『ローマ教皇列伝』Liber Pontificalis 解読

 この基本史料に邦訳あっていいのでは、というのが私の動機である。初期中世ラテンに疎い五名で読みはじめたが(その後、江添、桑原と私の三名となった)、えてしてそういうものだが、初っぱなから大苦難の様相である。どなたか助っ人お願いできればと切望しているので、お声を上げていただければ幸甚である。隔週火曜日、午後18:30より90分程度。Zoomでやっている。参加希望者はk-toyota@ca2.so-net.ne.jpにご連絡ください。

使用ラテン語底本:一応MGHを底本としてますが、読解には便利なので以下のThe Latin LibraryのDIGITAL版を使用している。

 https://www.thelatinlibrary.com/liberpontificalis1.html

 Th.Mommsen, Liber Pontificalis ,Pars Prior, MGH, Gesta Pontificvm Romanorvm, vol.1, Berlin, 1898.

 Louis Duchesne, Le Liber pontificalis, tom.1, Paris, 1886(https://books.google.co.jp/books/about/Le_Liber_pontificalis.html?id=_gAXCJUWI0UC&redir_esc=y ; https://archive.org/details/duchesne01/page/n429/mode/1up?view=theater#page/n337/mode/1up)

翻訳:

Louise Ropes Loomis, The Book of the Popes, New York, 1916(https://books.google.co.jp/books/about/The_Book_of_the_Popes.html?id=Q3CxAAAAMAAJ&redir_esc=y)

 Raymond Davis, The Book of Pontiffs, Liverpool UP, revised third edition, 2010.

 Nathalie Desgrugillers, Liber Pontificalis 1.Des Origines au pontificat de Sylvestre (30-355), L’Éncyclopédie médiévale, 2012:発注中

参照辞書

 Du Cange, et al., Glossarium mediæ et infimæ latinitatis. Niort : L. Favre, 1883-1887: http://ducange.enc.sorbonne.fr/

 de Daremberg et Saglio, Le Dictionnaire des Antiquités Grecques et Romaines, Paris, Hachette, 1877-1919(http://dagr.univ-tlse2.fr/)

Hrsg. von Engelbert Kirschbaum SJ, Lexikon der christlichen Ikonographie, 8 vols., Rom/Freiburg/Basel/Wien, Herder, 1968-1976

 Sir William Smith and Samuel Cheetham;introduction by Michael Ledger-Lomas, A Dictionary of Christian Antiquities,2020(1876).
Vol.1:a-j
https://www.google.co.jp/books/edition/A_Dictionary_of_Christian_Antiq
uities_A/3t0UAAAAQAAJ?hl=ja&gbpv=1&dq=bibliogroup:%22A+Dictionary+of+C
hristian+Antiquities%22&printsec=frontcoverver
Vol.2:k-z
https://www.google.co.jp/books/edition/A_Dictionary_of_Christian_Antiq
uities/a4UP1z6f6YoC?hl=ja&gbpv=1&dq=bibliogroup:%22A+Dictionary+of+Chr
istian+Antiquities%22&printsec=frontcover

 Mediae Latinitatis lexicon minus, Leiden, 1984.

文法書

 國原吉之助『新版中世ラテン文法』大学書林、2007.

 なお、現在教皇へのカトリック的な一般的敬称表記は「聖下」がよく使われているが、ここでは試しに伝統的な「猊下」としてみた。またbeatusは現在では、「聖人」sanctusと差別化して「福者」と訳されるが、ここではあえて冗長ながら「祝福された」と訳した。

地図:

 上記R.Davisの末尾に掲載されているものを二点転載しておく。

地図1

地図2

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献辞 

 至福なる beatissimo 教皇ダマスス(猊下)に、ヒエロニムスが(献じます)。

 猊下の聖性の栄光に鑑み、我ら謹んで次のごとく哀願いたします。我らが猊下の聖性のおかげで司られることを知ったところの使徒座の apostolicae sedis(権威)に基づき、これに対し深く頭を垂れて hoc curui、我らは祈ります、祝福された beati 使徒ペトルスの首位権の(時代)から、猊下の(使徒)座の中で行われた猊下たちの諸時代までずっと usque ad 諸事績を、平和の秩序のために、我らに詳述するのを猊下が決心させられますように、と。我ら謹んで、上述の聖座 sanctae sedis の諸司教のうち誰が殉教の冠を得たか、それどころか uel 誰が諸使徒の諸規範に canones 反して逸脱したかさえ知られているのかを、思量することを知る限りにおいて、我らのために祈りたまえ、至福なる beatissimae 教皇(猊下)よ。

 首都ローマ司教ダマススが、司祭ヒエロニムスに(与う)。

 貴下の(知識の)泉によって満たされた教会は喜び、そしてより多く、諸々の時代の祭司職の sacerdotalis 好奇心は以下を渇望するものである、すなわち、何が価値あるものかが知られ、そして何が無価値であるので退けられるべきかを。さらに tamen 何がなされるのか、我らがみつけえたものが何かを、我らの(聖)座の sedis 研究を、汝の隣人愛において享受することを、我らは(これまでも)導いてきたのである。我らのために(キリストの)聖なる復活のゆえに祈りたまえ、兄弟よ、同僚司祭よ。ご機嫌よう Vale、我らの主、神、キリストにおいて。五月二十三日に与う。十月二十六日に受領、ローマからヒエロソリマに送付(書簡)。

 

第一章 ペトルス PETRVS 【- 64/67年

 1. 祝福された beatus ペトルス、使徒にして使徒たちの筆頭者 princeps、アンティオキアの人、ヨアンネスの息子、ガリラヤ属州のベトサイダ村 vico(出身)で、アンドレアの兄弟が、最初 primum アンティオキア内で司教のカテドラに cathedram 七年の間着座した sedit。このペトルスは帝都ローマに皇帝ネロの時に入って、そこで ibique 司教のカテドラに cathedram 二十五年二か月三日間着座した sedit。それはまた fuit autem 皇帝ティベリウスの、そしてガイウスの、そしてティベリウス・クラウディウスの、そしてネロの諸時代である(後一四-六八年)。

 2. 彼は、二つの書簡を epistulas 書いた、それらは公同 catholicae(書簡)と呼ばれている、そしてマルクス(マルコ)の福音書を(書いた)。なぜならマルクスは彼(ペトルス)の聴聞者 auditor であった、そして受洗によって(ペトルスの)息子だったので、その後 post (マルクスの福音書は)四福音書すべての源泉で、それらが吟味された ad interrogationemとき、そして彼の証言によって testimonio、それはペトルスのそれであり、あるものはギリシア語、あるものはヘブライ語、あるものはラテン語で表明されていても consonent、さらに tamen それらは彼の証言によって testimonium 立証されたのである sunt firmatae。

 3. 彼は、二人の司教、リヌスとクレトゥスを叙階した ordinauit。彼らは自らあらゆる聖職的奉仕を ministerium sacerdotale 首都ローマで会衆 populoや、それどころか uel やって来た人々にさえ示したexhiberent。またautem 祝福されたペトルスは祈祷や説教を会衆に対して教育すべく専念した。

 4. 彼が、会衆の前のみならず皇帝ネロの前でも同様に、魔術師シモンと多くの議論を持ったとき、すなわちut 彼らを祝福されたペトルスがキリスト教信仰に集め adgregabat、後者(魔術師シモン)が魔術と欺瞞をもって散らしたので segregabat、そして彼らはかなり長く diutius 討論したが、シモンは神のご意向で diuino nutu 殺された。

 5. 彼は、祝福された司教クレメンスを聖別した consecravit。かつまた -que 彼にカテドラを cathedram、それどころか uel 教会を ecclesiam さえすべて管理させるべく disponendam 委ねて commisit、言う:私に舵を取り、結びかつまた -que 解く権能が potestas 我が主イエスス・クリストゥスによって授与されているので sicut、そして私は汝に委ねる committo、種々のことどもの管理人たちを dispositores 叙階する ordians ことを、彼らにより聖教会の活動は actus ecclesiasticus 達成され、そして汝は少しも世俗の諸々の世話に in curis saeculi 気をとられないように、むしろただ sed solummodo 祈祷のためだけに、そして会衆に説教するために自由であるべく専念せよ、と。

  6.  この管理の dispositionem 後に、彼は殉教によりパウルスとともに花冠を受ける coronatur、(それは)主の受難後三十八年に(あたった)。彼はアウレリア街道でアポロ神殿内に埋葬された、(それは)磔刑にされた場所の近くで、ネロの宮殿の近くで、ウァティカヌス丘の内へと、凱旋(街道)地域 territurium の近くで、六月二十九日に[参照、XXII.4]。彼は、十二月における諸叙階式で ordinationes、司教を三名、司祭を一〇名、助祭を七名(の叙階を)執り行った fecit。

第二章 リヌス LINVS 【c.70年

 1. リヌスは、生まれは nationeトゥスキア[エトルリア]街区 regionis Tusciaeのイタルス(イタリキ=イタリア)人 Italusで、父はヘルクラヌス Herculano、(司教座に)十一年三か月十二日間着座した。それはまた autem ネロの諸時代(五四-六八年)、Saturninus とScipioの執政官職(後五六年)から CapitoとRufusが執政官職(後六七年)に至るまでずっとで usque ad、殉教により花冠を受ける。

 2. 彼は、祝福されたペトルスの指示に則り ex praecepto、女性は教会内では in ecclesia 頭部をヴェールで覆って入るべしと定めた constituit。彼は、二回の叙階式で、司教十五名、司祭十八名(の叙階)を執り行ったfecit。彼は、祝福されたペトルスの遺骸の傍らに iuxta corpus beati Petri、ウァティカヌス(の丘)の中に in Vaticano、九月二十三日に埋葬された。

第三章 クレトゥス CLETVS 【Anencletus, c.85年

 1. クレトゥスは、生まれはローマ人で、パトリキウス街 vico Patricii 出身で、父はアエミリアヌス Aemiliano、(司教座に)十二年一か月十一日。それはまた autem ウェスパシアヌスとティトゥスの諸時代(六九 ?八一年)、ウェスパシアヌス七回目とドミティアヌス五回目の執政官職(七七年)からドミティアヌス九回目とルフスが執政官職(八三年)に至るまでずっと usque ad だった。(彼は)殉教により花冠を受ける。

黄色の矢印間がVicus Patricius:現在のサンタ・マリア・マッジョーレ聖堂の西南にあたる

 2. 彼は祝福されたペトルスの指示に則り ex praecepto、司祭二十五名を首都ローマで urbe Roma 叙階した ordinauit。彼はかくして etiam 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)内へと in Vaticanum 四月二六日に埋葬された。そして司教職は二十日間空座だった。

第四章 クレメンス一世  CLEMENS  I 【c.95年】

 1. クレメンスは生まれはローマ人で、ケリオモンティウム(=Caelimontium、下図の第二) 街区 regione (出身)で、父はファウスティヌス、(司教座に)九年二か月一〇日間着座した。

それはまた autem ガルバとウェスパシアヌスの諸時代に(六八?七九年)、トラカルスとイタリクスの執政官職(六八年)からウェスパシアヌス第九回目とティトゥス[第七回目執政官職](七九年)に至るまでずっと usque adだった。彼はその間 dum 多くの書物を libros キリスト教の信仰の熱意により書き記したが、殉教により花冠を受ける。

 2. 彼は(帝都ローマに)七つの街区を regiones 作り、教会に忠実な書記たちを notariis 割り当てた。彼は殉教者たちの諸事績に細心かつ好奇心をもっていたからで、かつまた -que 各々(の書記)が自身の街区について regionem、入念に diligenter 問い質すようにそうしたのである。

 3. 彼は二通の書簡を epistulas 書いた。それらは公同 catholicae(書簡)と呼ばれている。彼は祝福されたペトルスの指示に則り ex praecepto、教会の司牧職を pontificatum 舵取りすべく授かった。ちょうど sicut 彼(ペトルス)に主イエス・キリストからカテドラが託されていた、それどころか uel 委ねられていたごとく。さらに tamen ヤコブに対して書かれた書簡の中で in epistula、等しく qualiter 彼に祝福されたペトルスによって教会が委ねられたことをあなたはみつけ出すであろう。それゆえに ideo そのために propterea リヌスとクレトゥスが彼(クレメンス)以前に登録されており、こうして eo 使徒たちの筆頭者である彼自身から、交付さるべき聖職的な職務へと ad ministerium sacerdotale、司教たちは叙階されているのである。

 4. 彼は十二月に二回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭一〇名、助祭二名、様々な場所のため司教十五名(の叙階)を執り行った fecit。彼は殉教者としてトラヤヌスの(執政官職)三回目に逝去した(後一〇〇年)。かくして etiam 彼はギリシア人たち(の地)に十一月二四日に埋葬された。そして司教職は二十一日間空座だった。

第五章 アナクレトゥス ANACLETVS 【第三章と同一】

 1. アナクレトゥスは、生まれはギリシア人、アテナエ(出身)で、父はアンティオクス、(司教座に)九年二か月一〇日着座した。それはかくしてautem ドミティアヌスの諸時代に(八一?九六年)、ドミティアヌス第一〇回目とサビヌスの執政官職(八四年)から、ドミティアヌス第十七回とクレメンスの執政官職(九五年)に至るまでのことだった。

2. 彼は、祝福されたペトルスの記念碑を memoriam[サン・ピエトロ大聖堂地下から出土したカンポPの祠のことか]建設した、そして、彼は祝福されたペトルスによって司祭にされていた間に dum、あるいは seu 司教たちが安置されるべき他の諸々の埋葬場所を配置した conposuit。そこにさらにとはいえ ubi tamen et、彼自身も埋葬された、祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、七月十三日に。

3. 彼は十二月に二回の叙階式で、五名の司祭、三人の助祭、様々な場所のため六名の司教(の叙階)を執り行った。そして司教職は十三日間空座だった。

第六章 エウァリストゥス EVARISTVS 【c.100年

 1. エバリストゥスは生まれはギリシア人で、父はユダヤ名でユダス、ベツレヘム市出身で de ciuitate Bethleem、(司教座に)九年十か月二日着座した。それはまた autem ドミティアヌスとネルウァ・トラヤヌスの諸時代(八一?一一七年)、ウァレンスとウェトゥスの執政官職(九六年)からガルスとブラドゥアに(一〇八年)至るまでずっとusque ad だった。彼は殉教により花冠を受ける。

 2. 彼は、首都ローマ内の諸々の名義教会を titulos 司祭たちに割り当て、そして七名の助祭たちを叙階した、彼らが真理の鉄筆のために propter stilum ueritatis 説教する praedicantem 司教に近侍するためだった[司教の説教を速記するためだったのだろうか;それに以下に示される叙階助祭と数が異なっていることにも注目]。

 3. 彼は十二月に三回の叙階式で、十七名の司祭、二人の助祭、様々な場所のため十五名の司教たち(の叙階)を執り行った fecit。彼はかくして etiam 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)内へと in Vaticanum、一〇月二七日に埋葬された。そして司教職は十九日間空座だった。

第七章 アレクサンデル一世  ALEXANDER I 【c.110年】

 1.アレクサンデルは生まれはローマ人で、父はアレクサンデル、カプト・タウリ街区の出だったが de regione Caput tauri[教皇レオ八世作成の文書に、「雄牛の頭地区(ティブルティーナ門)」が明記されている]、(司教座に)一〇年七か月二日着座した。それはまた autem トラヤヌスの諸時代から(九八?一一七年)へリアヌスHelianoとウェトゥスVetere(の執政官職の時:一一六年)に至るまでだった。

