拙稿「紀元3世紀初頭北アフリカにおける家族問題の一断面一一「ペルペトゥアとフェリキタスの殉教者行伝」を素材として一一」山代宏道編『西洋の歴史叙述にみる「危機」の諸相 平成9~11年度科学研究費補助金基盤研究(A)(2)研究成果中間報告書』1999年、79~103ページ。そこで検討課題として9点を列挙しあわせて当座の私見を提示しておいたが、R.S.Kraemer and S.L.Lander, Perpetua and Felicitas, in: Ed. by P.F.Esler, The Early Christian World, vol.2, London & New York, 2000, pp.1048-1068の挑戦的な論考に最近接し、再検討の必要を感じている。
Joyce E.Salisbury, Perpetuaユs Passion. The Death and Memory of a Young Roman Woman, New York/London, 1997, Pp.228, esp., Chap.2 :Carthage, pp.33-57.
D.Soren et al., Carthage. Uncovering the Mysteries and Splendors of Ancient Tunisia, New York, 1990, p.148.
N.Davis, Carthage and Her Remains, London, 1985(1861) ; K.M.Dunbabin, Mosaics of the Greek and Roman World, Cambridge UP., 1999, pp.101-103. ローマ時代のものは多数あるが1冊だけ挙げておく。Photos Andr・Martin, Textes de Georges Fradier, Mosaiques romaines de Tunisie, Tunis, 1994.
楠田直樹『カルタゴ史研究序説』青山社、1997年、第2章は、この件に関して「カルタゴは、・・・フェニキア固有の伝統をそのまま受け継いだのではなく、西地中海世界の土着のさまざまな文化をその中に具現しながら、取り入れているし、よかれと思えるものは独自の文化の中に組み込んでいったと思われる。その面では文化的に応用力のある柔軟な文化であった」(47ページ)とあくまで慎重である。なお、最近ようやく翻訳が出たA・アマン(東丸恭子訳)『アウグスティヌス時代の日常生活』上、リトン、2001年(Adalbert Hamman, La vie quotidienne en Afrique du nord au temps de Saint Augustin, Paris, 1979)、第1章の叙述はその複雑な交錯を見事に表現していて、必読の書。
J.H.Humphrey, Roman Circuses:Arenas for Chariot Racing, London, 1986, pp.296-306. ローマの大競技場Circo Maxmimoとシリアのアンティオケイアの後では、知られている最大規模のもの。
後145年頃開始、後162年完成。F.Yeg殕, Baths and Bathing in Classical Antiquity, New York, 1992, pp.192-196.
水源にニンフェウムが建築され今日でも残っている ; cf., Texte de Fabienne Ferjaoui-Weber, Carthage : le Parc des thermes dユAntonin, Tunis, 1994, p.56. Shaw, Environment and Society in Roman North Africa, Vermont (USA), 1995, p.67は、これを後150~160年代建設とする。
この神々についてはさしあたり以下を参照。M.LeGlay, Saturne Africain : Monuments, Tome 1, Afrique proconsulaire, Paris, 1961 ; G.H.Halsberghe, Le culte de Dea Caelestis, in:ANRW, II/17-4, Berlin/New York, 1984, S.2203-2223.
以上、J.B.Rives, Religion and Authority in Roman Carthage from Augustus to Constantine, Oxford, 1995, p.65f.,161f.参照。
フラウィウス・ヨセフスのDe Bello Judaico, II.383におけるアグリッパ演説中の言葉(秦剛平訳『ユダヤ戦記I』ちくま学芸文庫、2002年、348ページ)。大プリニウスは、繙種量1に対して150倍の収穫が見込めると報告をしている(HN, XV.iii : 中野定雄他訳『博物誌』2、雄山閣、1986年、775ページ)。地中海世界での通例は繙種量1に対して4ないし5であった。ギリシア人ストラボンも、リビア=北アフリカは年に2度収穫の秋を持ち、240倍の収穫があるともいっている(XVII.xi:C831 : 飯尾都人訳『ギリシア・ローマ世界地誌』2、龍渓書舎、1994年、620ページ)。
P.G.Walsh, Lucius Madaurensis, Phoenix, 12, 1968, pp.151-153 ; V.Schmidt, Readtionen auf das Christentum in den METAMORPHOSES des Apuleius, Vigiliae Christianae, 51, 1997, pp.51-71 ; V. Hunink, Apuleius, Pudentilla, and Christianity, Vigiliae Christinanae, 54, 2000, pp.80-94.
