2018年5月20日発表原稿です。もう先がないので、一応アップしておこうというわけです。
「戦勝顕彰碑としてのコンスタンティヌスのアーチ門」
最初に幾つかお断りしておきます。
1つは、名称の問題で、日本ではこれまで文献番号31青柳先生のように「コンスタンティヌスの凱旋門」と呼ばれてきましたが、私はそれを「アーチ門」と呼ばせていただきます。私なりの考えがあり、それについてはすでに簡単ですが文献番号37で書いているので、ここでは繰りかえしません。
2つ目は、予め提出した発表要旨を若干修正いたします。実はそこで書いた内容をすでに論文にまとめてしまい(文献番号39です)、この場でそれを再述するよりも、さらに話を先に進めたいと考えたからです。コンスタンティヌスのアーチ門が312年のイタリア遠征の勝利を顕彰するものであったこと、そこに描かれたレリーフを詳細に検討してみると、コンスタンティヌス勝利の功労者としてレリーフ上で顕彰されているのは、なんとローマ正規軍団ではなく、ゲルマン人や北アフリカのムーア人といった、いわゆる非ローマ人の兵士たちだったこと、まあすこし前時代風に表現するなら、同盟部族の補助軍だったことが判明します。
これを簡略に皆さんに紹介した上で、今回の発表はさらに進んで、コンスタンティヌス時代に製作されたアーチ門のレリーフ上で、神々の神像やローマ軍徽章類がどのように表現されているか、を検討したいのです。
そして発表の最後に、これは発表要旨に書いておりますが、私が最近ようやく気づいたことですが、すなわち、カエサレア司教エウセビオスがとりわけその著書『コンスタンティヌスの生涯』において、どうやら彼はコンスタンティヌスのアーチ門レリーフの順番順に(西側から南に、東から北側に)依拠して叙述しているようだ、ということに付言したいと思います。
なお、寄る年波で視力が衰え、タイプミスなどあると思いますが、お許しください。
では、さっそく本論に入ります。必要な図版はほとんどすべてレジメに掲載しておりますので、以降それに従い、もし時間が余れば、補足資料をデジタルプロジェクタでお見せすることにします。
レジメ1ページ目をご覧ください。
そこにも書いておりますが、文献番号31の青柳先生は、他については詳細に触れておられるのに、なぜか挿図261で両脇通路に番号を付されておりません。本発表にとってこれは大きな問題となります。 なお、以下、この挿図のナンバーに依拠し、ただアーチ門の壁面レリーフには裏表ありますので、東西南北の方位を付して、たとえばすぐ下の2)に出てくるように、西1といった表記で示そうと思います。すなわち西面のナンバー1というわけです。
スポリアと表現されている2世紀のレリーフには今日、私は触れません。私が扱うのは4世紀初頭に新たに作成されたもの、すなわち挿図での円盤型トンドの2、が東西2枚(これは直径2m2,30cmの大きさです)、そして横長レリーフの、挿図1、14,15(これはばらつきありますが、だいたい高さ1m強、長さは南北面で5m半、東西面のはちょっと長くて6.5mといったところですが)、それらが南北両面にあるので6枚、それに円柱台座、これはおのおの3面あって、それが26から29、そして南北両面にあるので、台座レリーフだけで小計24枚ありました。さらに、先ほど述べた両、脇通路に彫像が東西壁面に各々4体ありますので、8体、総計で検討対象は40 となります。
最初に横長レリーフに関する私の検討結果を、簡単にご報告します。6枚のレリーフのうち戦闘場面を描いたものは、南14と15の2枚ですが、そこでコンスタンティヌス軍の戦闘員として描かれている兵士は、端的にいって3種類のみなのです。レジメ2ページ目の3)がそれです。
まず皇帝をもっとも身近で警護する、ゲルマン人コルヌーティ、彼らは二股の角がある兜をかぶり、特有の模様が描かれた楯を持っています。そして彼らは、西1、南14,15、それにどうやら円柱台座北面29の、左側面にもその特徴的な楯とともに登場しているようです。当時コンスタンティヌスはガリアとゲルマニアを根拠地としていました。その彼にとって、彼らコルヌーティは虎の子の隠し球だった可能性があります。そして私は、後世に文書記録を残したキリスト教関係者,具体的にはエウセビオスとラクタンティウスですが、彼らが、コンスタンティヌスがキー・ローの旗印をひっさげて戦いに臨んだと書いているのを、私はコンスタンティヌス全軍のことではなく、コルヌーティの楯の文様を強引にそう読み込んだのか、それともキー・ローをそれに書き加えたのであろう、以後コンスタンティヌスはそれを旗印として全軍の先頭に歩ませた、としているのを、彼の側近警護部隊、より直接的には、彼の旗印の皇帝旗のこと、と考えているのですが、それについては別の機会に触れることにします。
