現代韓国のチョッパリ嫌いの原点:遅報(58)

 私の最初の海外渡航は大学院博士課程に進学した24歳だっけの夏の韓国旅行だった。旅費は当時の日本育英会が6月だっけに最初の3か月分まとめてくれた奨学金だった。次は台湾、(文化大革命で大荒れの中国はすっ飛ばし)、インドなんか見て、徐々に地中海になどと妄想していたが、それは資金難とか結婚、年子の誕生などで実現しなかった。

 私が家庭教師した後輩と二人で、たった十日間程度であったが、フェリーで釜山を往復し、慶州を経由してソウル、板門店、飛行機で済州島にも行き、そこの最高峰の山にも登った。年配者にはまだ日本語が通じたし、済州島での山岳ガイドの若者とはなんと漢字の筆記で意志を疎通できたので(今は両方とも無理だろう)、案外気楽な海外旅行だったが、盛りたくさんの異文化体験だった。ここではそのほんの一部をご報告する。

 後述のように時代が時代だったので、宿舎は日本で予約したユースホステル関係(ソウルではYMCA)を選んで、いらぬトラブルは予め避けていたつもりだったが、釜山での最初の夜、部屋にご挨拶にやってきた(と最初私は思った)我らからするとペアレンツの小母さんが、短パンはいた連れの太ももをピチャピチャ叩きながら、いささか乱暴な日本語で「女はいらんか」と言ったのには、本当に驚いた。断ると、じゃあ明日の昼間の観光にいっしょに歩く女性フレンドはどうか、と。それも断ると今度はパートタイムの女性、と畳みかけてくる。僕らは韓国の遺跡を見に来たのでというと、「なんなのこの日本人は」という感じでしぶしぶお帰りになった。キャンプ場によくある野外の炊事場風の場所が風呂代わりで(冷水とタオルで体を拭くのだ)、そこで顔を合わした若い日本人女性から蛇蝎のごとく睨まれて、あのう僕たちは違うんですけどと抗弁もならず、肩身の狭い思いもした。大地がキムチの匂いを発していてなるほどと感心し、食事に出るおかずは魚も肉も野菜もキムチだらけで、真鍮の食器と箸も、ご飯が麦飯だったのも珍しかった(白米だけの銀シャリは法律で禁止されていた由:それほど貧乏だったのだ)。喫茶店で飲んだコーヒーは薄くてまずかった(今考えると、アメリカンだったせいかも。当時日本ではフレンチ焙煎が普通だった)。釜山から慶州への鉄道料金がやたら安かったのにも驚いたし、行く先々のお寺で秀吉のときの「日本の侵略で焼き払われた」という表示に恐縮して、当時最高紙幣だった500ウォン札(私はそれを輪ゴムで束ねて持っていた)を寄附して歩くはめになって、連れに呆れられもした。

 板門店にはソウルの宿舎(YMCA)仲介のバス・ツアーで、別のホテルのロビーに集合して行ったが、アメリカ軍の丸見えトイレにビックリしたり、米軍兵士による事前教育で平和ボケを払拭させられ、これはいい体験だった。しかし、帰りの車中の後部座席で初老の男性現地添乗員(韓国人)と若い日本人男性が堂々と夜の女性の交渉をおやりになっているのを聞くに及んで、さすがに鈍い私も、売春が「国策」なんだ、日本人から円を搾り取れるだけ取れということなんだ、とようやく気付いたのだった。

 今思い返すと50年近く前の世界だったが、こういったことが私の韓国体験であった。なので、このところ韓国が従軍慰安婦をぐちゃぐちゃ言いつのるのが、私には半分不思議だった。あの当時、産業力のない発展途上国(ありていにいえば後進国)にとって、観光業はそんなに元手がかからず現金稼ぐいい商売なのだ、といわれていて、日本での韓国イメージといえば「キーセン(妓生)・パーティー」で、日本人のおじさんたちは大歓迎されていて、買春めあてで大量に韓国や中国に送り込まれていたはずの時代だったのだ(アジア全体がそんな状況だったのかもしれない)。それには触れず、否、忘れたふりしての「慰安婦」問題?、いい加減にしてよ、というわけ。日本バブル期のそういうことを、日本のマスコミも触れようとしていない健忘症も、私には不思議な現象なのであるが。

 そんな思いを深化してくれる記事が目にとまった。「80年代末に激写、韓国「反日・親北」に走る原点:秘蔵写真で振り返る「今の韓国のリーダーたちが学生だった頃」」(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/63104?utm_source=editor&utm_medium=mail&utm_campaign=link&utm_content=top)。 

 私と同世代の韓国人にとって、あのころの日本人男性は国辱ものだったのだろう(戦後日本にもパンパンと呼ばれる女性たちがいた、私に実見した記憶はないが)。70年代といえば朴正熙の時代だったが、そういうことに気付かせてくれたわけである。おそらく彼らの嫌日体験の原点はすでに歴史になってしまっていた「従軍慰安婦」にあったわけではない。それは責め(攻め)やすいからのスローガンで、実態は70年80年代の国辱体験にあるのではないか。

 であれば、と思うのだ。我らの世代が消え去ればひょっとして対等な時代がやってくるかも、と。我ながら楽観的過ぎる気がしないでもないが、そうあってほしいと思ってる。

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