 2.彼は主の受難を、諸ミサが行われる際の聖職者たちの sacerdotum 説教 praedicationeの中に、組み入れた。彼は殉教により花冠を受け、そして彼と共に司祭エウェンティウス Euentius と助祭テオドルス Theoldolus も(殉教した)。彼は、人々の諸住居内で(祝別する場合は)水を撒き塩で浄められるべきである、と定めた constituit。

 3.彼は十二月に三回の叙階式で、六名の司祭、二名の助祭、様々な場所のため五人の司教たち(の叙階)を執り行った。彼はかくして etiam ヌ[ノ]メンタナ街道 uia Numentana に埋葬された。彼はそこで首をはねられた decollatus est、首都ローマからさほど遠くない第七里程標で、五月三日のことだった。そして司教職は三十五日間空座だった。

第八章 クシュストゥス一世  XYSTVS  I 【c.120年】

 1.クシュストゥスは、生まれはローマ人で、父はパストル、ラタ通り街区[上図のVII]出身で de regione Via Lata、一〇年二か月一日着座した。それはまた autem ハドリアヌスの諸時代(一一七?一三八年)、ウェルスとアンニクルス(の執政官職:一二六年)に至るまでずっとのことだった。彼は殉教により花冠を受ける。

 2.彼は、以下を定めた constituit。諸々の聖具 ministeria sacrata は奉仕者たち ministeris 以外によって触れられてはならない、と。彼は以下を定めた constituit。使徒座へと召喚された司教たちは誰でも、自らの司教区へと parrociam 帰ることは、フォルマータ forumata なる市民宛ての plebi 挨拶の salutationis 使徒座の書状を litteras 携えずには、受け入れがたい non susciperetur、と。

 3.彼は十二月に三回の叙階式で、司祭十一名、助祭四名、様々な場所のため司教四名を執り行った。彼はかくして etiam 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)内へと in Vaticanum、四月三日に埋葬された。そして司教職は二ヶ月間空座だった。

 4.彼は以下を定めた constituit。(ミサの)司式中に intra actionem、それを始めている聖職者は sacerdus、会衆に polulo (以下の)聖歌を唱和させるように、と。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の神なる主」Sanctus, sanctus, sanctus, Dominus Deus Sabalot[序誦中の文言]、そしてなどなど。

第九章 テレスフォルス TELESPHORVS 【c.130年

 1.テレスフォルスは、生まれはギリシア人、隠修士出身で ex anachorita [= ?ναχωρητ??]、(司教座に)十一年三か月二十一日着座した。それはまた autem アントニヌスとマルクスの諸時代のことだった(一三八?一八〇年)。

 2.彼は、以下を定めた constituit:復活祭前の七週間に断食が挙行され、そして主の御降誕では natalem Domini 夜間に noctu ミサ聖祭 missas が挙行されるように、と。というのも nam あらゆる時代において、誰も三時課[午前九時]より前に ante horae tertiae cursum ミサ聖祭を missas 挙行することを企図しなかったのだが、(それは)その時間に我らの主が十字架にお登りになったからで ascendit、そしていけにえの前に ante sacrificium 天使の讃歌 hymnus angelicus[栄光頌(グロリア)のことか]、すなわち hoc est:「天のいと高きところに神に光栄あれ」Gloria in excelsis Deo が奉献された diceretur。彼は殉教により花冠を受けた。

 3.彼は、たしかに uero 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)内へと in Vaticanum 一月二日に埋葬された。彼は十二月に四回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭十二名、助祭八名、様々な場所のため司教十三名を(任命した)。そして司教職は七日間空座だった。

第十章 ヒギヌス YGINVS 【c.140年

 1.ヒギヌスは、生まれはギリシア人、アテナエ出の哲学者の出で、彼の系譜は判明していない。(司教座)に四年三か月四日着座した。それはまた autem ウェルスとマルクスの諸時代(一六一?一八〇年)、マグヌス[執政官表ではCanus Iunius Niger]とカメリヌスの執政官職(一三八年)からオルフィトゥスとプリスクス(一四九年)にいたるまでずっとだった[明らかに数字が合わない]。

 2.彼は牧者(階級)を clerum 規定し conposuit、諸々の段階を gradus 割り当てた distribuit。彼は、十二月に三回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭十五名、助祭五名、様々な場所のため司教六名を(任命した)。彼はそのうえetiam 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)内へと in Vaticanum 一月十一日に埋葬された。そして司教職は三日間空座だった。

第十一章 ピウス一世 PIVS I 【c.145年:写本によってはこの章と次の第十二章が入れ替わっているのもある由

 1.  ピウスは、生まれはイタルス(イタリア)人で、父はルフィウス、バルトルの兄弟で、アクイレギア(アクイレイア)市の出身で de ciulitate Aquilegia、(司教座に)十九年四か月三日、着座した。それはまた autem アントニヌス・ピウスの諸時代(一三八?一六一年)、クラルスとセウェルスの執政官職(一四六年)からであった。

 2.彼の司教下で、彼はヘルマスの書を Hermis librum 書いた scripsit、その中で彼はひとつの命令を mandatum 保持しているが、それは、彼に主の天使(s.)が指示した praecepit もので、それは天使が彼の所に羊飼いの服装でやってきて、そして彼に過越しの主日に[復活祭が]祝われるようにと指示した praecepit からである。

 3.彼は(以下を)定めた constituit、ユダヤ人たちの異端からやってきた異端者(s.)が受け入れられ、そして洗礼を授けられるべし、と。そして教会に関する規定を constitum (s.) おこなった fecit[16.2参照]。†[以下の第四節は写本によって挿入あり]

 †4. 彼は、祝福されたプラクセデスの要請により、ひとつの教会をノウァトゥス浴場に奉納した dedicauit、それはパトリキウス街に uico(cf., chap.III.1)あり、彼女の姉妹の聖ポテンティアナの名誉のため、そしてそこに ubi et 彼(彼女?)は多くの寄進を提供した dona obtulit[次に出るのは34.19以降]。彼はそこに ubi より煩瑣に sepius 主に捧げる犠牲を sacrificium[ミサ聖祭のことか]奉仕した ministrabat。そしてそれどころか inmo et 洗礼盤を fontem baptismi 組み立てさせて construi fecit、彼自身の両手で manus suas 祝福しbenedixit そして聖別した consecrauit。そして信仰のためにやって来た多くの人々を、三位一体の名において授洗した。

 5. 彼は十二月に三回の叙階式で、十九名の司祭、二十一名の助祭、様々な場所のため数にして numero 十二名の司教たち(の叙階を)を執り行った。彼はかくして etiam 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)内へと in Vaticanum 、七月十一日に埋葬された。そして司教職は十四日間空座だった。

第十二章 アニケトゥス ANICETVS【c.160年】

 1.アニキトゥス Anicitus は、生まれはシルス(シリア)人で、父はヨハンネス、フミサ村 uico Humisa[Emesaかもしれない;cf., 第一章第一節]出身で、(司教座に)十一年四か月三日、着座した。それはまた autem セウェルスとマルクスの諸時代(??一八〇年)、ガッリカヌスとウェトゥスの執政官職(一五〇年)からプラエセンスとルフィヌスに至るまでずっとであった(一五三年)。

 2.彼は、聖職者は clerus 髪を手入れしてはいけないと定めた constituit、使徒(s.)の指示に praeceptum 従ってのことだった。彼は十二月に五回の叙階式で、十九名の司祭、四名の助祭、様々な場所のため数にして numero 九名の司教たち(の叙階)を執り行った。彼はかくして etiam 殉教者として逝去し obiit、そしてカリストゥスの Calisti 墓地に cymiterio 四月二十日に埋葬された。そして司教職は十七日間空席だった。

第十三章 ソテル SOTER 【c.170年

 1.ソテルは、生まれはカンパニア人で、父はコンコルディウス、フンディ市出身で ciuitate、(司教座に)九年四か月二十一日、着座した。それはまた autem セウェルス[正しくは、ルキウス・ウェルスか]の諸時代(一六一?一六九年)、ルスティクスとアクイリヌスの執政官職(一六二年)からカテグスとクラルスに至るまで(一七〇年)ずっとであった。

 2.彼は、いかなる修道士も monachus 聖なる教会内で聖別された布に触れたり、香を焚いたりしてはならない、と定めた constituit。

 3.彼は十二月に三回の叙階式で、十八名の子細、九名の助祭、様々な場所のため数にして numero 十一名の司教たち(の叙階)を執り行った。彼はかくして etiam アッピウス街道にあるカリストゥスの墓地に、四月二十二日に埋葬された。そして司教職は二十一日間空座だった。

第十四章 エレウテリウス ELEVTHERIVS 【c.180年

 1.エレウテルは、生まれはギリシア人で、父はハブンディウス、ニコポリスの町出身で de oppido、(司教座に)十五年三か月二日着座した。彼はまた autem アントニヌス(=マルクス)とコンモドゥスの諸時代(一六一?一九二年)、パテルヌスとブラドゥスの執政官職(一八五年)に至るまでずっとだった。

ニコポリスは幾つもあるが、ギリシアの、となるとここだろう

 2.彼は、ブリタニア人の王 Britanio rege ルキウスから一通の書簡で epistula 、(それはルキウスが)彼(エレウテル)の命令によって mandatum キリスト教徒とされるように(という内容を)受け取った。そして彼は以下を再度 iterum 確認した firmauit、いかなる食物もキリスト教徒たちによって、特に maxime 信心深い者たちによって fidelibus 退けられるべきではない、なぜなら神が創造したものであるから、それはさらに tamen 理にかなっており rationalis、そして人間のためのもの humana だからである、と。

 3.彼は十二月に三回の叙階式で、司祭十二名、助祭八名、様々な場所のための数にして十五名の司教たち(の叙階)を執り行った。彼はかくして etiam 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)内に in Vaticano、五月二十四日に埋葬された。そして司教職は十五日間空座だった。

第十五章 ウィクトル一世 VICTOR I 【c.195年

 1. ウィクトルは生まれはアフリカ人で、父はフェリクス、(司教座に)一〇年二か月一〇日間(着座した)。それはまた auem カエサル(=コンモドゥス)の諸時代(一八〇?一九二年)、コンモディウスの二回目そしてグラウィオの執政官職(一八六年)からラテラヌスとルフィヌスに至るまで(一九七年)ずっとだった。

 2. 彼は、聖復活祭が主日に祝われるように定めた constituit:エレウテルと同様に sicut。彼は[ローマ教会で彼に]捧持する者たちを sequentes 牧者たちに cleros した。彼は殉教により花冠を受けた。そして彼は(以下を)定めた constituit、必要とあらば、(洗礼用の水が)どこで ubiubi 見つけられようとも、あるいは siue 川において、あるいは海において、あるいは諸々の泉において、さらに tantum キリスト教への信仰箇条の告白を confessione credulitatis(=XVIII.3)明らかにすることにより、洗礼を受けたいと異教からやって来る者には誰でも quicumque(洗礼を授けていい)、と。

 4a. 彼は十二月に二回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭四名、助祭七名、様々の場所のための司教十二名の(叙階を)執り行った。

 3. 彼は、復活祭の周期についての聖職者たちの sacerdotum 問いに対し、[復活祭の主日であると]規定をおこなった fecit constitutum[11.3参照]。それは、司祭たち presbiteris そして司教たちとともに討議が行われ、そしてアレクサンドリア司教テオフィルスが召喚され、集会が行われた時のことだったが、その月の最初の月齢十四日から二十一日までの間の主日を、聖復活祭が遵守されるというものだった。

 4b. 彼は祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)の中に七月二十八日に埋葬された。そして司教職は十二日間空座だった。

第十六章 ゼフィリヌス ZEPHYRINVS【198/199-217年

 1. ゼフィリヌスは、生まれはローマ人で、父はハブンディウス、(司教座に)八年七か月十日間(着座した)。それはまた autem アントニヌス(=コンモドゥス)とセウェルス(=カラカッラ)の諸時代(一八〇?二一七年)、サトゥリヌスとガリカヌスの執政官職(後一九八年)からプラエセンテスとストリカトゥスの執政官職(二一七年)に至るまでずっとだった。

 2. 彼は、すべての牧者たち clericus そして信心深い平信徒たちのいる前で、牧者も siue clericus、祭司も siue leuita、聖職者も siue sacerdos 叙任されるよう定めた constituit。そして彼は教会に関する規定をおこなった fecit constitutum ecclesia[11.3参照]、そして諸々のガラス製の[聖餅を入れる]平皿 patenas[33.3参照]を聖職者たちの前で ante sacerdotes 教会内で従者たちが ministros が運び、司教が諸々のミサを挙行している間に、彼の前で聖職者が sacerdos 補佐し adstantes、このようにして諸々のミサが挙行されるべきである、と;司教の権限が jus ただ tantum 関与する場合を除外して、牧者階級が clerus すべてを統轄すべく支えている;司教の手から、かの(平皿)聖別 consecratio によりすでに iam 聖別された輪を consecratam coronam[聖餅=ホスティアのこと] 司祭は presbiter 受け取り、会衆に polulo 渡すのである。

 3. 彼は十二月に四回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭十四名、助祭七名、様々な場所のために数にして十三名の司教たち(の叙階)を執り行った。彼はかくして etiam、彼の墓地に cymiterio 埋葬された。[それは]アッピウス街道のカリストゥスの墓地の傍らで iuxta cymiuterium、八月二十五日のことだった。そして司教職は六日間空座だった。

第十七章 カリストゥス一世 CALISTUS  I 【217-222/10/14】

 1. カリストゥスは、生まれはローマ人で、父はドミティウス、ウルブス・ラウェンナンティウム街区の出身で de regione Urberauennantium[第十四街区のトラステウェレ内で、ラウェンナからの移住者居住にちなんだ地区か]、(司教座に)六年二か月十日間着座した。それはまた autem マクリヌスとテオドリオボッルス Theodoliobolli (=ヒエロガバルス)の諸時代(二一七?二二二年)、アントニヌス(=ヒエロガバルス)とアレクサンデル(・セウェルス)の執政官職(二二二年)からであった。彼は殉教により花冠を受ける。

 2. 彼は断食を ieiunium 安息日(=日曜日のことか)に die sabbati 年三回することを定めた constituit、それは穀物、ワイン、そしてオイル(断ちのこと)で、予言に従ってのことだった。彼はバシリカをティウェレ川の向こう側に建設した[この聖堂はサンタ・マリア・イン・トラステウェレと思われる]。

 3. 彼は十二月に五回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭十六名、助祭四名、様々な場所のため司教たち数にして八名の(叙階を)執り行った。

 4. 彼はかくして etiam アウレリウス街道の第三里程標にあるカレポディウスの墓地の中に in cymiterio Calepodi 十月十四日に埋葬された。彼は別の墓地をアッピウス街道に建設した、そこには多くの聖職者たち sacerdotes と殉教者たちが永眠している。そこは qui 今日に至るまで usque in hodiernum カリストゥスの墓地と呼ばれている。そして司教職は十六日間空座だった。

