「原爆一号」と呼ばれた男、吉川清

 吉川清(きっかわ きよし:1911-1986年:享年75歳)氏についてちょっと触れた前ブログで、1947(昭和22)年生まれの私にもぼんやりした記憶が甦ってきた。なんだかそんなことしていた人がいたな、と。当時は売名行為的な感じで受け取っていた気がするが、その彼が峠三吉らとともに最初期の被爆者援護運動の立ち上げや原爆ドーム保存運動に関わっていたことは、知らなかった。

 以下参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B7%9D%E6%B8%85

いずれも広島平和記念資料館蔵:左は日赤入院時で妻の生美さんと、右は背中のケロイド(両手もひどかった)
日本の観光客にも(左)、アメリカ軍の水兵さんにも(右)、ケロイドをさらした
新旧の彼の店舗:場所は若干東に移動したようだが、西蓮寺境内内「広島大仏殿仮奉安殿」*の前付近

 *ちなみにこの「広島大仏殿」がらみの有為転変は、以下参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%A4%A7%E4%BB%8F

 以下、関連情報:

RCC放送「広島の礎3:吉川清さん」2019/10/11放送(https://play.rcc.jp/player/ishizue/6229331060001/)

ETV特集「ドームと生きた男:「原爆一号」吉川清」1997/1/20放送(https://www.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/no-more-hibakusha/library/bangumi/ja/112/)

「夫の背中を伝え続けて:吉川生美さん」NHK「私のヒロシマ」 2005年放送(https://www.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/no-more-hibakusha/library/shogen/ja/5/

「ヒロシマを聞く:「原爆一号」とともに:中傷に耐え貫いた信念 夫の平和運動 妻が支えた」(https://www.hiroshimapeacemedia.jp/abom/04abom/04hiroshima_miraidengon/050403_02.html)

 語り部を続けてきた奥さんの生美さんは2013年12/28死亡、享年92歳。

 こういう事例をみるにつけ、やはり核兵器(A=N)も非人道的武器として、細菌兵器(B)や毒ガス兵器(C)と同等に使用禁止にすべきもののはず、との思いを強くせざるをえない。

 まったくの余談だが、私は、父の転勤で中3で和歌山市から故郷広島市に転居し(自慢ではないが、広島->徳島->浜松->新潟->和歌山->広島と転勤し、父はさらに単身赴任で九州の鹿屋->八代->尾道、そして広島で停年を迎えた)、とりあえず庚午の実家ではなく、官舎の牛田の山の中腹に住んでいた。毎朝7時前に寝不足で夢うつつで山を下り、青バスに乗って広電の電車に乗り換えて、広電宮島線の高須ないし古江で降りて山を登って私立の中高に通っていた。和歌山の中学校で剣道やっていて、そこで先輩たちの防具を使っていたせいで左の爪が疥癬にかかっていたので、学校の帰りに牛田の街中で皮膚科に一時通っていたのだが、そこの先生が被爆者でケロイドで顔も手の指もひどく変形していた(奥さまは普通以上の美人だったので、どんなドラマがあったのだろうか、とつい想像してしまった)。知らなかったので最初見たときはびっくりしてしまった。さすがにその頃になるとひどいケロイドの人を街中で見かけることも少なくなっていたせいだが(夏でも長袖の女性とかはもちろんいた)、たじろいではならじと通ったものだ。

 広島や長崎人は当時結婚や就職で差別を受けていた(ピカはうつる、遺伝する、と)。私が小学校1,2年のころ、父の赴任先が浜松だったとき、末の叔父が結婚したのだが、その式がなぜか浜松で行われ、広島から祖母をはじめあちこちにいた親戚一同も集まってきた。私は、何もわからなかったけど、大勢の親戚が集って大はしゃぎしていたことは覚えている。物心ついてからは、花嫁さんは叔父が仕事で赴任して沖縄で知り合った女性で、要するに広島と沖縄という二重の差別意識を避けるためだったのだろう、と思ったことだ。お嫁さんの兄弟姉妹もやってきていたが(親御さんは来なかったと記憶する)、皆さん内地の大学に留学中の、東大や一橋とか奈良女の学生さんで、当時そういう沖縄優遇の国策が採られていたことも事実だった。

 私の父は海軍にとられて山口の島にいた(末の叔父も満州にいた:父の直ぐ下の叔父は大興安嶺でソ連抑留となった)ので、原爆とは無関係だったが敗戦直後に広島に入った。結婚前の私の母は、たまたま広島での会合に参加していた親戚を探して、3日目に入市したので、いずれも原爆手帳を交付されていた。

 ついでに書いておくと、私の妻の父は戦前に結婚して子供もいたが、やっぱり徴兵されていて、原爆で彼以外の家族全員が爆死し、戦後再婚して生まれた長女が妻だった。だから、原爆がなければ生まれることもなかったことになる。広島にはそんな運命に翻弄された人たちはざらにいた。

 その世代が今消え去ろうとしている。

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