生活を営むことを認めることを意味しており、こうしてバアル=ハンモンやタニトは崇拝を受け続けていく。


再建の際その重要な港は保持され、ローマ人は海岸近くの旧ポエニ人街を利用したが、都市の中心はビュルサの丘に置き直された。そこに相応の公共広場forumを設置するため、かつての住宅街の瓦礫の上に巨大な基礎柱を据えて丘の頂上部分を拡張【fig06-1, 2ph08】、これによって新たな広場は10万5千平方メートル以上となり、諸神殿と列柱廊を持つことができた(13)【fig07-1, 2】。その公共広場を中心にして新たに碁盤の目状に都市計画が立てられた【fig08】。後2世紀までにカルタゴは征服以前の繁栄を回復、それ以上となった。ハドリアヌス帝とアントニヌス=ピウス帝のもとで、数多くの建築物がたてられ、それらはその後の2世紀間、西方の知的中心となるもの、すなわち若きペルペトゥアの諸体験となるものを生み出した。ビュルサの丘の公共広場は都市活動の中心だった。そこで人々は逍遙し、祈り、会話した。アプレイウスが彼の演説の中で称賛した偉大な図書館や、後四世紀に若きアウグスティヌスを引きつけた書店と学校もそこにあった。公共広場はまたキリスト教徒たちの裁判の舞台であり、それは著名な弁論家たち以上に多くの群衆の好奇心を惹きつけたに違いない。


下町にあたる旧ポエニ人街にもローマ的公共建築物が目白押しだった。町の北西端の円形闘技場は帝都ローマのそれに次ぐ大きさだった【ph09-1, 2, 3, 4】。西端には戦車競技用の競技場があり、4万から4万5千人を収容してこれまた帝国最大規模のものだった(14)【fig09ph10-1,2】。町の反対側には背中合わせに2つのローマ式劇場があった。ひとつは後2世紀半ばにハドリアヌス帝により建設され、若きアウグスティヌスを大いに魅了したし、現在でも演劇に使用されている【ph11-1, 2, 3】。もうひとつは屋根付きの劇場または音楽堂で、これも後2世紀に建てられたが、現在は朽ち果てて訪れる者も少ない【ph12】。そこをめざす観光客は、道すがら丘の斜面に広がるローマ時代の住宅遺構を見物することができる【ph13-1, 2】。


またカルタゴには多くの浴場があった。そのうち、海岸近くのアントニヌス浴場は広さ6万3千平方メートルにおよび、ローマのそれらを別にすると、帝国内で最大規模を誇っていた(15)【fig10ph14-1, 2, 3】。このような都市生活の必需品は水である。ローマの技術者は個人住宅用以外にも公共建築とりわけ浴場への水の供給のために尽力しなければならなかった。カルタゴへの巨大な導水橋は、皇帝ハドリアヌスの下で後2世紀初頭に建てられた。この導水橋は、カルタゴの南56キロメートルのJbel Zaghouan(古名Zeugitanus山)の頂上直下の水源から水を運んできた(16)【ph15-1, 2, 3】。一秒に約3百リットルという水量を、都市まで120キロメートルかけて持ち込んだのである。それはローマ帝国でもっとも長い導水橋であった【ph16-1, 2, 3, 4, 5】。水は現在でも円形闘技場近くのラ・マルガで見ることのできる巨大な貯水槽cisternaeに貯えられた【ph17-1, 2, 3, 4】。


後2世紀のカルタゴは巨大な都市だった。旧ポエニ都市を埋め立てローマ様式で再編成されたそれは、公共建築の豪壮さと裕福な市民層とにおいて帝都ローマに次ぐ存在だった。だがカルタゴはローマの単なるコピーではなかった。その都市と住民は独自の伝統を保持し続けていた。北アフリカ人たちは、セプティミウス=セウェルス帝の一族に向けてさえ、ポエニ語で話しかけ続けた。しかし、言語のみが北アフリカ人の民族的アイデンティティ唯一の尺度だったわけではない。


植民地化にはある種のリズムがある。最初に、征服者である植民者たちは自分たちの文化を持ち込み、意識的に自文化保存の努力をする。彼らのローマ的規範の生活様式が強力に移入される時期である。けれどもやがて植民者たちは彼らの立場が確保されたと確信すると、今度は現地の習慣を以前よりも受け入れるようになる。2世紀の時の流れを経て、アフリカ起源を求めるのがカルタゴ上流階級の流行となった。たとえ彼らの氏素性が純粋なローマ人だったとしてもそうであった。その現れのひとつが、サトゥルヌスSaturnusとカエレスティスCaelestisという、バアル=ハンモンとタニトのローマ宗教での対価神への崇拝だった(17)【ph18-1, 2fig11】。ローマ系の北アフリカ人はまた、彼らの子供にDatus, Fortunatus, Saturninusといった典型的なアフリカ系の名前をつけた。後2世紀末から3世紀初頭に、テルトゥリアヌスは伝統的なカルタゴ人の衣服について記述し、それらがアスクレピウスの神官が儀式で着た衣服だったとしている(Pall.,1.2)。ペルペトゥアの手記、とりわけ夢の中には、彼女と同時代の人々の服装(x.1 ; x.7)やカルタゴの空間装置(牢獄、ただし場所不明 iii.3 ; 公共広場 vi.1 ; 円形闘技場 x.2。サトゥルスの場合、cf., xi.4, xiii.3 ;「競技場」stadium, circo)が登場している。多くの属州住民と同様に彼女はローマ文化の所産であったが、彼女の人生の多くを育んだのは属州都市カルタゴそのものだった。それは伝統的な北アフリカの日常生活であり、また数世紀間培われてきたローマ的カルタゴの文化的空間であった(18)。ただ、彼女の中で、この民族・言語・文化がどのように混在していたのかを正確に推し量るのは、きわめて困難といわざるをえない。