47がカレポディウス、31がプラエテクスタトゥス、32がカリストゥスの墓地

第十八章 ウルバヌス一世 VRBANVS  I 【222-230/5/19】

 1. ウルバヌスは、生まれはローマ人で、父はポンティアヌス、(司教座に)四年一〇か月十二日間着座した。

 2. 彼はすべての諸々の聖具 ministeria sacrata(=VIII.2)を銀となし、銀皿二十五皿を用意した。

 3. 彼はかくして etiam 明確に(信仰)告白者 confessor で、(彼は)ディオクリティアヌスの Dioclitiani 諸時代だった[ディオクレティアヌスの迫害期の告白者ウルバヌスとの混同による時代錯誤表記]。彼は彼の(教えの)授受によって sua traditione 多くの人々を改宗させた conuertit、洗礼と信仰箇条へと(導き)ad baptismum et credulitatem(= XV.2)、かくしてそして etiam et 最も高貴な男性ウァレリアヌス、聖カエキリアの婚約者をも(洗礼に導いた)。彼らを彼はかくして etiam 殉教の棕櫚へと palmam 至るまでずっと導いた;そして彼の諸々の戒めによって per eius monita 多くの者たちが殉教により花冠を受けた。

 4. 彼は五回の叙階式を十二月に、(ローマ教会の)司祭十九名、助祭七名、様々な場所のための司教たち数にして八名(の叙階)を執り行った。彼はかくして etiam アッピウス街道にあるプラエテクスタトゥスの墓地[XVII.4参照]に埋葬された、彼を祝福されたティブルティウスが五月十九日に埋葬した。そして司教職は三十日間空座だった。

第十九章 ポンティアヌス PONTIANVS 【230-2359/28】

 1. ポンティアヌスは、生まれはローマ人で、父はカルプルニウス、(司教座に)九年五か月二日間着座した。彼は殉教により花冠を受けた。それはまた auem アレクサンデル(・セウェルス:在位二二二?二三五年)の諸時代で、ポンペイアヌスとペリニアヌスの執政官職からであった(二三一年)。

 2. 同じときに、司教ポンティアヌスと司祭ヒッポリュトゥスは、追放により exilio 流刑に処され sunt deportati 、アレクサンデルによってサルディニア内のブキナ島に、セウェルスとクインティアヌスの執政官職時のことだった(二三五年)。同じ島の中で、痛めつけられた彼は adflictus、棍棒(pl.)で衰弱させられ maceratus、一〇月三〇日に亡くなった。そして彼の地位にアンテロスが十一月二十一日に叙階された。

 3. 彼は十二月に二回の叙階式で、六名の司祭、五名の助祭、様々な場所のため数にして六名の司教たち(の叙階)を執り行った。彼を祝福されたファビアヌスは一人の牧者と共に cum clero 船で運び、アッピウス街道のカリストゥスの墓地の中に埋葬した。そして司教職は十日間空座だった。

左、カリストゥスのカタコンベ:L1が教皇が葬られたいわゆる「諸教皇のクリプト」で、右がたぶん発掘直後の様子

第二十章 アンテロス ANTEROS 【235/11/22-236/1/3】

 1. アンテロスは生まれはギリシア人で、父はロムルス、(司教座に)十二年一か月十二日着座した。彼は殉教により花冠を受ける、(それは)マクシミヌスとアフリカヌスの執政官職の諸時代(二三六年)のことだった。

 2. 彼は殉教者たちの諸事績を入念に diligenter 書記たちから a notariis(= IV.2)探し求めた、そして教会内で、殉教により花冠を受けたとある quodam マクシミヌスなる司祭(の墓の)の傍に保管する。

 3. 彼は一人の司教をカンパニアの都市 ciuitateフンディの中で十二月に(叙階)した。彼はかくして etiam アッピウス街道にあるカリストゥスの墓地の中に一月三日に埋葬された。そして彼は司教職を episcopatum 十三日間空座にした。

左、「諸教皇のクリプト」出土のポンティアヌスの墓碑;右、アンテロスの墓碑:両方ともギリシャ語表記であることに注目

第二十一章 ファビアヌス FABIANVS【236/1/10-250/1/20】

 1. ファビアヌスは生まれはローマ人で、父はファビウス、(司教座に)十四年十一か月十一日着座し、殉教により花冠を受ける。それはかくしてマクシムスとアフリカヌス(が執政官職:二三六年)で、デキウス二回目そしてクアドラトゥス(が執政官職:二五〇年)に至るまでずっとの諸時代で、そして一月一九日に受難した。

 2. 彼は、(帝都ローマ内の)諸地区を助祭たちに割り当て、そして副助祭七名に与えた、(それは)彼らが七名の書記たちに、彼らが殉教者たちの諸事績をもれなく忠実まとめるよう、心をくだくようにとしたことだった。そして多くの作業場を諸々の墓地のために per cymiteria 造るように指示した praecepit。

 3. そして、彼の殉教のあと、司祭モイセスとマクシムス、そして助祭ニコストラトゥスが捕らえられ conprehensi sunt、そして彼らは牢獄へと送られた missi sunt。

 4. 同時代に、ノウァトゥスがアフリカから到着し、そして教会からノウァティアヌスとある告白者たちを引き離した、それはモイセスが牢獄内で死に果てた後のことで、彼(モイセス)はそこに ibi 十一か月いた。そしてこうして sic 多くのキリスト教徒たちが逃亡した。

 5. 彼は十二月に五回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭二十二名、助祭七名、司教たちを様々な場所のため十一名、(叙階式を)執り行った。彼がかくして etiam アッピウス街道にあるカリストゥスの墓地の中に一月一九日に埋葬された。そして司教職は七日間空座だった。

第二十二章 コルネリウス CORNELIVS【251-253年】

 1. コルネリウスは生まれはローマ人で、父はカスティヌス、(司教座に)二年二か月三日間着座した。彼は殉教により花冠を受ける。

 2. 彼の司教職下で、ノウァトゥスはノウァティアヌスを教会(の了解)抜きで叙階した。そしてアフリカでニコストラトゥスを(叙階した)。このことが起こって、告白者たちが、彼らはモイセスと共にいた司祭マクシムスと共に自らコルネリウスから分離していたのであるが、教会へと復帰し、そして彼らは信心深い告白者たちとなった。

 3. この後、司教コルネリウスは、ケントゥムチェッラエ(現在のCivitavecchia)に追い出された pulsus est。そしてそこで ibidem 彼の激励のために書かれ送られた一通の書簡を epistulam キプリアヌスから受け取った。それをキプリアヌスは牢獄の中で書いた。そして読師 lecture ケレリヌスによって(もたらされたのである)。

 4. 彼は、彼の諸時代において、ある既婚婦人ルチナによって懇請され、祝福された使徒たちペトルスとパウルスの遺骸を夜間にカタコンベから持ち去った。最初に primum まさに quidem 祝福されたパウルスの遺骸が受け取られ、祝福されたルチナは(それを)オスティエンセ街道にある彼女の地所に praedio suo 供えた posuit。それは(パウルスが)首をはねられた decollatus est そこの場所の傍らで iuxta locum ubi。祝福されたペトルスの遺骸を祝福された司教コルネリウスは受け取り、そして(ペトルスが)磔にされた場所の傍らに供えた。彼(コルネリウス)は、聖なる司教たちの遺骸の間に、ネロの宮殿のアポロ神殿内、ウァティカヌス(丘)の中のアウレウスの丘の中に(埋葬された)[以下参照、第一章6]、六月二十九日のことだった。

Tempio di Apolline=M、Monte Vaticao=R、Monte Auro=S(中央下の山裾部分)、Neroの宮殿は意味不明(おそらく競技場のことか)
参照:ピエトロ・ザンデル『バチカン サン・ピエトロ大聖堂下のネクロポリス』上智大学出版、2011年、pp.6-7.

 5. この後、(コルネリウスは)夜間にケントゥムケラエへ歩いて行った ambulavit。同じ時に、デキウスは聞いた、彼(コルネリウス)について、カルタゴ司教の祝福されたキプリアヌスから一通の書簡を epistolam 受け取っていたことを。(デキウス)はケントゥムケラエに(使者を)送り、そして祝福された司教コルネリウスを(ローマへ)連行した exhibuit。彼がさらに tamen 自分(デキウス)の面前に来るように、と命じた。テッルスで Tellure、夜間にパッラディス Palladis の神殿前で、と。彼へと(デキウスは)たいそう近づいて言う。「神々も、父祖たちの命令も顧みず、我らの脅しも怖れることなく、国家に敵対して書状を litteras 受け取り、そして(そのように)導いたのはお前か」。司教コルネリウスは答えて、言う「私は主の花冠に関して書状を litteras 受け取りましたが、国家に対してではなく、むしろ magis 諸々の魂の贖いへと(導いた)のです」。

 6. そのとき tunc、デキウスは怒りで満たされ、祝福されたコルネリウスの口を諸々の鉛玉のついた鞭で打つように命じ、そして彼をマルス神殿へと引っ立てて caedi、そして(彼が)礼拝するように指示した praecipit。だが、もしそのようにしなかったなら、斬首するぞ capite truncari と言って。このことはまた autem 行われた。彼はかくして etiam 上述の場所で首をはねられ decollatus、そして殉教が成し遂げられた。彼の遺骸を夜間に祝福されたルチナが集め、そしてカリストゥスの墓地の傍らの地下礼拝堂に crypta 埋葬した、(その礼拝堂は)アッピウス街道の彼女の地所に in praedio suo あった。九月十四日のことだった。そして司教職は六十六日間空座だった。

第二十三章 ルキウス一世 LVCIVS I 【253/6/26-254/3/5】

 1. ルキウスは、生まれはローマ人で、父はプルフリウスで、(司教座に)三年三か月三日間(着座した)。彼は殉教により花冠を受ける。それはまた autem ガッルス(執政官職第二回目)とウォルシアヌス(が執政官職の年:二五二年)の諸時代から、ウァレリアヌス(執政官職)第三回目とガッリカヌス(Gellienusの誤記:二五五年)に至るまでずっとusque ad であった。

 2. 彼は追放された in exilio fuit;その後 postea 神のご意向によって nutu Dei、無傷で incolumis 教会へと帰還した reuersus est。

 3. 彼は、司祭二人と助祭三人はいかなる場所であっても司教を見放してはならない、と指示した praecepit、それは聖教会の証言のためだった propter testimonium ecclesiasticum。彼はかくして etiam ウァレリアヌスによって三月五日に斬首された capite truncatus est。

 4. 彼は(ローマの)凡ての教会への omni ecclesiae 権能を彼の助祭長 archidiacono ステファヌスに与えた dedit、彼(ルキウス)が受難へと進んでいる間に。

 5. 彼は十二月に二回の叙階式で、四名の司祭、四名の助祭、様々な場所のため数にして七名の司教たち(の叙階)を執り行った。彼はかくして etiam アッピウス街道のカリストゥスの墓地に八月二十五日に埋葬された。そして司教職は三十五日間空座だった。

第二十四章 ステファヌス一世 STEPHANVS I【254-257/8/2】

 1. ステファヌスは、生まれはローマ人で、父はヨビウス、(司教座に)七年五か月二日間(着座した)。それはまた autem ウァレリアヌスとガッリカヌスとマクシムスの諸時代から[二五四年と、二五三ないし二五六年]ウァレリアヌス(執政官職)第三回目とガッリカヌス(執政官職)第二回目[二五五年:この章での年代表記は混乱している]に至るまでずっとであった。

 †2. その諸時代に、彼は追放されたが exilio est deportatus、その後 postea 神のご意向によって、教会へと無傷で incolomis 帰還した。そして三十四日目後に、彼はマクシミアヌスによって捕らえられ tentus、牢獄へと送られたのだが missus est、それは九名の司祭たち、二名の司教、ホノリウスとカストゥス[この両名はなぜか対格表示]、そして三名の助祭クシュストゥス、デイオニシウス、ガイウスを[ここでも対格表示]伴ってのことだった。ちょうどその時 ibidem 彼は牢獄の中で、(そこは)ステラ門 ad arcum Setllae そばだったが、(そこで)会議を synodo おこない、そして教会のすべての用具について uasa 彼の助祭長クシュストゥスに、権限を与えたばかりか uel dedit、金庫についても arcam pecuniae そうしたのだった。そしてその四日後に、彼自身は監視下で sub custodia 軟禁状態から sig 出ていって exiens、斬首された capite truncatus est[cf., XXII.6 ; XXIII.3]。

冒頭の地図2より:ここではステラ門は46に措定されている

 †3. 彼は聖職者たちや祭司たち leuitas [XVI.2参照]が聖別された衣服(pl.)を日常的に使用して教会内以外で用いてはならないと、定めた constituit。

 4. 彼は十二月に二回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭六名、助祭五名、様々な場所のために数にして三名の司教たちの(叙階を)執り行った。彼はかくして etiam アッピウス街道のカリストゥスの墓地に八月二日に埋葬された。そして司教職は二十二日間空座だった。

第二十五章 クシュストゥス二世 XYSTVS II 【257/8/30-258/8/6】

 1. クシュストゥス(シクストゥス二世)は、生まれはギリシア人、哲学者の出で、(司教座に)一年一〇か月二十三日間(着座していた)。彼は殉教により花冠を受ける。それはまた autem ウァレリアヌスとデキウスの諸時代で、この(デキウスの)時代に最大の迫害があった。[ここでは奇妙なことに、在位二五三-二六〇年のウァレリアヌスと在位二四九-二五一年のデキウス(21.1に初出)を逆転して記述している]

 2. 同時に、彼はウァレリアヌスによって捕らえられ tentus、そして諸悪霊へ犠牲を捧げるべく連れて行かれた ductus。彼はウァレリアヌスの諸指示を praecepta 無視した;彼は斬首され capite truncatus est、そして彼とともに他に六名の助祭たち、フェリキッシムスとアガピウス、ヤヌアリウス、マグヌス、ウィンチェンティウス、そしてステファヌスが八月六日に(斬首された)。そして司祭たちは、マクシムスとグラウィオの第二回目(の執政官職:二五六年だとすると、執政官職第二回目はマクシムスのほう)から、トゥスクスとバッスス(二五八年)に至るまで、トゥスクスとバッススの執政官職から七月二十日に至るまでずっと、(教会を)管理した。この時代に最も厳しい迫害がデキウス下で苦しめた[記述が再度デキウス時代にさかのぼっていて、不可解]。

 3. そして祝福されたクシュストゥスの受難の後、一〇日後に、彼の助祭長、祝福されたラウレンティウスが八月一〇日に、そして副助祭クラウディウス、そして司祭セウェルス、そして読師 lector クレシェンティウス、そして門番ロマヌスが(受難した)。

 4. 彼は十二月に二回の叙階式で、司祭たち四名、助祭たち二名、様々な場所のために司教二名(の叙階式)を執り行った。彼はたしかに uero アッピウス街道のカリストゥスの墓地に埋葬された。上記の六名の助祭たちはアッピウス街道のプラエテクタトゥスの墓地[XVII.4掲載の地図参照]に埋葬された。また autem 上記の祝福されたラウレンティウスはウェラヌムの農地内 in agrum Veranum のキュリアケスの墓地内に[上記地図参照:以下はその部分図]、他の殉教者たちとともに地下礼拝堂に crypta[埋葬された]。そして司教職は三十五日間空座だった。

第二十六章 ディオニシウス DIONYSIVS 【260/7/22-267/12/26】

 1.ディオニシウスは修道士出身で、彼の系譜を我々は見つけていない。彼は(司教座に)六年二か月四日着座した。それはまた autem ガッリエヌスの諸時代、七月二十二日のエミリアヌスとバッススの執政官職(二五九年)から、クラウディウスとパテルニウスが執政官職の十二月二十六日までずっとだった。