それから第二に、軽装騎兵、彼らは兜こそかぶっていますが、鎧を着用しているようにはみえません。そして騎乗している馬も重装備で守られているようには表現されておりません。この種の軽装騎兵はもちろん軍団所属や、皇帝直隷野戦機動部隊(コミタテンセス)にもおりましたが、皇帝がより信頼をおいていたのは、同盟ゲルマン諸部族から派遣されてきていた騎兵連隊だった可能性があります。それはローマ騎兵に比べると、格段に騎馬操作技術が巧みだったからです。
彼らはひょっとすると例外的に東1の、ゲルマニア起源の吹き流し軍旗のドラコン旗を奉持して、栄えあるローマ入城式にも参加表現されているのかもしれません。「例外」といったのは、コルヌーティや後から述べるムーア人弓兵の姿は入城式に見ることができないからです。そこでの主役の座はローマ正規軍の歩兵と騎兵でした。帝都ローマに堂々入城する栄えある場面では、どうやらゲルマン人やアフリカ人はお呼びでなかったようです。
余談ですが、私は、ここで第二次世界大戦でのアメリカ軍第442連隊戦闘団を思い出してしまいます。ご存知のように、彼ら日系人兵士たちは、過酷な任務を多大な死傷率で全うし、全アメリカ軍の中で最高の、抜群の戦果を挙げ、しかもローマ入城に最も近く進軍していた部隊だったにもかかわらず、ローマ入城の栄誉からはずされて転進させられましたし、その後も、最初にユダヤ人収容所のダッハウ収容所を発見する功績もあったのですが、それもごく最近まで長く秘匿されてきました。
そして最後になんとなんと、頭に巻いた鉢巻きに矢を蓄えた奇抜な姿で登場している弓兵、それはムーア人、要するに北アフリカのマウレタニア人のことですが、彼らが唐突に南14と南15に登場してまいります。
ちょっと立ち入りますと、このムーア人部隊がなぜコンスタンティヌス軍にいるのかというと、北アフリカはマクセンティウスの勢力圏でしたから、もともとマクセンティウス軍の一翼を担っていたはずで、ところが彼らの登場が南14からですので、ウェローナの戦い以前に、コンスタンティヌス軍に降って、コンスタンティヌス軍に編入されていたと考える研究者と、もひとつ、もっと前に、西の復位したマクシミアヌス正帝軍に所属していたものが、310年6月にマクシミアヌスがアルルで自殺ないし処刑されたあと、コンスタンティヌス軍に吸収されていた、と考えている研究者もいます。
私は両方ともあったのではないかと思ってます。逆からみてみると、コンスタンティヌス軍を迎え撃つマクセンティウスにとって、敵側に予想以上にまとまった数のムーア弓兵部隊が存在していたことが、不意打ちでの一大脅威となったのかもしれません。
こうしてみますと、肝心の戦闘場面での、南14と15での戦闘員がいずれもローマ正規軍とはいえなかった、と言う事実は、やはりいくら注目しても注目しすぎではないように私には思えます。この件はこれまで誰も明確に指摘してこなかったと言っていいと思うのですが、あれだけ公然と衆目にさらされてきたレリーフを、実は誰もしっかりと分析的に見ていなかったわけで、これでは私を含め、研究者としては「ぼやーと生きてんじゃねーよ」と誰かさんに叱られてもしょうがない失態、といわざるをえないでしょう。
さて、この話はここまでにして、第二の論点に入ります。
3ページ目の4)をご覧ください。
東西、脇通路内の彫像は誰が刻まれていたのか。破壊がかなり進んでいるので、明確に断定可能なのは、そう多くありませんが、No.3が、太陽光線を象徴する放射冠をいただいているので、確実にSol神だと断定できます。
その正面No.1には、皇帝にふさわしい豪華な甲冑姿の人物が描かれ、さらに彼を背後上部から押し包むように勝利の女神ウィクトリアの羽根が右側に残存していることから、この甲冑姿はコンスタンティヌスに想定可能で、 ならばNo2が当時コンスタンティヌスと同盟関係にあった東部正帝リキニウスで、 No.4がリキニウスの守護神ユピテル像だった、 よって東通路では、国家制度的側面から、諸皇帝と神々の彫像が並んでいたとは、文献番号7番のロランジの見解です。
破損がより著しい西側についても、ロランジはあれこれ検討した結果、今度はコンスタンティヌスの血縁関係に注目し、コンスタンティヌス王朝プロパガンダに資するべく、コンスタンティヌス、その父コンスタンティウス・クロルス、歴史書ヒストリア・アウグスタで、彼らの先祖に祭り上げられていたクラウディウス・ゴティックス、そしてコンスタンティヌスの義理の父で、正帝に復位したマクシミアヌス、の肖像だったと想定しています。
現在のところ、私はこのロランジ説に対する代案を持ち合わせておりませんが、他はともかくとして、No.1とNo.3に関してはほぼ確実で、となると後述との関わりで、このアーチ門建設時における、ヘリオス・Sol神の位置づけは決定的に重要といっていいのではないかと、思います。
さて続いて5)、円柱台座のレリーフを簡単にまとめてみます。南北それぞれに12面のレリーフがあり(現在欠損1がありますが)、正面はすべて勝利の女神ウィクトリアが描かれ、左右両側面には、捕虜、ローマ兵、勝利のみ印のトロパイオンなどが描かれています。注目すべきは対称性で、若干の相違はあるものの東西・南北で対称的配置となっています。とりわけ注目に値するのは、中央通路に面した内側のレリーフには、明らかに、南側では軍団旗である鷲旗や歩兵大隊旗の軍旗を捧持したローマ兵が、そして北側では神々の神像、具体的には、勝利の女神ウィクトリアと放射冠を戴いたSol神を捧持したローマ兵が刻まれていて、やはりもっとも目を引きます。