古代イスラエルの比較宗教学的知見としては、永橋卓介『ヤハウェ信仰以前』国文社、1969年、197~200頁。同『イスラエル宗教の異教的背景』基督教教程叢書第十三編、日獨書院、1935年は、今日でも読み応えがある。考古学的知見については、『史艸』に佐藤育子氏の一連の論文がある。「カルタゴ史に関する史料」第26号、1985年、57~66ページ; 「カルタゴ史に関する史料ーーギリシア・ラテン語文献の資料の分析を中心にしてーー」第29号、1988年、64~74ページ ; 「碑文史料にみられるカルタゴの政務職について」第33号、1992年、11~43ページ; 「カルタゴにおける幼児犠牲ーーその現状と課題をめぐってーー」第35号、1994年、246~263ページ。なお一般向けは別にして、森健一「カルタゴの幼児犠牲ーー史料分析を中心にーー」『COMMENTARII』(上智大学文学部史学科豊田ゼミ紀要)第5号、1994年、28~45ページ参照。これは、S.Brown, Late Carthaginian Child Sacri゙ce and Sacri゙cal Monuments in their Mediterranean Context, Shef゙eld, 1991の紹介。
HE, VII.x.4-9 : 秦剛平訳『教会史』3、山本書店、1988年、21~22ページ。またエウセビオス『福音の準備』(Praeparatio Evangelica, I.x.42-43)に、前13~12世紀のフェニキア人サンクニアトンSanchuniathonの一文が、後1~2世紀前半のビブロスのフィロンPhilonの『ユダヤ人の歴史』のギリシア語訳から転載されている(エウセビオスの同時代人の新プラトン哲学者ティロスのポルフュリオスPorphyriosにも転載ありと)。「古代人の習慣として、都市の指導者や国民にとって重大な危機が生じたとき、全体の破滅を免れるために、彼らの子供たちのうち最愛の者を復讐の悪霊たちへの贖いのため犠牲として引き渡した。引き渡された者たちは秘儀の犠牲となった。こうして、フェニキア人がエルスElusーー彼はその国の王だった、そして結局、彼の死後、星のサトゥルヌスとして神格化されたーーと呼ぶクロノスは、Anobretという国の一人のニンフによって、一人の息子を得たが、彼らはその息子をIedud、唯一得られた者、と呼んだ。そして今でもフェニキア人の中ではそう呼ばれている。そして、戦争で極めて大きな危険が国家を襲ったとき、彼は彼の息子を王の衣装で着飾らせ、祭壇を用意し、犠牲に捧げた」と(Die Praeparatio Evangelica, I, Hrsg. von Karl Mras, 2.bearb. Aufl. Hrsg. vonヅouard Des Places, in:GCS, Eusebius Werke, Bd.8/1, Berlin, 1982, S.51 ; Transl. by Edwin Hamilton Gifford, Preparation for the Gospel, Part.1, Oxford, 1903, Michigan, 1981, p.45 (ただし、ここでの章節番号は、I.x.40a-d)。アウグスティヌスも、前1世紀のウァッロ情報として、人身供犠について簡単な証言を残している(Augustinus, de Civitate Dei,VII.xix, xxvi : 茂泉昭男・野町啓訳『神の国』(2)『アウグスティヌス著作集』12、教文館、1982年、123、140ページ)。キリスト教側は護教的見地からもこういった事例の収集に余念がなかったようだ。