 2. 彼は司祭たちに諸教会を ecclesias 与え dedit、そして教区の諸々の墓地 cymiteria と諸々の小教区を parrocias 定めた constituit[各小教区所属墓地を確定したということだろう]。

 3. 彼は、十二月に二回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭十二名、助祭六名、様々な地のために数にして八名の司教たち(の叙階)を執り行った。彼はかくして etiam アッピウス街道のカリストゥスの墓地内に十二月二十七日に埋葬された。そして司教職は五日間空座だった。

第二十七章 フェリクス一世 FELIX I 【268/1/5-273/12/30】

 1. フェリクスは生まれはローマ人で、父はコンスタンティウスで、(司教座に)四年三か月二十五日着座した。彼は殉教により花冠を受ける。それはまた autem クラウディウスとアウレリアヌスの諸時代、つまりクラウディウスとパテルニウスの執政官職(二六九年)からアウレリアヌスとカピトゥリヌスの執政官職(二七四年)までずっとだった。

 2. 彼は、先に supra 殉教者たちの諸記念ミサを memorias martyrum missas 挙行することを定めた constituit。彼は、十二月に二回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭九名、助祭五名、様々な地のために数にして五名の司教たち(の叙階)を執り行った。

 3. 彼はアウレリウス街道に in uia Aurelia ひとつのバシリカを basilicam 造り、そしてそこに五月三十日に埋葬された。それは首都ローマから二里程標(の所)にあった。そして司教座は五日間空座であった。

第二十八章 エウティキアヌス EVTYCHIANVS 【274/1/4-283/12/7】

 1. エウティキアヌスは生まれはトゥスキアで、父はマリヌスで、(司教座に)一年一か月一日着座した。それはまたアウレリアヌスの諸時代、アウレリアヌス三回目とマルケリヌスの執政官職(二七五年)からカルス二回目とカリヌスが執政官職(二八三年)の十二月十三日までずっとだった。彼は、祭壇上で super altare 祝福される benedici 諸生産物は fruges(pl.) 豆とブドウに限る tantum fabae et uuae、と定めた constituit。

 2. 彼は彼の諸時代に様々な地の三四二人の殉教者たちを彼手ずから埋葬した。そして彼は以下を定めた constituit、信者たちのうちだれでも(s.) quicumque de fidelium 殉教者を埋葬したとき、(華やかな)ダルマティカ dalmaticam(助祭用の祭服:下図左)や、紫で染めたコロビウムを colobium(希:κολ?βιον = kolobion = short-sleeved tunic:下図右) 着せることなしに、理由なく埋葬していたら、そのことをさらに tamen 情報として彼(エウティキアヌス)に告知されるべきである、と。

 3. 彼は、十二月に五回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭十四名、助祭五名、様々な地のために数にして九名の司教たち(の叙階)を執り行った。そして彼は殉教により花冠を受ける。彼はかくして etiam アッピウス街道のカリストゥスの墓地の中に七月二十五日に埋葬された。そして司教職は八日間空座だった。

第二十九章 ガイウス GAIVS 【282/12/17-295/4/22】

 1. ガイウス、生まれはダルマティア人で、(そこは)皇帝ディオクレティアヌスの一族の出であるが、父はガイウス、(司教座に)十一年四か月十二日間(着座した)。それはまた fuit autem、カリヌスの諸時代、十二月十七日、カルスの第二回(執政官職)とカリヌス(二八三年)から、四月二十二日のディオクレティアヌス第四回(執政官職)とコンスタンティウス第二回目(二九六年)に至るまでずっとであった。

 2. 彼は教会内のあらゆる諸位階を ordines 以下のように上昇していくよう定めた constituit :司教を受けるに値する者は誰でも、門番 ostiarius、読師 lector、祓魔師 exorcista、侍祭 sequens、副助祭 subdiaconus、助祭 diaconus、司祭 presbiter となって、そして続いて exinde 司教が叙階されるべきである、と。

 3. 彼は諸街区を regiones 助祭たちに分担させる。彼はディオクレティアヌスの迫害を逃れるため、諸々の地下礼拝堂内に in criptis 居住し、八年後に殉教により花冠を受ける。

 4. 彼は十二月に四回の叙階式で、(ローマ教会の)二十五名の司祭、八名の助祭、様々な場所のために五名の司教たち(の叙階)を執り行った。[彼は十一年後に、彼の兄弟ガビニウスと共に、司祭ガビウスのスザンナという名前の娘のために、殉教により花冠を受ける。]彼はたしかに uero、アッピウス街道のカリストゥスの墓地内に四月二十二日に埋葬された。そして司教職は十一日間空座だった。

第三十章 マルケリッヌス MARCELLINVS 【295/6/30-303秋】

 1. マルケリッヌスは、生まれはローマ人で、父はプロイェクトゥス、(司教座に)九年四か月十六日間(着座した)。それはまた fuit autem、ディオクレティアヌスとマクシミアヌスの諸時代、六月一日のディオクレティアヌスの執政官職第六回目とコンスタンティウス第二回目(二九六年)から、ディオクレティアヌスの第九回目とマクシミアヌスの第八回目(三〇四年)に至るまでずっとであった。

 2. その時代には以下のごとき大迫害が persecutio magna あった。三十日間で一万七千名の男女が promiscui sexus 様々な属州においてキリスト教徒たちとして、殉教により花冠を受けた。このことによって、そしてマルケリッヌス自身が、香を捧げるべく犠牲へと導かれ ductus est、それをやってしまった。

 3. そして数日後に、改悛へと導かれ paenitentiam ductus、同じくディオクレティアヌスによってキリスト教信仰のために、クラウディウス、キュリヌス、アントニヌスと共に首を切り落とされ capite sunt truncati、そして彼らは殉教の花冠を受ける。

 4. そしてそれが行われた後、聖なる諸遺体は路上に in platen キリスト教徒たちへの見せしめに exemplum 二十五日間、ディオクレティアヌスの布告により iussu、放置された iacuerunt。そして続いて exinde 司祭マルケッルスは、夜間に諸遺体を司祭たちや助祭たちと共に、諸々の賛美歌と共に集め、そしてサラリア街道にあるプリスキッラの墓地[冒頭地図1参照]の中に、今日もなお hodiedum ずっと公開されているクビクルムの中に in cubiculum 埋葬した。(それは彼が)殺害へと連れて行かれていた traheretur 間に、改悛した彼自身が(そうするようにと)命じたとおりに、聖クリスセンティオの遺体のすぐ近くの地下礼拝堂内に in crypta (司祭マルケッルスが埋葬した)、四月二十五日のことだった。彼は十二月に二回の叙階式で、(ローマ教会の)四名の司祭、二名の助祭、様々な場所のために五名の司教たち(の叙階)を執り行った。その同じ日から、司教職は七年六か月二十五日間空座だった。ディオクレティアヌスがキリスト教徒たちを迫害したからである。

第三十一章 マルケッルス MARCELLVS  【305/306,追放306-307】

 1. マルケッルスは生まれはローマ人で、父はベネディクトゥス、ラタ通り街区(出身)で regione 、(司教座に)五年七か月二十一日着座した。それはまた fuit autem マクセンティウスの諸時代、マクセンティウス第四回目そしてマクシムスの執政官職から(その)執政官職後までずっとだった usque post consulatum[この表現は意味不明]。

 2. 彼はノヴェッラの墓地をサラリア街道に建設し、そして首都ローマ内に in urbe Roma 二十五の名義教会を定めた constituit。(これらは)管区 dioceses に準じるもので、異教徒たちから改宗させられる多くの人々の洗礼と改悛のために、そして殉教者たちの埋葬のためである propter sepulturas martyrum。彼は、首都ローマの in urbe Roma 司祭二十五名、そして助祭二名を十二月に叙階し、諸々の地のために二十一名の司教たちを叙階した。

 3. 彼は閉じ込められ coartatus、そして捕らえられた tentus、教会を管理した ordinaret という理由で eo、そしてマクセンティウスによって逮捕された conprehensus。それは自身が司教であることを否定し、そして自身を悪霊たちの供犠へと卑しめられるためだった。というのも常にマクセンティウスの言葉や指図を praecepta 軽蔑、嘲笑していたためで、catabulum[駅舎*]行きを言い渡された。彼は多くの日々にわたりカタブルム内で隷属している間にも、諸々の祈祷そして断食によって主に熱心に仕えることが途絶えることはなかった。

  *https://romanchurches.fandom.com/wiki/San_Marcello_al_Corso:カタブルム (紀元前 一 世紀にアウグストゥスの下で建設された) は、ローマが建設し、維持した道路の複合体全体または公用馬車 cursus publicus の世話を目的としたオフィスを含む構造の複合体。 ローマから始まり、さまざまな地域や州につながるすべての道路、すべての馬の交換所、休憩を可能にするすべての農場、それらの道路に沿って建設され設立されたすべての町、この巨大で基本的な側面ローマの生活と政治は、サン・マルチェロ・アル・コルソ教会のほぼ下にあるヴィア・ラタ(今日の私たちにとってはヴィア・デル・コルソ)にある「オフィス」で管理されていた。

サン・マルチェロ・アル・コルソ教会

 4. また autem 九か月目に夜間にすべての彼の牧者が clerus eius omnisやって来て、そして彼をカタブルムから夜間に引っ張り出した eruerunt。ある既婚婦人、ルチナという名の未亡人が、彼女は彼女の夫と共に十五年間おり、そして未亡人状態で十八年過ごしたのであるが、祝福された人を引き受けた。彼女は自身の家を祝福されたマルケッルスの名のもとに、名義教会として奉納した。そこで彼女は昼夜を分かたず諸々の讃歌をそして祈祷によって主イエス・キリストに対して信仰告白していた。

 5. このことを聞いて、マクセンティウスは(人を)送り、そして祝福されたマルケッルスを再逮捕し、そして命じた、同教会の中に、(囲いのための)外壁の板(pl.) そしてそこに ibidem カタブルムの動物たち[たぶん馬やラバ]を集めておき、そしてそれらに対して祝福されたマルケッルスが熱心に仕えるように、と。彼はまた autem 、山羊の毛で作られた衣服を裸でまとって動物たちの世話をしている時に(生命を)全うした[cf.,洗礼者ヨハネは「ラクダの毛衣」を着ていた(マルコ1.6;マタイ3.4)]。彼の遺骸を祝福されたルチナが引き取り、そしてサラリア街道にあるプリスキッラの墓地に一月十六日に埋葬した。

 6. そして司教座は二十日間空座だった。そして一方で vero ルチナは令状により有罪とされた。

第三十二章 エウセビウス EVSEBIVS   【308/4/18-秋追放】

 1. エウセビウスは、生まれはギリシア人で、医者出身、(司教座に)六年一か月三日着座した。それはまた fuit autem コンスタンスの諸時代であった[この時代表記は間違っている]。

 2. 彼の諸時代において、主イエス・キリストの十字架が五月三日に発見され、そして(それを発見した)ユダスは洗礼を受けた。彼はまたキュプリアクス(という名)でもある[別説では、発見者はコンスタンティヌス大帝の母ヘレナ]。彼(エウセビウス)は異端者たちを首都ローマでみつけ inuenit、彼らを手を上に置いて(=按手により)和解させた。

 3. 彼は十二月に一回の叙階式で(ローマ教会の)司祭十三名、助祭三名、様々な地のために十四名の司教たち(の叙階)を執り行った。彼はかくして etiam、アッピウス街道のカリストゥスの墓地に十月二日に埋葬された。そして司教職は七日間空席だった。

第三十三章 ミルティアデス MILTIADES [310/2/2-314/1/10]

 1. ミルティアデスは、生まれはアフェル(アフリカ)人で、(司教座に)四年七か月八日、マクセンティウスの九回目の執政官職の七月七日から、マクシムスの二回目(の執政官職)まで、それはウォルシアヌスとルフィヌスの執政官職の九月まで[C.Caeionius Rufus Volusianusは、執政官職にマクセンティウス帝下で三一一年、そしてコンスタンティヌス大帝下の三一四年に第二回目を拝命している]、ずっと着座した。

 2. 彼は(主の受難の聖週間において)主の日 dominico または木曜に quinta feria、断食を信徒たちのうち誰にとってもなんら行う理由はない、と定めた constituit。なぜならば、それらの日々を異教徒たち[実際には過越祭でのユダヤ教徒と思われる]はあたかも聖なる断食として祝っていたからである。そして(同様に断食の習慣を持っていった)マニ教徒たちが首都でみつけられた inuenti sunt。同日から ab eodemi die、彼は以下を認めた fecit、聖別された諸奉献物 oblationes consecratas、それは諸教会のために per ecclesias(ローマ)司教によって聖別されたものだが、それがあてがわれるべきである dirigerentur、と。これは「種有りパン」 fermentum として周知されている[共同体意識を高めるために、ローマ司教が配下の聖職者=献身者たち用にパンの配布を行った故事を示しているのだろう]。

 3. 彼は十二月に一回の叙階式で(ローマ教会の)司祭七名、助祭五名、様々な地のために数にして十一名の司教たち(の叙階)を執り行った。彼は、アッピウス街道のカリストゥスの墓地に十二月一〇日に埋葬された。そして司教職は十六日間空座だった。

第三十四章 シルウェステル一世 SILVESTER  I【314/1/31-335/12/31】

 1. シルウェステルは生まれはローマ人で、父(の名前)はルフィヌスで、(司教座に)二十三年一〇か月十一日間(着座した)。それはまた autem コンスタンティヌスとウォルシアヌスの諸時代、二月一日から、コンスタンティウスとウォルシアヌスの執政官職[この組み合わせの年は存在しない]の一月一日に至るまでずっとであった。

 2. 彼はセラクテン(シュラプティム)山に流刑となっていたが、そして間もなく et postmodum、彼は戻って、栄誉とともにコンスタンティヌス正帝に洗礼を授けた[これは事実ではない]。彼(コンスタンティヌス)を主が癩病から癒やし、彼(シルウェステル)はかの迫害を、流刑されたことで、始めから primo 逃れえたことが知られている。

 3. 彼(シルウェステル)は首都ローマの中でひとつの教会を ecclesiam とある cuiusdam 司祭の地所の中に in praedium 建てた、その(司祭の)名前はエクイティウスであった。それを彼はローマの名義(教会)と titulum 定めた constituit。それはドミティアヌスの浴場の傍らにあり、今日に至るまでずっと usque in hodiernum diem、エクイティウスの名義(教会)と呼ばれていて*1)、そしてこのとき ubi et 彼は以下の諸寄進を定めた constituit:

銀製パテナ*2) 一皿、重さ二〇リブラ*3)、正帝コンスタンティヌスの寄進による。また autem 彼が寄進した(のは以下のごとし):

銀製スキュフォス*4)、二客、重さ各一〇リブラ;

金製カリックス(カリス)*5)、一客、重さ二リブラ;

奉仕者 ministerriales 用カリックス*6)、五客、重さ各二リブラ;

銀製ハマ(手おけ)*7)、 二つ、重さ各一〇リブラ;

金メッキの auroclusam 銀製パテナ、一皿、塗油用、重さ五リブラ;

王冠型のファルム(シャンデリア)*8)、一〇灯、重さ各八リブラ;

銅製ファルム、二〇灯、重さ各一〇リブラ;

銅製蝋燭用カンターラ(燭台)*9)、十二灯、重さ各三〇リブラ;

ウァレリアヌス農場 fundum、サビーニ地域 territurio*10)、(年間?)収益八〇ソリドゥス;

スタティアヌス農場、サビーニ地域、収益五十五ソリドゥス;

デュア・カーサ農場、サビーニ地域、収益四〇ソリドゥス;

ぺルキリアヌス農場、サビーニ地域、収益二〇ソリドゥス;

コルビアヌス農場、コラヌス地域、収益六〇ソリドゥス;

邸宅 domum 一棟、首都内 in urbe、風呂付き cum balneum、シチニヌス街区内に in Sicinini regione*11)、収益八十五ソリドゥス;

庭園一か所、首都ローマ内部 intra urbem Romam、アド・デュオ・アマンテス街区内に in regione、収益十五ソリドゥス;

邸宅一棟、オルフェウス街区内、首都内、収益八十五ソリドゥスと一トレミッシス*12)。

  *1) 上記名義教会は、現在の San Martino ai Monti で、トラヤヌス浴場公園のすぐ北にあったので、この浴場はトラヤヌスの浴場を意味していた[XXXV.]。

                      ↓ 

  *2) patena:平たく浅い皿で、ここではミサ聖祭で聖体をのせるために用いる聖体皿のこと。ご聖体が触れる内側表面は少なくとも金メッキ加工されている。初代キリスト教はギリシア語圏で発生・成長したので、祭具名にギリシア語起源が多い(ローマ教会においてすら三世紀までギリシア系司教が多く、典礼もギリシア語で行われていた)。以下、分かる範囲での註記である。

  *3) libra:古代ローマ時代の重量単位。1 libra=327.45g

  *4) scyphos:古代ギリシアで取っ手が二つついた深めの本来は酒器だが、ミサ聖祭では水とワインの混酒器というよりは、おそらく司祭が両手を洗うのに使用したのかもしれない。

  *5) calix:ミサ聖祭でワインを入れる金属製の杯。金製以外は金メッキされている。普通は「カリス」と呼称。

  *6) 陪席司祭用の意味か

  *7) (h)ama:ミサ聖祭で大きなカリスにブドウ酒を注ぐとき使用する器具、のようだ。

  *8) farum:

  *9) cantara:

  *10) territorium:首都ローマ城壁外の「領域」を示している?

