消える現代史資料:遅報(21)

 私の妻は、私が死んだら私の書籍をゴミとして処分するといっている。できれば大学図書館に連絡してくれ、せめて古書店に、と私が言っても面倒くさいので「お断り」だそうだ。マンションの,本来応接間が書架というか物置になっており、玄関から居間を結ぶ廊下も本棚が並んでいるし、いつの間にか居間とか寝室も私の本や書類箱が占領してきているので、気持ち的に分からないわけではない。そもそもマンションの購入費の三分の二は彼女の負担だから、ヤドカリ亭主としてはもとより発言権なしなのであるが。

 退職前に書籍の処分を思い立ち、神田の名の知れた古書店に電話したことがあったが、けんもほろろだった。団塊の世代のリタイア時だったので、よほどの稀覯本でなければ、もうけっこうということなのだろう。所属の大学図書館も、基本的に寄贈は拒否している。書架が満杯ですというのが表向きの理由だが、駄本のゴミ捨て場になるのは勘弁なのは分かるが、選別などで通常業務以外の仕事が増えるからだろうとつい考えてしまうのは、ひがみであろうか。そこをルートをたどって頼んでみたら、英語文献はそれなりに拾ってくれたが、私が貴重と思っていたバチカンの出版のイタリア語文献なんか返って来てしまったので、期待薄とは思いながらも、時代が変わってくれるのを念願して処分せずにまだ持っている。

 その折、我が国で衰退を辿っている私の専門分野古代ローマ史の欧文書籍は、売れる見込みがないので、段ボール売りとなった。それでなくとも国内の古書店はほとんど話にならない品揃えで、大学図書館もあてにならず、勢いインターネットでの海外古書データベースに依存して購入して来た。私の場合はもっぱらAmazonと「BookFinder」である。海外からだから郵送費が本代の5割に達する場合もあった。

 ウェブで「(ルポ2020 カナリアの歌:2)戦争や暮らし、朽ちる紙の資料、いまなら救える」を読んだ(2019/12/31発信:https://digital.asahi.com/articles/DA3S14313570.html)。山のような古書の中から後世に残すに足る書籍を見つけるのは至難の技だろう。商売だから売れ筋が第一にせよ、目利きでないと学術的なものの発掘はできないし、目利きを育てる風土がないと、良書も消えてゆく。

 真の歴史の再現は、これまでの支配者の言説ではわからない、庶民の実際を掘り起こすべし、という理屈をいうのは簡単だが、最近死去した義弟の家にしても、主を失った家から彼の存在痕跡はあっというまに消えてしまう。彼の写真すら,仏壇の遺影以外、親戚にとっても保存対象にならないゴミなのである。私は保存してあった義母の原爆手帳申請時のメモなどだけは持ち帰ったが(その中に高校生当時と思われる妻の生意気そうな写真もあった。妻はそれすらいらないとおっしゃる)。

 思うのだが、iPhone時代になってやたら写真が撮られるようになったが、持ち主が死ねばすべて消えてしまう運命を辿るのではなかろうか。広島の我が家には父母の時代にまだ貴重だった写真が祖父母時代からの写真帳として保存してある。そこに写っている直系の叔父叔母(四名)はすべて死去してしまった(叔父の妻はまだ2人存命)。これは印画紙に焼き付けられ写真帳になっているから残っているのであって、HDに保存されているデジタルなどは、形になっていないので、持ち主とともに跡形もなく失われてしまうはずだ。とはいえ父母と無縁の世代になれば、写真帳も処分の運命となることだろう。そういえば、私の子供二名も、小さいときの写真を見たいとも言わない。孫だってご同様で、ただゲームに夢中である。彼らが書いた絵なども我が家に保存しているが、私が撮った孫のデジタル写真ともどもどうなることやら。

 となると、現代においてすら後世に残りえる史資料とは,庶民にとってどれほどのものなのであろうか。はなはだ心許ないことである。

 実は、次にまとめようと思っている「トイレ」関係の書籍であるが、邦語での関係図書だけでもう30冊手元にあって、ちょっと広めの段ボール箱1つを占めている(翻訳物は数冊。最古のものは、李家正文『厠[加波夜]考』六文館、昭和7年:安いのを購入したこともあり、酸性紙のせいでもうぼろぼろ)。新書や文庫が多いので、これは最終的には50冊を越えるだろう。「日本の古本屋」などに捨て値で出ているのでつい購入してしまう。文庫・新書だとここでも書籍より郵送費が高いのは常である。図書館にあるものは避けているので、両方合わせるとかなりになるはず。内容的に同音異曲が多いが、意外と古いものに面白いエピソードが書かれているので油断できない。

 ま、これも私が死んだら、ゴミ袋に入れられて捨てられるのだろうか。孫が小遣い銭稼ぎに古本屋ではなく「BookOff」なんぞに持ち込むのだろうか。

【追記】戸高一成・大木毅『帝国軍人』角川新書、2020/7、の第5章「日本軍の文書改竄」が興味深い。

p.220-2:(松井石根大将の「陣中日記」の復刻時に彼の秘書だった田中正明が千数百箇所、改竄していた) いったん活字になると原本まで読む人はなかなかいません。当事者あるいは原本まで辿り着くには、面倒なこともいろいろあります。だから、活字になったものを見て済ますことが多い。世の中に出回っているものは「正しいのか?」「これは本当だろうか?」という意識で見ないといけないところがあります。

p.233-4:(宇垣纏「戦藻録」の重要部分を借り出して「紛失」した人物)黒島亀人が、自分に都合の悪いことが書いてあるからという理由で、借りだしたものを「紛失」した・・・、と本人は言いましたが、実際は焼き捨てたのだろうと言われています。・・・ (土肥一夫さんも)軍令部のファイルの何冊かで同じことをされたと言っていました。ああいう困った人が入ると、史料も危うい。

p.225:(エリート軍人は)陸軍幼年学校、士官学校、海軍兵学校では、日記をつけることが習慣づけられます。しかも、それが検閲されるものだから、軍人、特に将校は日記に本音を書かない癖がつきます。

p.232:歴史が難しいのは、伝わりやすい情報や伝わらない情報、伝わりにくい情報など、いろいろあることです。伝わりやすい文献情報だけを見ていると、当時の実際の雰囲気が抜け落ちることある。

pp.239-240:チャンスを逃したら、永遠にわからないままになってしまう史資料もあるわけです。だから個々の、断片的な情報も大切にしないといけません。立派な研究書は長く残りますが、断片資料はなかなか残りません。雑誌や新聞の小さいコラムなど、埋もれてしまったけれど実は貴重な資料もあるわけです。・・・ 貴重な史資料が目の前でどんどん失われつつある時代でもあるのです。

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