ここで余談ながら、他のレリーフでどんな神像や軍徽章が描かれているかを見てみますと、西1の右端に、勝利の女神ウィクトリアとやはり放射冠の痕跡があるSol神が登場するほか、東1の左の隅っこにvexillum 1旒がありました。たぶんこれは皇帝の所在を明示する皇帝旗なのでしょう。そして東1の中央には、先に触れたゲルマニア起源のドラコン旗が2旒、描かれています。
4ページ目をごらんください。さらに北14、それはローマに入城したあと公共広場フォルムの、西の端のロストラ上で、コンスタンティヌスが演説している場面です。彼の頭部は完全に削り取られていますが、その背後に二旒のvexillumが立てられているのが見えます。これは先ほどの東1左隅のそれと同じく皇帝旗だと思われます。
それ以外に彼の背景に5本の円柱が認められ、これらは第一次テトラルキア時代の303年にディオクレティアヌス皇帝位就任20周年を記念して立てられた柱なのですが、それらの中央がユピテル神、左右に四人の皇帝像を戴いておりました。
なお、今回は拡大写真を載せてませんが(2頁、北14参照)、ロストラの左右両端に椅子に座った彫像が一対ありまして、向かって右は、杖と円球グローブを持つ皇帝ハドリアヌス,左は、皇帝マルクス・アウレリウスとされています。
こうして、コンスタンティヌスはテトラルキアの正統後継者であると同時に、2世紀のアントニヌス王朝の後継者でもあることがさりげなくプロパガンダされているわけです。
最後に東西2の円盤型レリーフ、トンドについて触れておきましょう。方位に合致して、東に4頭立て戦車、クワドリガで今まさに海上から天空に浮かび上がってきた太陽神、それを導くアモル、海中でそれを眺めている海の神オケアノスが描かれています。なおここでの太陽神は、放射冠をかぶっていません。西1は、2頭立ての馬車を御しつつ、海中に没しようとしている月の女神Luna、それを先導するアモル、それを海中から見守っている海の神オケアノスが描かれております。
さてこれらのレリーフ、彫像群をトータルで眺めてみて、まずもって注目しておきたいのは、勝利の女神ウィクトリアの頻出、そして太陽神ヘリオス・Sol神像の登場が目立つことです。そして軍、徽章関係では、次に述べる、エウセビオス叙述での強調点a)、とは異なって、コンスタンティヌスがらみの軍旗・神像類に、キリスト教文書から期待されるような、キリスト教的な痕跡がまったく認められない、という事実です。すなわち、コンスタンティヌスのアーチ門の神像・レリーフ表現の核心はヘリオス・Sol神であった、という事実です。これを文献番号37の内容と重ねますと、少なくとも315年段階においてコンスタンティヌスはキリスト教信仰を公表していなかった、むしろヘリオス・Sol神を自らの守護神に選んでいた、ということが再確認されるわけです。従いまして、例えば文献番号34番のポール・ヴェーヌが312年段階でコンスタンティヌスはキリスト教を選んでいた、というような見解は四離霧散することにならざるをえないでしょう。
残り時間も少なくなりましたが、最後に、『コンスタンティヌスの生涯』におけるエウセビオス叙述を辿ることで、ローマに行った記録のないエウセビオスですが、アーチ門建設前後の時期に関する彼の叙述の流れを見てみますと、どうやら彼は、何らかの手段で、コンスタンティヌスのアーチ門レリーフ・トンド等の情報をかなり詳しく知っていて、それに沿って書いていたと考えざるをえないという心証を、私は得たことをご報告しておきます。レジメ4枚目と5枚目に列挙しておりますので、ご一読いただければすぐにご理解いただけることと思います。
このアーチ門において、誰が戦勝の功労者として顕彰されているかというと、どうやらローマ正規軍ではなく、ガリア・ゲルマン系のコルヌーティ、それにゲンマン系軽装騎兵、さらには北アフリカ系弓兵だった、という意外な事実に行き当たりました。
また、神像として突出しているのは、勝利の女神Victoriaを別にすると、明らかに太陽神Helios-Solである。この時期のコンスタンティヌスの軍事力の基盤がガリア・ゲルマニアにあったことを想起すれば、ケルト系の著名な太陽神Apollo-Grannusを、彼が統治開始以来、自らの公式信仰に採用していた、ないしそうせざるをえなかった理由も、論ずるまでもなく自明です。そして、それを当時のキリスト教指導者たちが、(ヒラメ官僚よろしく)イエス・キリストと重ね合わせようと、さまざま贅言を尽くして後付け的に忖度していた、という図式の検討が、今後当面の研究課題となりますが、今日はここまでにしたいと思います。
以上で発表を終わります。有り難うございました。