  *11) regio:首都ローマ城壁内の「街区」名を示している?

  *12) tremissis:三分の一ソリドゥス

 4. 彼は、全教会に関する de omni ecclesia 規定をおこなった fecit constitutum[11.3参照]。かくして etiam 彼の諸時代に、彼の指示で cum eius praeceptum ビティニアのニケアの中で公会議をおこなうことを factum concilium (定め)、そして三一八名の公同的な catholici 司教たちが召集された。彼らは、不謬で、公同的で catholicam、穢れない信仰を説き exposuerunt、そしてアッリウスと、フォティヌスと、サベッリヌスとそれどころかuel 彼らの信奉者たちをも断罪した damnauerunt。

 5. そして、首都ローマの中に彼自身が正帝の助言で consilio 二六七人(の司教たち)を集めた、そして彼は再度 iterum カリストゥスもアッリウスもフォティヌスもサベッリウスも断罪した damnauit。

 6. そして彼は定めた、司祭は悔い改めたアッリアヌス派を受け入れては susciperet ならない、(それができるのは)その地に選任された司教以外にいない、と。そして油の聖別は司教によってなされるべきでconfici、そして司教たちに episcopis 特権は、受洗が異端の説得を suasionem 理由に保証されるべきである[上記の意味は不明である:異端回心者の受け入れは司教に属するという意味か、また堅信礼での塗油なのか]。そして彼は以下を定めた、洗礼を受けていて水から持ち上げられた者に司祭は聖油を塗るべきである、死への移行の場合(臨終の受洗の場合のことか)。彼は定めた、いかなる平信徒も laicus 牧者に clerico 罪を帰してはならない、と。

 7. 彼は定めた、助祭たちはダルマティカを教会内で用いるべきである、そして linostima 製(亜麻と羊毛で織られた)パッレアで pallea 彼らの左(肩)が覆われるべきである、と[後述のXXXV.2 から想起されるように、下図右のような現在の管区大司教用に変化したpallium「肩衣」ではなく、下図左側の古代のパッリウムのことのように思われる]。

 彼は定めた、牧者の誰も nullus clericus、いかなる理由によっても法廷内に in curia 入らないよう、また、肩帯(着装の)裁判官の前で ante iudicem cinctum、教会内以外で nisi in ecclesia 訴訟を争ってはならない、と。彼は定めた、祭壇の犠牲[ミサ聖祭のことか]は絹や染色された布の上で挙行されては celebraretur ならない、ただ tantum 大地が生み出した亜麻はその限りでなく、(それは)いわば sicut 我らの主イエスス・クリストゥスの遺体が清潔な亜麻のモスリンで sindonem (くるまれて)埋葬されたように:このような条件で諸々のミサが挙行されるべきである caelebrarentur、と。

 8. 彼は定めた、もし誰かが教会内での服務またはaut 昇進を望むのであれば、読師 lector 三十年、祓魔師 exorcista 三十日、侍者 acolitus 五年、副助祭 subdiaconus 五年、殉教者たちの番人 custus martyrum(カタコンベ担当のことか)五年、助祭 diaconus 七年、司祭 presbiter 三年を、あらゆるサイドから、そしてかくしてetiam et [これ以降、34.22まで出てこない]外部からも、良き証言を持ち、ひとりの妻の夫で、聖職者からa sacerdote 褒められる妻を持つこと。そしてこうしてsic 位階へと司教は近づかねばならぬ:誰であっても、より主要な、それどころか uel より優れた地位に locum 入り込まないこと、その時々の位階を慎みをもって 経験することなしに、凡ての牧者たちの omnium clericorum 誓願により uotiua gratia、まったくomnino 誰も反対する牧者 clericum なしであること、と。彼は司祭たちと助祭たちの位階(叙階式)を ordines 十二月に六回執り行い、司祭四十二名、助祭二十七名、様々な時に首都ローマで;様々な場所のために司教たちを数にして六十五名(の叙階を)執り行った。

 9. 彼の諸時代にコンスタンティヌス正帝は以下の諸バシリカ basilicas を建て、そしてそれらを装飾した:

コンスタンティヌスのバシリカ basilicam Constantinianam(サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂* のこと)、そこに以下の諸々の寄進を供したposuit dona:

 銀製の打出し加工された argenteum battutilem 破風 fastidium (= fastigium:以下の図参照**)、それは正面に in fronte、高官椅子に sella 座した救世主(の像)を持つ、高さ五ペース、重さ一二○リブラ、そして十二使徒たち(の像)、各五ペースで重さ九〇リブラ、最高純度の銀を用いた冠(型シャンデリア)付き;

 * この教会については以下参照:Ed.by L.Bosman, et al., The Basilica of Saint John Lateran to 1600, British School of Rome Studies, Cambridge UP, 2020, 表紙、p.149, 153, 154, 163, 166, 193. ここでは表紙の復元想像図を掲載しておく。

 ** 下図参照:Dimitri CASCIANELLI, Ancora sul fastigium lateranense: riflessioni alla luce del recente dibattito, Vetera Christianorum, 56, 2019, p.95, 94, Fig.2,1.

 10. 同様に item[なんと初出!]、(fastidiumの)裏側に a tergo、アプス内に面して、玉座に座した救世主(の像)、高さ五ペース、最高純度の銀製で、重さ一四〇リブラ、そして銀製の四天使(の像)、彼らは各高さ五ペース、一〇五リブラ、両目にはアラヴァンダ製の alabandenis 貴石とともに、槍を持つ;

ファスティディウム自体の重さは二〇二五リブラ、銀製艶出し加工 ex argento dolaticio。純金製の丸天井 camara、そして純銀製の farum(一灯)、それは(qui)ファスティディウムの下に五〇頭の純金製のイルカ delfinos、重さ五〇リブラを、重さ二十五リブラの鎖とともに吊り下げている;

純金製の冠(型シャンデリア)四、二〇頭のイルカ付き、各々重さ十五リブラ;

バシリカの basilicae(アプスの)丸天井 camera(=camara)、長さと幅の中で 金箔で trimita(cf., 17 = trimma)、五〇〇リブラ;

純銀製の祭壇七基,重さ各二〇〇リブラ;

金のパテナ七皿、重さ各三〇リブラ;

銀のパテナ十六皿、重さ各三〇リブラ、純金製のスキュフォス七客、重さ各一〇リブラ;

珊瑚の金属製の ex metallo coralli 特別のスキュフォス(一客)、それは、ネギ色とヒヤシンス色の貴石(pl.)で至るところ ex undique gemmis prasinis et yaquintis 装飾され、金で縁取りされ auro interclusum[ここと次節のみに登場]、それは(qui)全部の重さ二〇リブラと十二分の三リブラ;

銀製のスキュフォス二〇客、重さ各十五リブラ;

純金製のハマ(手桶)二つ、重さ各五〇リブラで、容量各三モディウス;

純金の小カリックス四〇客、重さ各一リブラ;

陪席司祭用の ministeriales 小カリックス五〇客、重さ各二リブラ。

 11. 聖堂内部の装飾:

 最高純度の金製の(ひとつの)fanum cantharum、それは祭壇の前にあって、その中で純度の高いナルドの香油が燃焼するのだが、イルカ八〇頭つきで、重さ三〇リブラ;

銀製の(ひとつの)fanum cantharum、それにはイルカ二〇頭つきで、重さ五〇リブラで、そこでは純度の高いナルドの香油が燃焼する;

バシリカ中央部には銀製シャンデリア canthara(pl.)四十五灯、重さ各三〇リブラ、上述の油が燃焼する;

バシリカ右手の部分には、銀製シャンデリア(pl.)四〇灯、重さ各二〇リブラ;

バシリカ左手には、銀製シャンデリア(pl.)二十五灯、重さ各二〇リブラ;

バシリカ中央部の銀製燭台五〇灯、重さ各二〇リブラ;

最高純度の銀製メトレテス μετρητ??[古代ギリシア・ローマ時代のワインやオイル用の大型容器:38.88リットル] 三つ、重さ各三〇〇リブラ、容量一〇メデムヌス medimnus[1 μ?διμνο? = 6 Roman modii ≒ 54リットル];

真鍮製の燭台七灯、諸々の祭壇(pl.)前に、それら[qui]は[幅?、長さ?]一〇ペース(1 pes = 29.6cm)で、預言者たちの小像 sigillis で縁取りされた銀製の装飾付きで、重さは各三〇〇リブラ;

 12. これら照明の維持のため彼は定めた constituit:

大所領 massa* Gargiliana**、スエッサ地域で territurio Suessano、(以下、年間?)収益 plaest. 四〇〇ソリドゥス;

大所領 Bauronica、スエッサ地域で、収益三六〇ソリドゥス;

大所領 Auriana、ラウレントゥム地域で territurio Laurentino、収益五〇〇ソリドゥス;

大所領 Vrbana、アンティウム地域で territurio Antiano、収益二四〇ソリドゥス;

大所領 Sentiliana、アルデアトゥム地域で territurio Ardeatino、収益二四〇ソリドゥス;

大所領 Castis、カティーナ地域で territurio Catenense、収益一〇〇〇ソリドゥス;

大所領 Trapeas、カティーナ地域で、収益一六五〇ソリドゥス;

最高純度の金製香料容器 thymiamateria (Du Cangeによると、thymiamaterium = thuribulum : vas, in quo thymiama sevatus[香料を入れる容器])二器、重さ(各)三〇リブラ;

諸祭壇の御前に ante altaria お香の奉納 donum aromaticum、毎年一五〇リブラ。

  * massae (large estates composed of a series of fundi ) https://www.jstor.org/stable/41933702 p.9 (ANNA LEONE, “Bishops and Territory: The Case of Late Roman and Byzantine North Africa”, Dumbarton Oaks Papers , 2011-2012, Vol. 65/66 (2011-2012), pp. 5-27):農地で構成された「大所領」。

  ** cf., Edward Champlin, Saint Gallicanus (Consul 317), Phoenix, 36-1, 1982, pp.71-76;Anthony Alcock, Liber Pontificalis Silvester 1 (314-335), ?, ?, Pp.27 : オスティアがらみでもあるので、この人物についてはいずれ触れてみたいものだ。

 13. 聖なる泉水を fontem(彼は寄進した)、そこで正帝コンスタンティヌスが受洗したのだが、それは赤紫色斑岩製で lapide porfyretico、そしてすべての部分が覆いかぶされ coopertum、内部も、そして外側も、そして上部も、そして水を張る continet 限りにおいて、最高純度の銀で、重さ三〇〇八リブラ。

https://www.romanoimpero.com/2022/03/sotto-battistero-lateranense.html

 泉水の真ん中には、赤紫色斑岩製の一本の柱があり、それには蝋燭が立てられる金製の(一つの)平皿がfiala (= φι?λη)設置されていて、最高純度の金で、重さ五十二リブラ、そこで ubi 復活祭の日々に二〇〇リブラのバルサム(油)が焚かれる、まさしく uero 純粋な麻屑を用いて nixum uero ex stippa amianti (Du Cangeによると、mixum vero ex stupa amianta:amianthus = ?μ?αντο?) 。洗礼堂の泉水の縁には in labio fontis baptisterii、水を注ぐ金製の(一頭の)小羊、重さ三〇リブラ;

小羊の右側には最高純度の銀製の救世主(の立像)、(高さ)五ペース、重さ一七〇リブラ;

小羊の左側には、銀製の洗礼者聖ヨハネ(の立像)、(高さ)五ペース、(それには)以下の碑銘が刻まれ保有されていた:「見よ、世の罪を取り除く神の子羊を」ECCE AGNUVS DEI, ECCEQV I TOLLIT PECCATGA MVNDI(ヨハネ福音書、1.29)、重さ一二五リブラ;

水を注ぐ七頭の銀製の雄鹿、重さ各八〇リブラ;

最高純度の金製の(一つの)香料容器 tymiamaterium、四十九個のネギ色の貴石付き cum gemmis prasinis、重さ一五リブラ。

 14. 聖なる泉水への寄進:

  神聖侍従長官の praepositi sacri cubiculi フェストゥス Festus の大所領 massa 、それを正帝コンスタンティヌスが寄進した、 ペネストリウム地域で territurio Penestrino、(年間?)収益 praest. 三〇〇ソリドゥス ;

  所領 Gaba、ガビイ地域で territurio Gabinense、収益二〇二ソリドゥス;

  所領 Pictas、前述の地域で、収益二〇五ソリドゥス;

  所領 Statiliana、コーラ地域で territurio Corano、収益三〇〇ソリドゥス;

  所領 intra Sicilia Taurana 、 パラムネニウム地域で territurio Paramnense 、収益五〇〇ソリドゥス;

  首都ローマ内での邸宅 (pl.) と倉庫 (pl.) 、収益二三〇〇ソリドゥス;

  バッススの農場 fundum Bassi、収益一二〇ソリドゥス;

  所領ラニナエ、カルティオリ地域で territurio Cartiolano、収益二〇〇ソリドゥス;

  カクラエ農場 fundum Caculas、 ノメントゥム地域で territurio Nomentano、収益 五〇ソリドゥス;

  所領スタティウス、サビーニ地域で territurio Sabinense、収益三五〇ソリドゥス;

  所領ムリナエ、アルバヌムのアッピア地域で territurio Appiano Albanense、収益三〇〇ソリドゥス;

  所領ウィルゴ、コーラ地域で territurio Corano、収益二〇〇ソリドゥス;

 15. 海外:

 アフリカの諸部分partes内:

  所領イウンキス Iuncis、ムカリオ地域で、八〇〇ソリドゥス;

  所領カプシス Capsis、カプシタ?ノ地域で、収益六〇〇ソリドゥス;

  所領 Varia Sardana、ミムネンセ地域で、収益五〇〇ソリドゥス;

  所領カマラス Camaras、クリプタルーピ地域で、収益四〇五ソリドゥス;

  所領ヌマス Numas、ヌミディア地域で、収益六五〇ソリドゥス;

  所領スルフォラータ Sulphorata、ヌミディア地域で、収益七二〇ソリドゥス;

  所領ワルザリ・オリーブ園 Walzari oliaria、ヌミディア地域で、収益八一〇ソリドゥス;

諸ギリシア内 in Grecias:

   所領ケファリナ Cefalina、収益五〇〇ソリドゥス;

 Mengaulum*内:

 * これはどうやら現在のマルタ諸島のことらしい。有り体に言えば、マルタ本島(=Melite)とGozo島(= Gaulos)の両島表示か。cf., Mario Buhagiar, Gozo in Late Roman, Byzantine and Muslim Times, Melita Historica, 12(2), 1997, pp.113-129(https://www.um.edu.mt/library/oar/handle/123456789/42390). CIL, X, 7492 : Chrestion, proc(urator) Melite et Gaul ;Louis J. Scerri, Medieval Malta in the Vatican archives, The Sunday Times, 2005/10/16, pp.22-24(http://ofm.org.mt/downloads/ahbar/ahbar2005/ahbarnov05.pdf). ちなみに新約聖書「使徒行伝」28.1-10に登場する ‘Μελ?τη’ は通常マルタ(島)と訳されている。

 所領アマゾン Amazon、収益二二二ソリドゥス。

 16. 同じ頃 Eodem tempore、正帝コンスタンティヌスは、(ひとつの)バシリカを basilicam 祝福された使徒ペトルスのために アポロの神殿内に作り(サン・ピエトロ大聖堂のこと:LP, 22. 4の図参照)、聖ペトルスの遺骸(を収めたそ)の柩を loculum 以下の如く安置した。まさにその柩を loculum 至る方向から undique キプロスの青銅で囲ったのである、(それによって)それは不動となる:

 頭部側に、五ペース;両足側に、五ペース;右側面に、五ペース;左側面に、五ペース;低面に、五ペース;上面に、五ペース;

 こうして sic 彼は祝福された使徒ペトルスの遺骸を閉じ込め、そして安置した[要するに296cmの青銅の立方体で囲われたという記述になるが、20世紀前半の発掘では青銅は確認されていない]。そして上部には赤紫色(斑岩)の柱(pl.) そして別の蔓巻状の柱(pl.) で装飾した、それらを彼はギリシア(各地)から運んだのだ[東部のギリシア世界からのスポリアとしている言及は、cf., Ja? Elsner, From the Culture of Spolia to the Cult of Relics: The Arch of Constantine and the Genesis of Late Antique Forms, Papers of the British School at Rome, Vol. 68 (2000), p.154, n.15。このように物的証拠と発掘報告があるが、それらは必ずしも LP の記述の正確さを立証してはいない:参照、P.ザンデル『バチカン サン・ピエトロ大聖堂下のネクロポリス』上智大学出版、2011年]。

左、コンスタンティヌス帝の大聖堂司祭席を描いた Samagner(クロアチアのプーラ)の象牙製小箱の部分:五世紀作成;右、それに基づいた「コンスタンティヌスの記念物」Memoria Constantiniana の再現図(アポッロ?ニ・ゲッティ他「報告書」による):赤紫色の「円柱」は確認されていないが、蔓棚 pergola を構成していた白大理石の螺旋柱のうち八柱は、現在は教皇専用高祭壇が位置する大クーポラを支える四つの構造体の上部に二本づつ保存されている(下写真の大天蓋の上部左右ニッチに注意)他、私は宝物殿(大聖堂内から入る:有料)でも少なくとも一柱が展示されているのを身近で見たことがある。それと、象牙の図像には祭壇上部に吊り下げられた王冠型のシャンデリアも見えている。
 ?                ?  :なお、サン・ピエトロ大聖堂のベルニーニ作の大天蓋を支えている四柱も螺旋状である。

 17. 彼はまたそして autem et バシリカの basilicae 光り輝く丸天井を金箔で trimma(cf., 10 = trimia)作った、そして祝福されたペトルスの遺骸の上部、それを囲った青銅の上部に、純金製の十字架を作った、重さにして一五〇リブラで、寸法に合わせて in mensurae locus、そこに ubi この文章がある:「コンスタンティヌス正帝そしてヘレナ・アウグスタが、この王者にふさわしい家を同じ輝きによってきらめく広間で取り囲んでいる」CONSTANTINVS AVGVSTVS ET HELENA AVGVSTA HANC DOMVM REGALEM SIMILI FVLGORE CORVSCANS AVLA CIRCVMDAT と、黒っぽい諸文字によって十字架そのものの中に刻まれていた[文法的におかしな文章]。

 18. (彼は)また autem 一〇ペースの燭台を candelabra 数にして四灯設置した、(それは)銀で覆われており conclusa、銀製の「使徒行伝」の諸小像 sigillis (pl.)*、重さ各三〇〇リブラを伴っている;

 *下図のような「使徒行伝」由来のエピソードが描かれていたのだろう。

大英博物館所蔵、42 × 98 mmの象牙板製、430年作成(https://www.nasscal.com/materiae-apocryphorum/ivory-plaques-with-apostle-scenes/)

金製カリックスを三客、ネギ色とヒヤシンス色の貴石(pl.) を伴い、それぞれ四十五個の貴石を持ち、重さ各十二リブラ;

銀製の壺を metretas 二個、重さ各二〇〇リブラ;

銀製のカリックス二十客、重さ各一〇リブラ;

金製のハマ(手桶)二個、重さ各一〇リブラ;

銀製のハマ(手桶)五個、重さ各二〇リブラ;

金製パテナ(一皿)、一羽の鳩付きの純金製鳩小屋(s.) 付き、ネギ色とヒヤシンス色の貴石(pl.) で装飾され、それらは数にして二一五個の真珠付き、重さ三〇リブラ[Michek Fixot, Turris et reliques, in:C.Carozzi, H.Taviani-Carozi, Le pouvoir au Moyen Age, PU PROVENCE, 2005, pp.31-50, n.59 付近では、この教会をラテラノとしているが受け入れがたい];

銀製のパテナ五皿、重さ各十五リブラ;

遺骸の前方に(一つの)金製冠(型シャンデリア) coronam auream、それは farus cantarus (≒ LP. 34. 11 : fanum cantharum )で、イルカ五〇頭付き、重さ三十五リブラ;

銀製 fara、バシリカ中央に in gremio basilicae、三十二灯、イルカ(pl.) 付き、重さ各一〇リブラ;

バシリカの右側に、銀製 fara 三〇灯、重さ各八リブラ;

金メッキの auroclusum 銀製祭壇自体には、ネギ色とヒヤシンス色と白色の貴石(pl.) により至るところ装飾されていて、貴石の数にして四〇〇、重さ三五〇リブラ;

純金製の香料容器 tymiamaterium( = LP, 34,13) 、至るところ貴石(pl.) 、数にして六〇を伴い、重さ十五リブラ。

 19.  同様に item 収入について in reditum、正帝コンスタンティヌスが祝福された使徒ペトルスに提供した obtulit オリエンス管区からの寄進 donum(は以下の通り):

  都市アンティオキア内でのダティアヌスの邸宅、収益 praest. 二四〇ソリドゥス;

  カエネ内での小邸宅 domunula、収益二〇ソリドゥスと一トレミスス;

  アフロディシア内での諸倉庫、収益二〇ソリドゥス;

  ケラテアス内の浴場、四十二ソリドゥス;

  上記の場所の製粉所、収益二十三ソリドゥス;

  上記の場所の小料理屋、収益一〇ソリドゥス;

  マロの庭園、収益一〇ソリドゥス;

  上記の場所の庭園、収益十一ソリドゥス;

 都市アンティオキア近郊:

  正帝に奉納された所領 possessio シュビレス、収益三二二ソリドゥス、紙 charta 一五〇デカデス(一〇枚一セット)、香料 aromata 二〇〇リブラ、ナルドの香油二〇〇リブラ、バルサム三十五リブラ;

 都市アレクサンドリア近郊:

  正帝コンスタンティヌスへのアンブロシウスから奉納された所領ティミアリカ、収益六二〇ソリドゥス、紙三〇〇デカデス、ナルドの香油三〇〇リブラ、バルサム六〇リブラ、香料一五〇リブラ、イサウリカの蘇合香五〇リブラ、相続者無しのエウテュムスの所領、収益五〇〇ソリドゥス、紙七〇デカデス;

20. エジプトに関して、都市アルメニア近郊:

  正帝コンスタンティヌスに奉納されたアガプスの所領;

  所領パッシオノポリス、収益八〇〇ソリドゥス、紙四〇〇デカデス、胡椒五〇メデムノス、サフラン五〇リブラ、蘇合香一五〇リブラ、シナモン香二〇〇リブラ、ナルドの香油三〇〇リブラ、バルサム一〇〇リブラ、リネン一〇〇麻袋 saccus、丁香一五〇リブラ、Cypris油一〇〇リブラ、清浄なパピルスの茎一〇〇〇本;

  正帝コンスタンティヌスにHybromiusが奉納した所領、収益四五〇ソリドゥス、紙二〇〇デカデス、シナモン香五〇リブラ、ナルドの香油二〇〇リブラ、バルサム五〇リブラ;

  属州ユーフラテス内で、都市キュロ近郊:

  アルマナゾンの所領、収益三八〇ソリドゥス;

  所領オバリア、収益三六〇ソリドゥス。

21. 同じ頃 Eodem tempore、正帝コンスタンティヌスは一つのバシリカを basilicam 祝福された使徒パウルスへ、司教シルウェステルの提案で作ったが(San Paulo fuori le mura大聖堂のこと)、彼(コンスタンティヌス)は、彼(パウルス)の遺骸を以下の如く ita 青銅の中に in aere 密封しrecondit、そして封印したconclusit、ちょうど sicut 祝福されたペトルス(の遺骸)のように。そのバシリカに basilicae 彼(コンスタンティヌス)は以下の寄進を提供した obtulit:

 キリキアのタルスス近郊:ゴ(コ)ルディアノン島、収益八〇〇ソリドゥス

 すなわち enim すべての神聖なる諸々の器(pl.)、金製もしくは銀製、または青銅製のものを、以下のごとく ita 供し posuit、祝福された使徒ペトルスのバシリカ内に in basilica 置いたのと同様に sicut 、祝福された使徒パウルスの(バシリカ)にも彼(コンスタンティヌス)は整えた ordinauit。そしてしかし、金製の十字架を祝福された使徒パウルスの場所の上に置いた、重さ一五〇リブラ。

 都市ティルスの近郊:

  所領コミトゥム、収益五五〇ソリドゥス;

  所領テュミア、収益二五〇ソリドゥス;

  所領フロニムサ、収益七〇〇ソリドゥス、ナルドの香油七〇リブラ、香料五〇リブラ、シナモン五〇リブラ;

 都市アエジプティア近郊:

  所領キュリオス、収益七一〇ソリドゥス、ナルドの香油七〇リブラ、バルサム三〇リブラ、蘇合香三〇リブラ、没薬一五〇リブラ;

  所領バシレア、収益五五〇ソリドゥス、香料五〇リブラ、ナルドの香油六〇リブラ、バルサム二〇リブラ、サフラン六〇リブラ;

  所領マッカベス島、収益五一〇ソリドゥス、清浄なパピルスの茎五〇〇本、リネンの麻袋三〇〇。

 22. 同じ頃 Eodem tempore、正帝コンスタンティヌスは(一つの)バシリカを basilicam セッソリアヌム宮殿内に建てたが、そこには ubi かくして etiam、我らの主イエスス・クリストゥスの聖十字架の木(片)のために de ligno、金と貴石で(彼は)密封し recondit、そしてそこに ubi et 教会の ecclesiae 名前を奉献した、それは以来今日もなお usuque in hodiernum diem ヒエルサレムと添え名されてきている[Santa Croce in Gerusalemme 教会のこと];

その場所に以下の寄進を(コンスタンティヌスは)定めた constituit:

 聖なる木(片)の前に、銀で輝いている燭台 candelabra 四灯、それらは四福音書にちなんだもので、重さ各八〇リブラ;

現在のイエスス受難の聖遺物棚と、聖十字架の木片を収めた十字架型聖遺物顕示台

 銀製カンターラ五〇灯、重さ各一五リブラ;

 金製スキフォス、重さ一〇リブラ;

 陪席司祭用の金製カリックス五客、重さ各一リブラ;

 銀製スキフォス三客、重さ各八リブラ;

 陪席司祭用の銀製カリックス一〇客、重さ各二リブラ;

 金製パテナ(一皿)、重さ一〇リブラ;

 金メッキの銀製パテナ(一皿)、貴石付き、重さ五〇リブラ;

 銀製祭壇(一基)、重さ二五〇リブラ;

 銀製ハマ(手桶)三個、重さ各二〇リブラ;

 そして、宮殿自体に隣接する土地凡てを教会の寄進に ecclesiae dono 彼は与えたdedit;

 同様に item 所領スポンサス、ラビカナ街道、収益二六三ソリドゥス;

 都市ラウレントゥム近郊、所領ファトラス、収益一二〇ソリドゥス;

 都市ネペシナ近郊、所領アンジェレシス、収益一五〇ソリドゥス;

 上述の都市近郊、所領テラガ、その収益一六〇ソリドゥス;

 都市ファリスカ近郊、所領ニュンファス、収益一一五ソリドゥス;

 同様に item 都市ファリスカ近郊、ヘルクリウスの所領、そこを彼は正帝に寄進し donauit 、そして正帝がエルサレム教会に ecclesiae 提供した obtulit 、収益一四〇ソリドゥス;

 都市テュデル近郊、所領アングラス、収益一五三ソリドゥス。

 23. 同じ頃 Eodem tempore、彼(コンスタンティヌス帝)は、聖なる殉教者アグネスのバシリカを basilicam 彼の娘の懇願によって建て[Sant’Agnese fuori le mura のこと]、そして同じ場所に洗礼堂を baptisterium(建て)、そしてそこで ubi et 彼の姉妹のコンスタンティアが正帝の娘と共に、司教シルウェステルによって洗礼を授けられ、そしてそこで ubi et 彼は以下の寄進を donum 定めた:

 純金製パテナ二皿、重さ各二〇リブラ;

 金製カリックス、重さ一〇リブラ;

 純金製冠型シャンデリア coronam farum cantharum、イルカ三〇頭付き、重さ一五リブラ;

 銀製パテナ二皿、重さ各二〇リブラ; 

 銀製カリックス五客、重さ各一〇リブラ;

 銀製シャンデリア farum cantarum 三〇灯、重さ各八リブラ;

 真鍮製シャンデリア四〇灯、浮き彫りが彫刻された銀メッキの真鍮の燭台四〇台;

 十二の灯心の金製オイルランプ、泉水の上、重さ一五リブラ;

そして収益としての寄進:

 都市フィグリナエ周辺の凡ての耕地 agrum、収益一六〇ソリドゥス;

 サラリア通り、旧市壁近隣、聖アグネスの耕地凡てに至る、収益一〇五ソリドゥス;

 ムスクスの耕地、収益八〇ソリドゥス;

 所領ウィクス・ピシオニス、収益二五〇ソリドゥス;

 耕地カスラエ、一〇〇ソリドゥス。

24. 同じ頃 Eodem tempore、彼は一つの聖堂を basilicam 祝福された殉教者ラウレンティウスのためにティブルティーナ街道の所領ヴェラヌスの、砂岩製の地下礼拝所の上に supra arenario ctyptae 建てた[San Lorenzo fuori le Mura 教会のこと]。そして、聖なる殉教者ラウレンティウスの遺骸まで、上がり降りするための階段(pl.) を作った。その(聖堂の)場所に、彼はひとつのアプスを建設し、そして赤紫色の大理石[斑岩]で装飾し、そして上方からその場所を銀で覆い conclusit、そして、複数の柵を純銀で装飾した、それらは重さ一千リブラ;

そして、地下礼拝所内のその場所自体の前に、彼は以下を供えた posuit:

 一〇の灯心の純金製オイルランプ、重さ二〇リブラ;

 純銀製の冠、五〇のイルカ付き、重さ三〇リブラ;

 金製燭台二台、高さ一〇ペース、重さ各二〇〇リブラ;

 祝福された殉教者ラウレンティウスの遺骸の御前に、銀メッキの小像群で彼自身の受難(を描いた)、二つの灯心の銀製オイルランプを複数伴い、重さ各一五リブラ。

 彼が提示した obtulit 寄進:

 金製パテナ一皿、重さ二〇リブラ;

 銀製パテナ二皿、重さ三〇リブラ;

 純金製スキュフォス、重さ一五リブラ;

 銀製スキュフォス二客、重さ各一〇リブラ;

 陪席司祭用銀製カリックス一〇客、重さ各二リブラ;

 銀製ハマ(手桶)二個、重さ各一〇リブラ;

 銀製 fara 三〇灯、重さ各二〇リブラ;

 銀製の壺/甕 metreta 、重さ一五〇リブラ、容量 portante 二モディウス medemnos;

25. 同じ場所で;

 キュリアカなる信心深い女性の所領、そこを国庫が迫害の際に占領していたのだが、農場ヴェラヌス、収益一六〇ソリドゥス;

 所領アクア・トゥティア、それに並んで、収益一五三ソリドゥス;

 正帝の所領、サビネの領地、収益、キリスト教徒たちの名義で一二〇ソリドゥス;

 スルフラタエの所領、収益六十六ソリドゥス;

 所領ミキナス・アウグスティ、収益一一〇ソリドゥス;

 所領テルムラス、収益六〇ソリドゥス;

 所領アラナス、収益七〇ソリドゥス;

 セプティミトゥスの所領、収益一三〇ソリドゥス。

 26. 同じ頃 Eodem tempore 、正帝コンスタンティヌスはひとつの聖堂を basilicam 祝福された殉教者たちの司祭マルケッリヌスと祓魔師ペトルスのため建てた、そこは「二本の月桂樹の中」 Inter Duos Lauros(という地名)の地域で[通称は以下の表記:Chiesa dei Santi Marcellino e Pietro ad Duas Lauros]、そしてひとつのmysileum(=mausoleum:初出でここのみだが語義典拠は不明)を、そこには彼自身の母アウグスタ・ヘレナが埋葬されていて、ラビカナ街道で第三里程標である。

その場所に、そして彼の母への愛のために、そして諸聖人への崇敬のため、彼の祈願の(以下の)諸寄進を供えた posuit:

 純金製パテナ、重さ三十五リブラ;

 金メッキの銀製燭台、十二ペースが四台、重さ各二〇〇リブラ;

 金製冠(型シャンデリア)、それは一二〇のイルカ付きシャンデリアで、重さ三〇リブラ;

 金製カリックス三皿、重さ各一〇リブラ、ネギ色とヒヤシンス色の貴石(pl.) を伴う;

 金製ハマ(手桶)二個、重さ各六〇リブラ;

 純金製の祭壇、重さ二〇〇リブラが、祝福されたヘレナ・アウグスタの埋葬墓 sepulchrum(初出)の前に、その埋葬墓 sepulchrum は石材製で ex metallo、赤紫斑岩が purphyriticus、諸小像で彫刻されている;

 銀製 fara canthara 二〇灯、重さ各二〇リブラ。

 27. 同様に、聖ペトルスと聖マルケッリヌスのバシリカの中に、寄進として彼は(以下を)与えた dedit:

 純銀製の祭壇、重さ二〇〇リブラ;

 純金製のパテナ二皿、重さ各十五リブラ;

 銀製のパテナ二皿、重さ各十五リブラ;

 純金製の大きめのスキュフォス、そこには ubi 正帝の名前が記されている、重さ二〇リブラ;

 小さめの金製のスキュフォス、重さ一〇リブラ;

 銀製のスキュフォス五客、重さ各十二リブラ;

 陪席司祭用銀製カリックス二〇個、重さ各三リブラ;

 銀製のハマ(手桶)四個、重さ各十五リブラ;

 毎年、純粋なナルドの香油九〇〇リブラ、バルサム一〇〇リブラ、薫香用香料を上述の聖なる殉教者、祝福されたマルケッリヌスとペトルスに一〇〇リブラ; 

 農場ラウレントゥム、水道渠 forma * 、近くに浴場 balneum と凡ての土地、(それは)セッソリアーナ門からペネストリーナ街道に至るまでずっと、(そして)旅行者用の itineris ラティーナ街道からガブス山まで、ヘレナ・アウグスタの所領、収益一一二〇ソリドゥス;

   * なぜか英訳者たちは forma をこう訳している。場所問題については下図と、cf., Loomis, p.65, n.1.

 サルディニア島、同島に属する凡ての所領付きで、収益一〇二四ソリドゥス;
 メセノ島[Duchesne,p.199,n.93 では、ミセノ半島のこととしている]、同島に属する諸所領付きで、収益一一二〇ソリドゥス;

 マッティディア島、そこにはモンス・アルゲンタリウムがある、収益六〇〇ソリドゥス;

  領地サビーニ内の所領、それは「二軒屋」Duas casas と呼ばれ、ルクレティウス山の麓、収益二〇〇ソリドゥス。

28. 同じ頃 Eodem tempore、正帝コンスタンティヌスは(ひとつの)バシリカを basilicam 首都ローマの Portus に隣接する都市オスティアの中に建てた。(それが)祝福された使徒たちペトルスとパウルスそして洗礼者ヨハネで、そしてそこに ubi et 彼は以下の諸寄進を提供した obtulit[offero]:

 銀製パテナ、重さ三〇リブラ; 

 銀製カリックス一〇客、重さ各二ブラ;

 銀製ハマ(手桶)二個、重さ各一〇リブラ;

 銀製シャンデリア fara cantara 三〇灯、重さ各五リブラ;

 銀製スキュフォス二客、重さ各八リブラ; 

 一皿の銀製の特別な聖油用パテナ、重さ一〇リブラ;

 洗礼用の銀製小鉢、重さ二〇リブラ;

 アッシスと呼ばれる島 insulam、それはポルトゥスとオスティアの間にあり、Digitum Solis に至るまでの凡ての海岸の omnes maritimas 諸所領、収益六五五ソリドゥス;

 グラエキの所領、アルデアティノの領地内 in territurio、収益八〇ソリドゥス;

 クイリトゥスの所領、オスティアの領地、収益三一一ソリドゥス;

 所領バルネオルム、オスティアの領地、収益四十二ソリドゥス;

 所領ニュンファス、収益三〇ソリドゥス。

29. 同様に item、ガッリカヌスが上述の聖なる使徒たちペトルスとパウルスそして洗礼者ヨハネのバシリカに提供した obtulit 諸寄進;以下を彼が提供した obtulit:

 複数のイルカ付きの銀製の冠(型シャンデリア)、重さ二〇リブラ;

 浮き彫り入り anaglyfum 銀製カリックス、重さ十五リブラ;

 銀製ハマ、重さ十八リブラ;

 大所領 massam マッリアヌム、地域サビネンセ、収益一一五と三分の一ソリドゥス;

 農場ピクトゥラ、地域ウェッリテルノ、収益四十三ソリドゥス;

 スリの農場、クラウディア街道、地域ウェゲンタノ、収益五十六ソリドゥス;

 大所領ガルギリアナ、地域スエッサノ、収益六五五ソリドゥス。

30. 同じ諸時代に、正帝コンスタンティヌスは、都市アルバヌム内に、洗礼者聖ヨハネのバシリカを建て、そこに(以下を)供えたposuit:

 銀製パテナ、重さ三〇リブラ;

 金メッキの銀製スキュフォス、重さ十二リブラ;

 陪席司祭用銀製カリックス、十客、重さ各三リブラ;

 銀製ハマ二個、重さ各二〇リブラ;

 所領トゥルヌス湖[Laghetto di Turno:17世紀に干拓されてしまったが、アルバノ湖の西二マイル]とその周辺の諸平原、収益六〇ソリドゥス;

https://www.academia.edu/38387730/Emissario_del_Lago_di_Turno_o_di_Pavona_Castel_Gandolfo_RM_Indagini_speleologiche_e_analisi_delle_antiche_fonti_iconografiche

 モラ農場、収益五〇ソリドゥス;

 所領アルバヌス湖、収益二五〇ソリドゥス;

 ムクスの大所領、収益一六〇ソリドゥス;

 都市 urbe アルバヌスの中の凡ての空き家の兵舎をomnia scheneca deserta[セプティミウス・セウェルス以来アルバーノに駐留していた第二パルティカ軍団 Legio II Parthica も四世紀には縮小された]、それどころか uel 諸邸宅を、正帝がコンスタンティヌスの聖なるバシリカに寄進として提供した obtulit;

 ホルトゥスの所領、収益二〇ソリドゥス;

 ティベリウス・カエサルの所領、収益二八〇ソリドゥス;

 所領マリナス[現Marino:アルバノ湖の北500m]、収益五〇ソリドゥス;

 大所領ネムス[ネミ湖と関連?]、収益二八〇ソリドゥス;

 所領アマルティアナス、地域コラーノ、収益一五〇ソリドゥス;

 所領スタティリアナ、収益七〇ソリドゥス;

 所領メディアナ、収益三〇ソリドゥス。

31. 同じ頃 Eodem tempore 、正帝コンスタンティヌスは使徒たちのバシリカをカプア市内に intra urbe Capua に作った。それを彼[コンスタンティヌス]はコンスタンティナと呼んだ。そしてそこに ubi et 彼は諸寄進を提供した obtulit dona:

 銀製パテナ二枚、重さ各二〇リブラ;

 銀製スキュフォス三客、重さ各八リブラ;

 陪席司祭用カリックス十五客、重さ各二リブラ;

 青銅製シャンデリア、数にして三〇;

 そして彼は(以下の)諸所領を possesiones 提供した:

 大所領 massa Statiliana、メントゥルナエ地域で収益三一五ソリドゥス;

 ガエタ地域内の所領、収益八十五ソリドゥス;

 所領パテルヌム、スエッサ地域で収益一三〇ソリドゥス; 

 ad Centumの所領、カプア地域で収益六〇ソリドゥス;

 スエッサ・ガウロニカ地域の所領、収益四〇ソリドゥス;

 レオの所領、収益六〇ソリドゥス。

32. 同じ頃、正帝コンスタンティヌスは一つのバシリカを都市 ciuitate ナポリの中に作り、以下を提供した obtulit:

 銀製パテナ二枚、重さ各二十五リブラ;

 銀製スキュフォス二客、重さ各一〇リブラ;

 陪席司祭用カリックス十五客、重さ各二リブラ;

 銀製ハマ(手桶)二個、重さ各十五リブラ;

 銀製ファラ二〇灯、重さ各八リブラ;

 青銅製ファラ二〇灯;

 彼はまた送水路のようなものを八マイルにわたり作り、またそして同じ都市の中に in eadem ciuitatem フォルムを作り、そして以下の寄進を donum hoc 提供した obtulit:

 マカルスの所領、収益一五〇ソリドゥス;

 所領キンブリアナ、収益一〇五ソリドゥス;

 所領スキリナ、収益一〇八ソリドゥス;

 所領アフィラエ、収益一四〇ソリドゥス;

 所領ニュムフラエ、収益九〇ソリドゥス;

 砦を伴う[Nisida]島の所領、収益八〇ソリドゥス。

33.  同じ諸時代に Hisdem temporibus、祝福されたシルウェステルは、首都 urbe ローマ内で自身の名義(教会)を第三街区に、トラヤヌス浴場とも呼ばれるドミティアヌス浴場の隣りに建てた、それはシルウェステルの名義(教会)で、そこに正帝コンスタンティヌスは(以下の)寄進をした[=XXXIV.]:

 銀製パテナ、重さ二〇リブラ;

 銀製ハマ(手桶)、重さ一〇リブラ;

 銀製スキュフォス二客、重さ各八リブラ;

 銀製シャンデリア一〇、重さ各五リブラ;

 青銅製蝋燭用カンターラ(燭台)十六台、重さ各四〇リブラ;

 銀製陪席司祭用カリックス五客、重さ各二リブラ;

 ペルキリア農場、サビーニ地域、収益五〇ソリドゥス;

 バルバティア農場、フェレンス地域、収益三十五ソリドゥスと一トレミッシウム;

 スタティア農場、トリブラ地域、収益六十六ソリドゥスと一トレミッシウム;

 ベルクラエ農場、コラ地域、収益四〇ソリドゥス;

 スルピキア農場、コラ地域、収益七〇ソリドゥス;

 タウルスの農場、ウェイイ地域、収益四十二ソリドゥス;

 センティア農場、ティブール地域、収益三〇ソリドゥス;

 ケイア農場、ペネストレ[パエストリーナ]地域、収益五〇ソリドゥス;

 テルムラエ農場、ペネストレ地域、収益三十五ソリドゥス;

 所領サイロン、ベネストレ地域、収益五十八ソリドゥス。

そしてエクイティウスの名義(教会)のために必要なあらゆるものを彼は提供した obtulit。

34. 彼、シルウェステルは、十二月に六回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭四十二名、助祭二十六名;様々は場所のための司教六十五名(の叙階)を執り行った。

 彼は、プリスキッラの墓地に cymeterio、(それは)首都ローマから三里程標のサラリア街道にあるが、十二月三十一日に埋葬された。彼はたしかに公同的で、そして告白者で生涯を終えた quieuit。そして司教職は十五日間空座だった。

第三十五章 マルクス MARCVS【336/1/18-10/7】

 1. マルクスは、生まれはローマで、父はプリスクス、(司教座に)二年八か月二十日間[この期間はおかしい]、着座した。それはまた、コンスタンティヌスの諸時代、そしてナポティアヌスとファクンドゥスの執政官職[Virius Nepotianus,Tettius Facundus:336年]の二月一日から一〇月一日に至るまでであった。

 2. 彼は定めた constituit、(ローマ司教を)聖別するオスティア司教はパッリウムを使用し、そして彼から首都ローマの司教は生別されるべきである、と。そして凡ての教会に関する定めを constitutum 規定した ordinauit。

 3. 彼は二つのバシリカを建てた、一つはアルディアティナ街道にあり[本翻訳冒頭の地図1参照:アッピウス街道のひとつ南を走っていて、バシリカは番号1]、そこに彼は埋葬されていて、そして他の一つは首都ローマ内のパラッキニス近くにある[同じく地図2参照:ティベレ河の中の島のちょっと北]。彼の示唆で suggestione 、正帝コンスタンティヌスは一つのバシリカを提供した obtulit、そこを彼(マルコ)はアルディアティナ街道で墓地と定めていた constituit:農場ロサリウム、平地の凡ての農地ともども、収益四〇ソリドゥス。

 4. 首都内のひとつのバシリカに彼が提供したのは以下の通り:

    銀製パテナ、重さ三〇リブラ; 

    銀製ハマ二個、重さ各二〇リブラ;  

    銀製スキュフォス一個、重さ一〇リブラ;

    銀製陪席司祭用カリックス三客、重さ各二リブラ;

    銀製の冠(型シャンデリア)、一〇リブラ;

    農場アントニアヌム、クラウディウス街道、収益三〇ソリドゥス;

    農場バッカナス、アッピウス街道、収益四〇ソリドゥスと二トレミッシウム;  

    農場オッレア、アルディアティナ街道、収益五十五ソリドゥスと一トレミッシウム。

 3. 彼は首都ローマにおいて十二月に二回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭二十五名、助祭六名を執り行った;様々の場所のため司教たちを二十七名(の叙階を執り行った)。彼はかくして、バルビーナ墓地、アルディアティナ街道に、自分自身の意向によって一〇月六日に埋葬された。そして司教職は二十日間空座だった。

第三十六章 ユリウス一世 IVLIVS I 【337/2/6-352/4/12】

 1. ユリウスは生まれはローマで、父はルスティクス、(司教座に)十三年二か月六日間着座した。それはまた antem、コンスタンティヌスの息子の異端者コンスタンティヌス(二世)[彼はアレイオス派だった]の諸時代、フェリキアヌスとマクシミヌスの執政官職からであった[両者の同時就任はなかった]。彼は多くの苦難に会い、そして一〇か月追放された。そしてこのコンスタンティヌスの死後に、栄光と共に祝福された使徒ペトルスの座へと復帰した。

 2. 彼はバシリカを二つ建てた。一つは首都ローマの中のフォルムの近隣、もう一つはティベレ河の対岸で、そして墓地を三つ、一つはフラッミニネア街道、別の一つはアウレリウス街道、そしてもう一つはポルトゥエンシス街道だった。

 3. 彼は以下の規定を作った constitutum fecit;牧者は clericusだれも訴訟をいかなるものであれ quamlibet 公に起こしてはならない、教会内でのみ以外(ありえない)、そして凡ての者たちに関する教会の信仰についての知見は notitia、書記たちによって per notarios 収集され、そして教会内の凡ての諸文書についてはmonumenta 書記たちの最上位者によって per primicerium 作成が公表されるべきこと confectio celebraretur、あるいは siue 証文 cautiones もしくは uel extrumenta または aut 寄進 donationes もしくは uel 交換 conmutationes もしくは uel 譲渡 traditiones または aut 遺言 testamenta もしくは uel 申し立て allegationes または aut (奴隷)解放 manumissiones は、教会内の牧者の clerici 神聖文庫局経由で per scrinium sanctum 公表されるべきこと celebrarentur。

 4. 彼は首都ローマにおいて十二月に三回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭十八名、助祭四名、様々な場所のため司教たち九名の(叙階を)執り行った。彼はかくして etiam アウレィウス街道で(首都ローマから)三里程標にあるカレポディウス墓地に、四月十二日に埋葬された。そして司教職は二十五日間空座だった。

第三十七章 リベリウス LIBERIVS 【352/5/17-366/9/24】

 1. リベリウスは、生まれはローマで、父はアウグストゥス、(司教座に)六年三か月四日間着座した。それはまた autem、コンスタンティヌスの息子コンスタンティヌス(二世)の、正帝コンスタンティウス三世【正確には二世】に至るまでの諸時代だった。

 2. 彼(リベリウス)はコンスタンティウスによって追放刑に処された、そうなったのは、彼がアッリアヌスの異端に合意するのを consentire 拒んだからで、そして彼は追放刑に三年間服した。そして聖職者たちを集合させて congregans 彼らの協議で consilio リベリウスは[追放中の]彼の代わりに in loco eius、尊者で uenerabilem uirum 司祭のフェリックスを司教に任命した。そしてフェリックスは教会会議を concilium 行い、そして二人の司祭を見つけた。彼らはアッリアヌス派の正帝コンスタンティウスに合意する consentientes 者たちで、ウルサキウスとウァレンスという名前だった。そして彼は四十八名の司教たちの教会会議の中で in concilio 彼らを弾劾した damnauit。

 3. 数日後にまた autem 、嫉妬心でウルサキウスとウァレンスは駆り立てられて、正帝コンスタンティウスに以下を懇願した:リベリウスを追放から呼び戻し reuocauit、彼が一度だけ unam tantum 聖餐を共にするように、(ただ)第二の洗礼はなしとする。それから tunc 決議が auctoritate 急使 agens in rebus のカトゥリヌスによって送付され、そして同時にウルサキウスとウァレンスがリベリウスのもとへとやって来た。とにもかくにも qui リベリウスは正帝の以下の諸指示に合意した consensit、一度だけ unam tantum 聖餐を共にするため異端者たちと会合するように conueniret(=convenio)、ただ tantum 彼らは再洗礼はしない(という条件で)。それから tunc 彼らはリベリウスを追放から呼び戻した reuocauit。

 4. また autem リベリウスは追放から戻ると、聖アグネス(Basilica di Sant’Agnese fuori le mura)の墓地の中で in cymiterio 正帝コンスタンティウスの姉妹のそばに留まり、あたかも quasi 彼女の保証、あるいは auto 懇願によって、リベリウスは都市内に戻ろうとした。それから tunc コンスタンティア・アウグスタは、主イエス・キリストへの信心が深いのだが、彼女は彼女の兄弟の正帝コンスタンティウスに懇願するのを拒んだ、なぜなら、彼女は(彼らの)協議に consilium 感づいていたからである。

この教会やカタコンベ、コスタンツァ霊廟はアウレリアヌス城壁のピア門からノメンターナ街道を北上して2Kmにある。昔はバスで行ったものだが、最近は地下鉄でも行けるようになった。

 5. 同じ頃、コンスタンティウスはウルサキウスとウァレンスと共に、アッリアヌス派の屑どもだった他の者たちを召集し conuocauerunt(=convoco)、そしてあたかも教会会議が行われると報知し、そしてリベリウスを祝福されたアグネスの墓地から(ローマ市内に)呼び戻した reuocauit。そして彼がローマに入ると、まさにその時 in ipsa hora 正帝コンスタンティウスは、異端者たちと、かくしてウルサキウスとウァレンスといっしょに、教会会議を行った。そしてカトリック派 catholices だったフェリックスを司教座から追い払い、そしてリベリウスを呼び戻した。同日から ab eodem die、迫害が牧者層の中で in clero 生じた、教会内部で司祭たちと牧者たちが presbiteri et clerici 殺害され necarentur、そして殉教で花冠を受けるほどだった。司教職から降ろされたフェリックスは、ポルトゥエンシス通りにある彼の小地所に in praediolo suo 留まり、そしてそこで ubi et 七月二十九日に平安のうちに永眠した requieuit in pace。七月二十九日に首都ローマに入ったリベリウスは、異端者コンスタンティウスに合意した onsednsit。

 6. さらに tamen、リベリウスは再洗礼されずに、だが(皇帝との)同意を装い consensum praebuit、そして祝福されたペトルスとパウルスのバシリカ、およびコンスタンティヌスのバシリカを六年間保有した tenuit。そして大規模な迫害が首都ローマ内であった。それは牧者層 clerus と聖職者たちがsacerdotes 教会内にも in ecclesia 諸浴場内にも in balnea 立ち入り introitum できないほどのものだった。

 7. このリベリウスは、大理石製の平板で platomis(≒πλατύς) 殉教者聖アグネスの墓を sepulchrum 飾った。こうして itaque、フェリックスのすべての年数が彼(リベリウス)の叙階期間に in huius ordine 算入されるのである。

 8. 彼は彼の名前のバシリカをLibiaの(肉)市場のかたわらに建て、そして二回の叙階式を首都ローマ内で十二月におこない、司祭十八名、助祭五名、様々な場所のための司教十九名(の叙階)を行った。彼はかくして etiam サラリア街道に埋葬された sepultus est、そこはプリスキッラの墓地の中で in cymiterio、九月九日のことだった。そして司教座は六日間空座だった。

第三十八章 フェリックス二世 Felix II 【355-365/11/22】

 1. フェリックスは、生まれはローマ、父はアナスタシウスで、(司教座に)一年三か月二日間着座した。彼はコンスタンティヌスの息子のコンスタンティウスが異端者で、そして第二に secundo ニコメディアのエウセビウスによってニコメディア付近のアクイローネと呼ばれている別荘で再洗礼を受けた、と宣言した declarauit。そしてこのことが宣言された後に、同じ正帝コンスタンティウス、正帝コンスタンティヌスの息子の指示により ab・・・praecepto、殉教で花冠を受ける。そして頭を切断される。

 2. 彼はバシリカをアウレリウス街道に司祭の顕職を遂行中に建てた。そして、同じ場所の教会内に隣接場所の耕地を購入した。彼はそれを彼が建てた教会に寄進した。

 3. 彼は一回の叙階式で司祭二十一名、助祭五名を十二月に叙階した;彼は様々な場所のための司教九名(の叙階)を行った。彼はかくして etiam 頭を切断される、多くの牧者たちと信者たちとともに cum multis clericis et fidelibus、こっそりと occulte 首都の城壁近く、トラヤヌスの水道渠の側面で ad latus forma Traiana、十一月十一日に。そして続いて exinde 彼の遺骸をキリスト教徒たちが司祭ダマススと共に運び去り、そして前述の彼のバシリカに十一月十五日に平安のうちに in pace 埋葬した。

第三十九章 ダマスス DAMASVS 【366-384年】

 1. ダマススは、生まれはヒスパニア人で Spanus[通例ローマ人で、司祭の子とされている]、父はアントニウス、(司教座に)十八年三か月十一日間着座した。そして同時に Et cum eodem ウェルシヌスが意図的に就任させられた[いわゆる対立教皇];そして、聖職者たちの会議が開かれ、彼らがダマススを定めた。というのは quia より強くそして数的に多数だったからで、そしてこうして et sic ダマススが定められた;そして彼らはウェルシヌスを首都から追放し、そして彼をナポリの司教に定めた;そしてダマススは首都内に、使徒座の長 praesul として留まった。それはまたユリアヌスの諸時代のことだった。

 2. 彼は二つのバシリカを建てた:一つは、劇場に隣接した祝福されたラウレンティウス(のバシリカ)で[San Lorenzo in Damaso:ポンペイウス劇場近く]、もう一つはアルディアティナ街道(のバシリカで)、そこに彼が永眠している[Domitillaのカタコンベ近くにあったが、痕跡は残っていない由]:聖なる使徒ペトルスとパウルスの遺体が安置されているカタコンベに[=San Sebastiano 教会地下の:伝承によれば、西暦 3 世紀のウァレリアヌスの迫害の際、両使徒の遺物がここに隠匿移送され、約 50 年間崇拝された。よってこの教会は別名をBasilica Apostolorumという]、その場所の中に自らの平板(s.)を platomam ipsam、そこに聖遺骸(pl.)が安置されていたのだが、彼は韻文で uersibus 飾った。彼は諸聖人の多くの遺骸を探索し、そして発見した、かくして etiam 彼は彼らの(諸遺骸)を韻文でuersibus 明示したのである。彼は教会に関する規定(s.)を作成した。

 3.  嫉妬でもって inuidiose告発された彼は、姦通によって罪を負わされる incriminatur;そして教会会議が行われ、四十四人の司教たちによって彼は浄められる purificatur、彼らはかくして告発者である助祭たちコンコルディウスとカリストゥスを断罪し、そして教会から追放した。

 4. 彼は首都ローマ内に彼自身が建てたバシリカ(すなわち、San Lorenzo in Damaso)を名義教会に定めた、そしてそこに彼は以下を寄進した:

 銀製のパテナ、重さ二〇リブラ; 

 銀製のハマ、重さ一五リブラ;

 浮き彫り装飾のスキュフォス、重さ一〇リブラ、

 銀製陪席司祭用カリックス五客、重さ各三リブラ; 

 銀製の冠(型シャンデリア)五本、重さ各八リブラ;

 青銅製蝋燭用カンターラ(燭台)、一六台;

 バシリカの周囲のドムス、収益一五五ソリドゥス;

 所領パピラナ、フェレンティヌム地域、隣接の adiacentibus adtiguis付き、収益一二〇と三分の一ソリドゥス;

 所領アントニアナ、カシヌム地域、収益一〇三ソリドゥス;

 名義教会隣接の浴場 balneum、収益二十七ソリドゥス。

 5. 彼は十二月に五回の叙階式で、司祭三十一名、助祭十一名、様々な場所のため司教たち六十二名(の叙階)を執り行った。

 6. 彼は定めた、詩篇を昼夜分かたず die noctuque すべての教会において唱われることを;彼はこれらのことを司祭たち、司教たち、諸修道院に指示した。彼はかくして etiam アルディアティナ街道で彼自身のバシリカ内に十二月十一日に、彼の母と彼の(一人の)姉妹の隣りに埋葬された。そして司教職は三十一日間空座だった。

第四十章 シリキウス Siricivs【384-399年】

1. シリキウスは、生まれはローマ人で、父はティブルティウス、(司教座に)十五年着座した。彼は教会全体に関する法令(s.) を定めた、とりわけ vel 凡ての異端者たちに hereses (Gr.) 対して、そして彼は(それを)全世界に向けて以下を流布した expartsit(=exspargo)、それら(法令?)は、凡ての異端者たちに対する弾劾のため ob oppugnationem、凡ての教会の文書庫に archibo 保管されるように、と。

 2. 彼は以下を定めた、いかなる司祭もミサ聖祭を missas 凡ての週日において挙行してはならない、指定された場所の司教の保証した聖別されたもの、それは「種有りパン」fermentum(cf., chap.33,2)と呼ばれているが、それを受け取ることなしに(ミサ聖祭を挙行してはならない)。

 3. 彼はマニ教徒たちを首都内でみつけた、かくして etiam 彼は彼らを追放刑に処した exilio deportauit;そして彼は以下のように定めた、マニ教徒たちによって改宗させられた者が(正統教会に)帰依したとしても、何人たりとも教会において決して分かち合われてはならない nullatenus communicaretur、修道院の拘束下でその生涯の日々を縛られるほどに罰せられるすることなしに、そして、諸々の断食と祈りによって蕩尽され、凡ての検査によって吟味されるべし、彼の死の最後の日に至るまで、教会の温情で臨終の聖体拝領を uiaticum 彼らに eis 赦し与えるべし、と。

 4. 彼は定めた、異端者は hereticum (Lat.) 両手の下に置くことで sub manum inpositionis(按手礼のことか)和解されるべし、全教会の面前において。彼は五回首都ローマ内で十二月に叙階式を執り行った、司祭三十一名、助祭十六名;様々な場所のため司教たち数にして三十二名。彼はかくして etiam サラリア街道にある、プリスキッラの墓所内に埋葬された。そして司教職は二十日間空座だった。